(いつかの夏の日)

蝉時雨と読経の声だけが小さな部屋に響いている。泣く者はいない。たった二人の参列者の葬式で彼女の母親は、僧侶の読経中ずっとうつむいていた。それを責めるかのように、蝉たちの喚き声がしていた。

やがて読経が終わると、坊主は軽く会釈し、そそくさと去って行った。母親は、棺に横たわる娘の顔に触れようとして、しかしその手を止めた。

「ふれてあげないんですか」

もう一人の参列者である木内博が、母親に問いかける。

「……いえ」
「これで、最後ですよ」
「わかってます」
「じゃあ……」
「もういいんです」

母親の表情は、どこまでも硬い。

木内がやりきれない思いを持て余していると、病院の職員がやってきて、二人を促すような口調で告げた。

「あの、もういいですか」

母親はその言葉にカッとなって、

「結構です!」

と吐き捨てた。

それから間もなくやってきた数人のスタッフによって、非常に手際よく、遺体は安置施設から運ばれていった。荼毘に付すためだ。しかし、事情が事情なので霊柩車などは用意できない。外には黒塗りのバンが用意されていた。隠れるように、いや、実際隠したかったのだろう、母親は周囲の誰からも見咎められないよう助手席に座ると、ただでさえ小さな体をさらにかがめた。

すべてを見送っていたのは木内ただ一人であった。

木内は、自身の精神科医としての無力さを、正面からぶつけられたような痛みを胸に覚えていた。

爽やかな、初夏に吹き抜ける薫風のような雰囲気の少女だった。ちょっと内気で、詩歌を詠むことが好きで、こちらが話しかけるとよく笑顔で返してくれた。

直接の原因は、誰にもわからなかった。いや、人の心など他者には到底理解できまい。推し量ることはできてもそれが想像の域を出ない以上、詮索すれば傷が深くなるだけだ。原因がどうあれ、あの少女が戻ってくることは二度とない。

陽光がさんさんと降り注ぐこの季節に、一人の少女が自ら命を絶った。

「もうすぐ退院ですね」

そんな会話さえ交わしていた。

ある日の昼食後、編み物に興じていたはずの彼女の姿がふと見えなくなった。

彼女は、作業療法の一環として編んだマフラーを、幾重にも束ねて行為に及んでいたようだった。開放病棟の裏手にある「安らぎの庭」と名づけられた中庭にそびえる大きなすずかけの木、通称「約束の樹」からぶら下がっている彼女を最初に発見者したのは、駆け出しの精神科医だった木内であった。

木内は無我夢中で彼女の首に食いこむマフラーを引きちぎろうとした。何度も彼女の名前を呼びながら、跳ね上がる動悸を制御するすべなどわからないまま、爪に血が滲んでもなお、手を止めることはできなかった。それでもなかなかちぎることができなかったマフラーは、もしかしたら彼女を生涯苛んだ苦悩を代弁していたのかもしれない。

「なんてことを……!」

大粒の汗が木内の額から彼女の首筋に落ち続ける。そして暑さゆえにすべてがすぐに乾いて消えていってしまう。まるで何事もなかったかのように。

彼女の意識が戻ることはなかった。

家族にすぐ一報を入れたものの、その連絡で病院まで駆けつけたのはやや年老いた母親一人だけだった。

「この子は病院でお引き取り願えませんか」

それが母親の第一声だった。

「えっ?」
「この子は、ここで亡くなったんです。自分から死ぬことを選んだんです」
「そう言われても――」

言いかけて木内は言葉を失った。母親の少し落ち窪んで老いた目には、疲弊しきった諦観が滲んでいたからだ。

「夫も、この子とは既に縁を切ったと申しています。もういいんです、だってしょうがないじゃないですか」

「しょうがない」。自分の子の死に対して、なぜそのような表現が使えるのだろう。しかし、木内にはどうしても母親を責めることはできなかった。

「わかりました……。でも、お願いです。せめて、見送ってくれませんか」

蝉が朽ちたところで、誰が泣く? 夏は一方的に過ぎていくだけだ。

一人の少女の人生がひっそりと終わった、静かすぎた夏の日。まだ臨床経験の浅かった精神科医の木内の内面に、大きく影を落としたあの笑顔。

もしかしてこの季節は、きみにとって眩しすぎた?

新規患者の受け入れのための処分として、生前に彼女が使用していたベッドの下から、キャンパスノートを破ったような小さい紙切れが発見された。鉛筆やボールペンは先が鋭利なために病棟では禁止されていることから、作業療法の時間にこっそり持ち帰ったクレヨンで書いたのだろう。

太くて愛らしい肉筆で、紙切れにはこう記されていた。

あめがふらなきゃ にじは かからないよね

木内は白衣を叩きつけるように脱ぎ捨てると、壁に頭を押し当て、容赦なくこみ上げてくる感情に押し流されるままに涙を流した。

第一話 しらない へつづく