カテゴリー: 短編小説

エビフライ

エビフライを揚げていたら、油が跳ねて目に入りそうになった。麻衣子は慌てて洗面所に駆けて、夢中で顔を洗った。というか水で乱暴に何度も拭った。

やだ、どうしよう、跡がついたらやだ。

顔にシミなんて、まだ勘弁だ。

台所から鈍い音と焦げ臭い香りがして、麻衣子は油に火を付けっぱなしだったことを思い出し、慌てて消した。エビが真っ黒焦げになっていた。

あーあ、なんだかな。

黒こげエビは生ゴミ入れに直行だ。

彼氏が初めて家に来る日なので、見栄を張ってエビフライなどを作っては見たものの、普段からあまり料理をしない麻衣子は、背伸びなんてするもんじゃない、とその場で後悔した。

再び洗面所に行って顔を凝視する。油が跳ねたのは目のすぐ下だった。目に入らなかっただけでもよしとしなければならないのであろうが、わずかに右目の下が赤くなってしまった。しかも、まるでわざとフェイスペイントでもしたようにきれいな逆三角形。

まるでピエロだ。

ファンデーションで誤魔化さなきゃ。

麻衣子はすでに化粧を施した顔の上にさらにファンデーションを塗った。麻衣子は貧乏学生生活で苦しい家計の中でも、化粧品代は惜しまない。お気に入りのマキアージュを、丁寧に右目下につけた。

しかし、やけどの跡はいくら塗っても消えない。それどころか、

「え、え、あれ?」

パフを叩くと叩いただけ、肌の赤みが増すのだ。それも、定規で描いたようにまっすぐに、逆三角形が広がっていく。

なんだこれ。

麻衣子がパフを持って硬直していると、携帯電話のメール着信音が鳴った。麻衣子は、なんとなく流行っているので「ドラエモンが秘密道具を出すときの音」を使っている。

ちゃんちゃかちゃんちゃかちゃーん。

彼氏からだ。麻衣子は直感した。女の勘はよく当たるのだ。パフを持ったまま、麻衣子はテーブルの角に置いてあった携帯電話に手を伸ばした。

当たり。

送信者:有本哲哉
件名:ごめん。

本文:ごめん、今日行けなくなっちゃった。それどころじゃないんだ。緊急の仕事が入っちゃって。今度は『必ず』な、ごめんね。

……なんだよ。せっかく味噌汁まで出来あがってたのに。こちとらヤケドまでして手料理振る舞おうとしてたんだぞ。しかも『それどころ』なの?私の家に初めて来ることって。

麻衣子は器用に片手で、すぐに返信した。

送信者:樋野麻衣子
件名:どうしたの?

本文:今度っていつ? 仕事ならしょうがないね。次の機会を待ってるよ。

あー。あたしってすごく優しい。

そういえば麻衣子は彼氏の仕事を知らない。

初めて会ったのは今から1カ月前。池袋を一人でふらついていたら、雑踏の中にも明らかに目立つ、真っ白なスーツ姿の男性を見つけた。手にはジュラルミンケース。どうみてもアヤシイ。時々現れるストリートパフォーマーか?

その時彼は、人ごみの激しいサンシャイン通りのケンタッキー付近でジュラルミンケースを開けた。中から、白いハトが何羽も飛び立っていった。

麻衣子は知らず知らず彼に近づき、そして思ったことを率直に口にした。

「マジシャンですか?」

彼はすぐには返答しなかった。ハトが雑踏を、ビル群を、上手に抜けて飛び去っていくのを見届けてから、ようやく麻衣子を見て、

「違います」

とだけ言った。カラになったジュラルミンケースに、千円札が一枚入っていたので、麻衣子は雑踏の中、自然と財布を取りだし、100円を放り入れた。それをみた彼は、

「どうもありがとう」

と言うと、ケースをぱたんと閉じて、去っていこうとした。

なんで、みんな彼を気にしないの?

今、明らかに目立つ格好じゃん。

今、明らかに妙な行動とったじゃん。

家に帰っても別段やることが(レポート課題以外に)無かった麻衣子は、これを逃したら二度と彼に会えないと直感し、後を追った。彼は普通に歩いていただけなので、すぐに追いついた。

「あの、」

と声をかけてから麻衣子は困った。

「なんですか?」

それが一番困る返答だ。

「あの、どこへ行くんですか」

麻衣子はなんて適当なことを言っているんだろう、と自分を責めた。

「今日はもう仕事が終わったので……、家に帰るのですが」

「どちら?」

我ながら図々しい質問だ。まずその前に、言うべき事があるだろうに。そう自分にツッコミをいれる。

「所沢です。西武線で帰ります」

あ。自分と同じ方向だ。

「私、も、そっちです。はい、」

なぜかすごく興奮した。彼と自分の共通点を見つけた気がしたからだろうか。彼は首をかしげて、

「有本哲哉です。」

と恭しく名乗った。

しまった。声をかけておいて名乗りもしなかったんだ自分。

「樋野麻衣子です。あの、はじめまして」

「あなたも『仕事』帰りですか?」

「いえ、私はまだ学生で。学校が夏休みで、それでヒマだからここで……」

何て自分は間抜けなんだろう。きっと彼がききたいのはそういう事じゃない。

「そうですか。それは失礼しました。もうお帰りですか」

「え、まぁ、はぁ」

「じゃあ一緒に帰りませんか」

びっくりした。

その日の麻衣子は、どこにでもいるいたって普通のおしゃれをした女子大生だった。池袋の東口を、1日冷やかして体を疲れさせて帰るだけのつもりだった。

存在感がありすぎる白いスーツの彼と並んで電車に乗る。

少しだけ周囲の視線が気になったが、嫌な気はしなかった。それ以前に、誰も気にしていないようだった。

なんだ、みんな自分のことでいっぱいいっぱいなんだ。まぁ、私もそうなんだけれど。

帰りの電車で、麻衣子はようやくきちんと自己紹介をした。西武線沿線の大学に通う20歳であること、バイトは週3日であること、好きなアーティストのこと等々……。

彼はうんうん、と麻衣子の話を聞いていた。電車は快速だったのですぐに麻衣子の降りる駅に近づいた。

いけない。このままじゃ、二度と会えない気がする。

「あの、メアド交換いいですか」

自分でも驚くほど積極的だった。彼は嫌な顔一つ見せず、

「どうぞ、赤外線通信はできる?」

「はい、受信します」

駅に着く直前に、互いのメアド交換は無事に終わった。席を立った麻衣子は、

「メールしてもいいですか?」

またしても自分で激しいツッコミをいれたくなることを口走った。何のためのメアド交換だ。

「どうぞ。僕は『仕事』で返信が遅いけれど、それでもよければ」

自然と麻衣子の顔に笑顔が浮かんだ。

それからメールだけでのやりとりがしばらく続いた。いつも麻衣子からメールして、それに彼が返信をする、という形をとっていた。きっと忙しい人なんだろう。だから、麻衣子も彼の負担にならないように、『今日のできごと』や『バイト先の愚痴』などを軽く送る程度に留めて、ひたすら返信を待った。

それが半ば慣例化してきた頃の、ある夜である。麻衣子が『今日友人と行った新秋津のカフェについて』、なんてことないメールを打っているまさにその最中、メールの着信があった。

なんと彼からだった。麻衣子は驚いて、メールの作成を中断し、すぐに彼からのメッセージを読んだ。それだけでももう十分興奮していたのに、内容を読んで麻衣子は心臓が飛び出しそうになった。

送信元:有本哲哉
件名:無題

本文:僕はなんて幸運なんだろう。あの日、君があそこにいてくれて、本当に良かった。出会えたことを感謝するよ。僕は幸せだ!

―――これって、事実上の告白?

麻衣子は何度も何度もそのメールを読み返した。嬉しくて、嬉しくて、狭いアパートの一室にムリヤリ置かれたベッドに寝っ転がって、

「やったぁ!」

と叫んだ。

そして返信した。

送信元:樋野麻衣子
件名:ありがとう

本文:私も嬉しいよ。実は、私ずっとそうだったんだよ。でも言い出せなくて。あなたから言ってもらえるのを待っていたんだ。本当にありがとう。今度、直接会わない?

返信後、それに対する返信が待ち遠しくて、1秒が1分、1分が1時間くらいに感じられた。2、3分してから返信が来た。

送信元:有本哲哉
件名:Re:ありがとう

本文:もちろん会いたいよ、今すぐ。でも仕事とか準備とかあるから、早くて28日になりそう。予定は大丈夫?

夏休みの大学生に、これを上回って優先する予定などあるだろうか。

送信元:樋野麻衣子
件名:もちろん!!

本文:28日だね。大丈夫だよ★どこに行こうか?

それに対する返信は、麻衣子を少し戸惑わせた。

送信元:有本哲哉
件名:Re:もちろん!!

本文:君の家が一番いいと思う。

「えっ」

思わず口に出してしまっていた。最初のデートから彼女の家? 意外にアグレッシブなんだ、あの人……。でもまぁ、こういうのもアリか。

何よりも嬉しさが彼女の判断能力を鈍らせていた。尤も、ここで彼女が冷静な判断能力を発揮できたとして、その後の自分の運命を知る由も無かったのだが。

そうして28日、麻衣子はわざわざ早起きしてスーパーまで食材の買い出しに出かけた。いつもなら適当に済ませる部分である食費を存分にかけて(といっても大学生の“存分”なのでたかが知れている)車エビを買った。

エビフライだ。これしかない。理由は自分でもよくわからないが、これがいいと思った。

 

下ごしらえは本を読みながら、丁寧に施した。後は揚げるだけ、という段階で麻衣子は一旦手を休め、彼が来る前に化粧をしようとテーブルに鏡とポーチを出した。

眉毛は前日に整えておいた。今日は学校に行くときと違って、ベースから慎重に化粧を始めた。

そして自分で納得のいくメイクが完成したので、夕方5時を過ぎたころ、エビを揚げようと思い、慣れない手つきで180℃の油に一匹目を投入しようとした時。

やはり熱いのが怖くて、そっと入れればいいものを、ぼちゃん、と入れたために油が景気良く跳ねて、右目下に跳ねたというわけである。

「ああ、もう」

一人暮らしだと自然と独り言が増える。悲しいことだが、彼のドタキャンは麻衣子のテンションを萎えさせるのに十分すぎた。

しかも、なんだこの肌荒れは。

怒りに任せて、麻衣子は再びパフを持ってファンデーションを塗ったくった。しかし逆三角形は広がる一方だ。どこぞの民族のようになってしまった。

麻衣子は気味が悪くなって、手を止めた。

鏡も見ないことにした。

揚げられるのを待っている残りのエビも、さっき捨てた黒こげのエビも、彼からのメールも全部無かったことにしたい。

麻衣子は自棄になってベッドに潜り込んだ。

疲労感から知らない間に寝てしまっていたらしい。気づいたら真夜中だった。聞き慣れない音がして目が覚めたのである。

コン、コン、コン、コン

………?

窓の方からだ。

コツ、コツ、コツ、コツ、

何かが当たってる音みたいだけど……、と麻衣子はのそのそと体を起こした。ふて寝してしまったのでカーテンはしていなかった。夜だから、すぐに音の正体はわからなかったが、何かが動いているのがわかった。

………鳥?

カカカカカカカカカカカカカカ、窓をつつく鳥の数がどんどん増えている。

何、何が起きてるの?

麻衣子は恐る恐る一歩踏み出して、アパートの小さい窓をのぞき込んだ。そして仰天した。

ハトの大群である。しかも、駅前で餌を漁っている類ではなくて、マジシャンが使うような白いハトだ、暗闇でもわかるくらい白が目立っている。その大群が窓をつついているのである。

「わ、わ、きゃああ」

麻衣子は一瞬でパニックに陥った。腰を抜かした。

その時。この状況にしてはあまりに平和な、インターホンを鳴らす音がした。

ピンポーン。

だ、誰? こんな時に、こんな時間に、誰?

麻衣子が何も出来ずに狼狽して床にへたっていると、閉まっているはずの鍵がカチャカチャと音を立てて、ドアが開いた。

え? え? え? え? え?

「あ!」

姿を現したのは、他でもない彼だった。麻衣子は瞬時に叫んだ。

「助けて!」

彼は指をパチンと鳴らした。するとハトたちが一斉におとなしくなり、近くの電線に整列した。

「場所を教えてくれたんだよ、彼らは」

「……は?」

「ごめんね、遅くなるよ。『仕事』はもうすぐ終わるから」

「え、」

仕事が終わったから来てくれたんじゃないの? 今の現象は何? 今日も白いスーツなの? その格好で何の仕事をしているの? まだ仕事中なの? どういうこと?

多くの疑問が麻衣子の頭を占めて、パンクしそうだった。故に何も口から出てこなかった。彼はそんな麻衣子の様子には構わず、

「もっと早く気づいておくべきだった。あの日あの場所で出会った時に、僕は君のことを同業者だと思った。僕らの職業は陰に属するものだからね。姿さえ認識されないはずの僕を認知した君は、てっきり同業者だと思いこんでいた」」

彼はよくわからないことを言いだした。

「しかしまったくの逆だった。確かに、僕らの、いや『世界の敵』にも、僕らは認識されうる。ついに存在してはいけない種が支配を始めた」

彼はそう言ってからジュラルミンケースの中から、折り畳みの姿見を取りだした。

さっきから彼は何を言っているのだ?

「自分の姿をよく見るといい」

「!?」

鏡に映った自分の顔を見て、麻衣子は頭が真っ白になった。

右目下の逆三角形が飛び出している。角形状になっているのだ。

「偶然でしか僕らは生き延びることができない事が、今ここで証明されるんだ」

それだけではない。目はまるで獣のようにつり上がり、牙まで生えている。

「1999年? ずいぶんと適当な予言だったよ。でも、だからこそ、僕らはこうして地道に『仕事』をこなしていくしかない」

私は、私はどうなっちゃったの?! これは夢か? と頬をつねってみようとしたその手には、不気味にも黒揚羽蝶の塊が蠢いていた。

「きゃあああ」

「声を出すな」

彼は同じくジュラルミンケースから巨大な刃物を取りだした。死神の持つような鎌である。

「まだ奴ら、いや君らは潜んでいる段階だ。生き延びるためには僕らは『仕事』を完全に遂行しなければならない」

「い、いや」

麻衣子は自分の運命を即座に悟った。そして逃走を試みようと窓を開けた。

「無駄だ」

窓を開けた途端、平和の象徴であるはずの白いハトたちが一斉に飛んできた。

化け物を駆逐するためによく訓練されている。麻衣子の目などの急所を狙って次々に飛んでくる。

「いやああぁぁ」

麻衣子は、そのハトたちを追い払うために、両手を振り回した。すると自分でも信じられない現象が起こった。

両手から黒揚羽蝶の塊がぶわっと飛び出してハトたちを取り込んだのだ。ハトたちは慌てて逃げ出した。中にはショック死するものもいた。

何が起きているのだ!?

今、明らかにおかしいことが起きている。

今、明らかにおかしいことを自分はした。それなのに。

黒揚羽蝶に取り込まれたハトは、真っ黒なカラスに変化した。

「ちっ」

彼が舌打ちした。

カラスとなったハトたち(?)は、ケーッ、と汚い鳴き声をあげて私と彼の間に入った。どうやら私を守ってくれるらしい。しかし、

「今までありがとう」

そう言った彼は、私の目の前でカラスたちを鎌で斬って捨てた。白いスーツに血液が付着する。

「あああ…」

私は顔を覆った。ワケが分からなかったが、悲しみの波が押し寄せてきた。

彼は言う。

「僕らは守護者と呼ばれている」

麻衣子は泣き出してしまった。

「今からおよそ450年前、プロヴァンスで怖ろしい実験が行われた」

ただただ悲しくて怖くて、しくしく泣いた。

「ノストラダムスは知っているよね? 彼は予言者として有名になったが、彼は本来医者だったんだ。当時ペストが流行したとき、彼は医者として活躍したが、その時に怖ろしい実験をしたと言われている」

彼はカラスの遺骸を一つ、鎌の柄で払った。

「ペスト菌は一部の人間に於いて、進化遺伝子を狂わせる作用があることを彼は発見してしまった。そして、ペストの治療法が確立されてから、威力を弱めたペスト菌を、ワクチンと称して多くの人間に植え付け、君のように―――――――」

麻衣子は窓に映ってしまっている自分の姿をもう一度見た。妙な場所から生えた角。両手に蠢く黒揚羽蝶。

私が、化け物?

「この菌は宿主が死なない限り、繁殖を続ける。僕のパートナーたちをカラスに、いやカラスのような黒い鳥に変化させたのも進化遺伝子に異常が生じたせいだ」

よく見るとカラス、のような鳥は緑色の泡を吹いて死んでいる。足が6本ある。

「ノストラダムスは1999年7月に恐怖の大王がやってくると予言した。しかしそれは予言ではなく、彼自らが計画した人体実験の結果が出る時に他ならなかったんだ」

しかし予言はやや外れて、7年後の2006年、ノストラダムスの計画を450年前から引き継いできた『組織』によって続けられた人体実験―――ワクチン接種の皮を被った―――によって、一部の人類に変化が見られるようになった。

「僕が駆逐するのは君が初めてだ、麻衣子」

……あ。

彼、初めて私の名前を呼んでくれた。

今はそんなことを考えている場合じゃないのに。

でも、でも…嬉しいなぁ。

麻衣子は突然生気を取り戻し、夢中で彼に駆け寄ろうとした。

「寄るな! 君は殺されるんだぞ」

それでもいいから……。

麻衣子が伸ばした両手は、彼が一瞬のうちに切り落とした。

痛みは感じなかった。両腕からは血と同時に黒揚羽蝶が激しく飛びだした。ぶわっと勢いよく吹き出した血も蝶も、彼を、狭い部屋ごと包んだ。

「う、うわ、うわあああ」

麻衣子の両腕はすぐに黒揚羽蝶によって復元される。

蝶の乱れ飛ぶ中、麻衣子はもう嬉しくて嬉しくて、

「ねぇ、私も『哲哉』って呼んでいい?」

彼を抱きしめた。

「うわあああぁぁぁっ!!」

残りの白いハトは逃げ出した。何匹かは黒い異鳥に変化した。

「ねぇ、好きになっちゃったの、こんなに」

彼の耳、鼻、口、あらゆる場所に黒揚羽蝶が流れ込む。

「ん、ぐ、ぐ、ぐ」

麻衣子は思う存分彼を抱きしめる。狂ったように蝶が飛び交う部屋の中で。

「おいしい?」

麻衣子は少し緊張して訊いた。

彼は笑顔で、

「すごくおいしいよ。いい火加減だね」

「本当! 嬉しい……」

「麻衣子は料理も上手なんだね。もっと食べたい」

真っ黒のスーツに身を包み、顔面に妙なフェイスペイントを施したような痣を持った彼が、夕方麻衣子が三角コーナーに捨てた黒こげのエビフライを食べて言う。箸を持つ彼の手には黒揚羽蝶が蠢いている。

「上手に出来たのはこれ一個だけなの。お腹すいた?」

「いいよ。また作ってね」

「うん」

哲哉は麻衣子の両手に蠢く蝶を毟って食べた。麻衣子に痛みは無い。

むしろ心地いい。

エッチなんかよりよっぽど気持ちいい……。

「偶然だけが、僕らを救ってくれるんだよね」

「そうよ。さっき哲哉が言ったじゃない」

二人は背中から大きな蝶の羽根を広げると、明けない夜の空へと消えていった。

置き去りバレンタイン

【カルテNo.3745 皆川亜樹(ミナガワアキ)】

21歳3カ月、女性。統合失調症。
大学生。入学当初より、一人暮らしの緊張や慣れない土地での暮らしに疲れ、不眠となる。
アパート近くの心療内科に二年間通院。一年ほど前から幻聴出現。陰性症状悪化のため、当病院へ平成17年6月より任意入院。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まぶたを開くのが妙に重たい。固いベッドのせいだ。
脳みそに機械でも埋め込まれているんじゃないかと思うくらい、毎朝ほぼピッタリ午前5時半に目が覚める。もうずっとそうだ。
喉が異様に乾いていたので、亜樹はプラスチックのカップを持ってベッドを降りた。足元がおぼつかない。これもみんなあの飲み下しづらい錠剤のせいだ。疎ましい。

亜樹が足をのそのそと動かしてナースステーションに向かうと、すでに先客がいた。最近入院した元サラリーマンだ。こんな時間なのに、ぱりっとしたシャツを着て、ステーションの机に向かって何か話している。亜樹は興味本位で、彼の話を聞きたくなってそっと近づいた。

「ですから……いつになったら出られるんですか……」「俺はこんなところにいる人間ではないです」「会社をクビになってしまいます。お願いですから……」

亜樹は彼の言葉に少しだけ同情した。
(そりゃあねぇ、こんな場所にいたら誰だって焦るよ、最初は)
すると夜勤帯の看護師は彼をなだめるように言う。

「伊瀬さん、焦ることが一番よくないですよ。もうすぐ起床時間で忙しくなるから、また後でね」

(あの人、イセさんっていうんだ。ふーん)

どうやらイセさんは納得いかないようで、

「主治医に会わせてください! お願いですから……」
「今は無理です。伊瀬さん、病室で休んでみてはどうですか? 少し落ち着きましょう。パキシルでも飲みます?」
「要りません。あれは頭の回転が遅くなる。仕事に支障が出る」
「ですから、まだお仕事には復帰できませんよ。最低でも一ヶ月は入院、と同意したでしょう」
「違う、あれは騙されたんです。入院の“に”の字も俺は聞いていない」
それを聞いた看護師は、これ見よがしに伊瀬さんのカルテを取りだした。
「あ。医療保護入院か。同意したのは奥様ですね」
「香織が勝手にしたことです。これって人権侵害じゃないんですか!」
「伊瀬さん……わかりました。話を聞きましょう。でも、今も言いましたがこれから起床時間で忙しくなります。ですから、朝の服薬が終わってから、にしましょう。どうですか」
「ん……」
イセさんは何か言いたいことがあるがそれを無理に抑えたような表情で、
「わかりました」
と呟き、きびすを返してナースステーションを出た。
亜樹は何も知らん顔で、彼の去っていく足音を聞いていたが、すぐにステーションの中から声が聞こえた。
「皆川さんは、何か用ですか」
亜樹はやべっ、と心で舌打ちしてから、
「はーい」
と澄ました顔でステーションに入った。
「眠れなかったの?」
「いーえ」
「じゃあただの早朝覚醒ね」
『ただの』ってアンタ、そういう言い方はなかろう。と亜樹はツッコミたいのを堪え、
「ね、ね、さっきのサラリーマンだった人、なんで入院してるの?」
自分の好奇心を満たすだけの質問をした。看護師は当然、
「プライバシーだから言えません。皆川さん、もしあなたが誰かに知らずに病名を知られていたら、気分悪くない?」
「それもそうだ」
亜樹は『いつもの』と接頭語が付くくらい決まった場所に座る。それは看護師長の席である。ふかふかの椅子。看護師長はよくここでふんぞり返っている。
「ねー田島さん、田島さんはなんで看護師になったの?」
「看護師になりたかったからですよ」
夜勤の田島さんは亜樹の質問にほぼ自動的に答える。なぜなら、この質問は亜樹からもう何度されたかわからないくらいだからだ。
「ね、こんな歌知ってる? MIsiaの『Everything』」
「誰それ?」
田島さんは50代半ばのベテラン看護師だ。21歳の亜樹と話が合わないのは至極当然である。
「いい歌なんだよ。you are everything~♪」
「皆川さん、まだ起床時間前だから静かにして」
「へーい」
看護師長の椅子を回転させながら、亜樹はさらっと答える。
「でももうすぐ6時じゃん。毎晩9時に寝てたら、いやでも早起きになるって。お年寄りみたいだ。田島さんとか看護師ってさ、夜勤とか辛くないの?」
「もう慣れたものよ。この道ン十年ですから」
「さっすがー」
亜樹が口笛を吹いて、それを田島さんに叱られた時、病棟中の電灯が灯った。
「あ。起床ね。放送かけるから、静かにしててね」
「うん」

『みなさんおはようございます。今日は2月14日の火曜日です。朝食は7時20分です』

亜樹はナースステーションの壁に貼ってある献立表を見た。
「うわ、またヒジキの煮物? 週に2回は出てるし。なんだよ~」
「はいはい、もう自分の部屋に戻って」
「わかりました。けど、ヒルナミンください。朝からうるさくって」
「例の『合唱』?」
「うん」
「少し処方を変えてもらった方がいいかもね。今日神田先生は午後からご出勤だから、相談してみたら?」
「そーっすね」
亜樹の手のひらに粒ミントよりも小さい錠剤がのる。こんなちっぽけな一粒が、自分には必要なんだと思うと、なんだか笑えてくる。

朝食後にラジオ体操があるのだが、まったくもって興味もないし、意味も見いだせないため、亜樹は椅子に座ったまま携帯をいじっていた。
「あ、こら皆川さん。携帯電話は10時からって言われているでしょう」
名前もよく覚えていない看護師に注意されて、亜樹は仕方なく携帯の電源を切った。

(10時からって意味わかんない。誰かが適当に決めたルールだろうな。いと、ばかばかし)

朝のミーティングとやらに出席しなさいと担当ナースの大路さんに言われているので、亜樹はしょうがなくデイルームに顔を出し、適当に席を選んでミーティングが始まるのを待っていた。
ミーティングは10時を少し過ぎてから始まる。なので亜樹は携帯を復活させて話半分に参加していた。ミーティングの議長らしき若い男性患者が、
「それでは、2月14日のミーティングを始めます」
と事務的に言うと、なぜか拍手が起こった。パチパチ、叩いていたのは一人だけだったが。車いすに乗ったおばあさんだ。認知症とやらでここにいるらしい。ミーティングを演説か講演と勘違いしているのか。ちょっと面白い……って不謹慎か。
「では、昨日木嶋さんから提案されました、食事後のテーブルを拭く担当を決める件についてですが……」
ミーティングといってもこんなものだ。まるで学級会じゃないか。まぁ、それなら学校にいるみたいで悪い気はしないが、いい歳の大人が集合してそんなことを真面目に検討することが、なんだか亜樹には今更ながら虚しく感じられた。
「一覧表を作って、ちゃんとわかるようにした方がいいと思います。サボる人が多いからです」
「部屋ご単位で決めた方がいいんじゃないですか? それだったらわかりやすいし、同室なら互いが監視役になれると思うのですが」
「監視って言葉は好きじゃないな、なんだか縛られているみたいで」
等々、意見が取り交わされている中で、中年の男性が突然、怒ったように席を立った。
「原島さん、どうかしましたか?」
議長がそう言うと、原島さんと呼ばれた男性はダン、と床を踏んで、
「そんな細かいことは看護師にやらせればいいだろう! こんなことのために毎朝集まるのは馬鹿馬鹿しい。俺は早くタバコが吸いたいんだ、外へ出せ!」
長年の薬の副作用か、ろれつが回らないので聞き取りづらかったが、原島さんはそのような主旨で怒鳴った。
議長を務めていたのは森さんという30代の患者だったのだが、その森さんは機嫌を損ねたらしく、
「ミーティングへの参加・不参加は自由です。嫌なら出ていってください」
と言い放った。原島さんは「ふん」と吐き捨てて、デイルームを出ていってしまった。
参加が自由? そんなこと看護師から言われたことないし。と亜樹は携帯をいじりながら心中でつぶやいた。

結局何がどうなったのかわからないうちにミーティングは終わり、作業療法の時間になった。
「あー。めんどい」
亜樹の同室患者である山野さんがあくびのついでに大きな声でそう言った。
「亜樹ちゃん。よく毎回行っているわね。面倒じゃない?」
「うーん、でも、ずっと病室にいるよりマシだし」
「あたしは寝てるわ。欠席報告頼んでいい?」
「へいへい、“体調不良”ね」

病棟を出て右に曲がると、すぐに作業療法棟とデイケア施設が見える。亜樹が首から携帯をぶらさげたまま、スリッパをペタペタ言わせながら歩いていると、
「あー、亜樹ちゃんー」
背後から声がした。
「おはよう~元気~?」
ごっちゃんだ。本名は「後藤」で、いつもゴスロリっぽい格好をしているのでそう呼んでいる。ごっちゃんは入院患者ではなく、外来に通いながら作業療法に参加している。
ごっちゃんは左手首に包帯を巻いている、いわゆるリストカッターだ。亜樹はふと、その包帯が新しくなっていることに気づいた。
「ごっちゃん、また切った?」
「うん」
「いつ?」
「昨日」
「ふーん」
作業療法室に入ると、各々が好きなことに興じている。真剣な表情で編み物をしているおばさん、ろくろを回して陶芸品を作っているおじさん、革製品に色を塗っている女の子、漫画を真顔で読んでいる青年。年齢層もバラバラなら、病名もまたバラバラなんだろう。
ちなみに、ごっちゃんは境界性人格障害。ボーダーってやつだ。昨日手首を切ったと言うことは、今日は機嫌がいいはずだ。昨日爆発したのなら、今日は噴火しないだろう。
亜樹は革製品に染色して、小銭入れなどを作っている。この染色がなかなか難しい。間違えても消しゴムで消すわけにはいかない。さらに、製品としてバザーで売るというから、適当な仕事も出来ない。本来、美術が得意だった亜樹にとっては苦にならない作業だが、売り物となると多少緊張はする。昨日は裏面に、青と緑のグラデーションを塗ったのだった。
「さて、今日は……と」
亜樹が筆を探そうと席を立つと、すぐ背後に人がいることがわかった。
「わ」
亜樹が驚いて声を出した。と同時にため息を小さくついた。

(……まーたコイツか)

週3回の作業療法で必ずと言っていいほど毎日ちょっかいをかけてくる男性だ。名前は何度か聞いたが、覚える気がないので覚えていない。亜樹は少し威圧感を込めて、
「すみませんが、どいてもらえません?」
そう言ってから、
(すっげー邪魔だから)
と内心で付け加えた。
すると男性は亜樹の言葉に込められた圧力にあっさり屈し、道を開けた。しかし、背後からついてくるのだ。
「おはよう、皆川さん」
「おはようございます」
亜樹はほぼ棒読みで答える。しかし男性は、
「昨日はどうもありがとうございました」
「は」
「お礼が言いたくて。では」
それだけ言うと、男性は去っていった。いつものようにまた「隣の席、いいですか」などと言われるのかと思いきや、やや拍子抜けだ。

(なんなんだよ、もう)

モヤッとした気分を味わせた彼に軽く苛ついたが、しかし亜樹はすぐに気持ちを切り替えて、筆を見つけると席へ戻った。隣ではごっちゃんが編み物に興じている。
「アイツ、三枝さんって言ったっけ? また亜樹ちゃんにちょっかい出してたね」
「もう放置ホーチ。今日はなぜだかお礼を言われたさ」
「なんて?」
「ありがとうございました、だと」
「何かしてあげたの、亜樹ちゃん?」
「別に何も思い浮かばないけど。あの人の世界で何かあったんじゃないの」
「うっわ、妄想? へー、あの人、外見はそんなに悪くないよね。背ぇ高いし、メガネ似合ってるし、優しそうじゃん」
「……何、アイツのこと気に入ってるの?」
「まっさかー、亜樹ちゃんに悪いよ」
「冗談やめてよ」
小銭入れの表面に鮮やかなグラデーションと花を描き終えた頃には、ちょうど作業療法もおしまいの時間だった。
作業療法士の霜月さんが亜樹の作品を見て「おー」と声をあげた。
「あとは乾燥させて出来上がりだね。いい出来栄えじゃないですか。ちゃんと商品になりますよ。私だったら買うなぁ」
だったら今すぐ買ってよ、と言いたいのを堪えて、亜樹はやや疲れた表情で
「どうも」
とだけ返した。

亜樹のいる病院では、作業療法は週三回行われる。だから、ごっちゃんと会うのも週に三回だ。

「バイバイ。また明後日ね」
「バイバイ。手首切っちゃダメだよ」
「バイバイ」

遠回りして中庭を通って病棟に戻る途中、花壇が目に付いた。花が新しくなっている。色とりどりのパンジーが植わっていた。小さな看板が立っている。

『きらめきの会 お花を大切に』

「きらめきの会」というのはこの病院にある家族会の名称だ。亜樹の母親も参加している。時々会合に出席するのだが、他の患者の親に
「皆川さんは羨ましいわ。お嬢さん、すっかり元気になられて……」
と異口同音に、親と自分のいる前で言われるものだから、あまり居心地のいい場所ではない。まるで自分ばかり「優良患者」みたいな扱われ方なのだ。言葉の裏に、
「あなたは楽でいいわよね、うちなんか、こんなことやあんなことで大変なのに……」
というメッセージが見え見えなのだ。
しかし、植えられた花に罪はない。亜樹は咲き誇るクロッカスを目で楽しんでから、トコトコと病棟へ戻った。

病棟へ戻って小一時間で昼食だ。それまでの時間、亜樹は大抵ベッドに寝っ転がって過ごす。今日もそうするか、とあくびをしながら病棟の扉を開け、デイルームを通過して部屋に戻ろうとした時である。
「皆川さん」
デイルームの方から声がした。たまに聞く声だ。
「あ、豊川さん。こんにちは」
「こんにちは。皆川さん、今、お時間ありますか?」
うむむ、と亜樹は心の中でうなった。昼寝をするつもりです、とはどうも言いにくい。
亜樹が困り顔をしていると、豊川さんは白衣のポケットから折り畳まれた紙を出した。そこにはハローキティのプリントと『亜樹へ』と書かれた母親の字が書いてあった。
(あ、そーか。そういうことか)
「もしよかったら、面会室へ行きませんか」
「はぁ」
白衣を着ているとはいえ、豊川さんは医師ではない。亜樹が入院して初めて知った職種だが、どうやら病院にはソーシャルワーカーなる人種がいるらしい。他にちゃんとカウンセラーはいるので、それとは異なるらしい。
そう言えば以前、豊川さんはこう名乗っていた。

「はじめまして。皆川亜樹さんですね。僕はソーシャルワーカーの豊川といいます。生活上で困ったことや、親御さんに話しづらいことなど、もしありましたら色々相談してくださいね」。
要は何でも屋さん、か?

その『何でも屋』豊川さんに連れられて、亜樹は面会室に入った。すぐに、
「最近、調子はいかがですか」
と豊川さんが聞いてきたので、
「早朝覚醒がちょっと……あと合唱も相変わらず聞こえます」
と答えた。豊川さんはそれを素早くメモすると、脇に抱えていたファイルと先ほどのメモを亜樹の目の前に置いた。
「お母さんから伝言です。亜樹さんの許可をいただければ、一緒に中身を見たいのですが」
「あ、別にいいですよ」
「そうですか。では、開けますね」
『亜樹へ
神田先生から、そろそろ退院のお話が出ています。そのことは亜樹も知っていると思います。ですが、我が家にはまだ、あなたを受け入れるための準備ができていません。もう少し、専門家のいる場所でゆっくり休んでくれませんか。またお見舞い行きます』

「……」
「……」
豊川さんは明らかに困った顔をしている。そりゃそうだろう、本人の目の前でこんなメモ見ちゃったんだから。しかし、当の亜樹は冷めた様子で、
「……別に、いいんです」
とポツリとこぼした。
「皆川さん、もしよければ今度、お母さんと三人で面談しませんか」
「豊川さんと一緒にですか」
「ええ」
「別に、かまわないですが」
「そうですか。では、またご連絡しますね。このメモはどうしましょう」
「あたしにください。母からの手紙だし」
豊川さんは少し思案してから、メモを亜樹に渡した。そして、この場の空気を変えるためか、
「あ、もうすぐ昼食ですね。僕も戻ります。いきなりお訪ねしてすみませんでした」
そう言って、足早に病棟から帰っていった。亜樹は長いため息をつくと、部屋に戻ってベッドに寝っ転がった。
「亜樹ちゃんおかえり」
カーテン越しに患者仲間の山野さんが声をかけてくる。亜樹は返事もせず、ポケットに入れた母親からの伝言が書かれたメモを取り出すと、
(バカだ。みんなバカだ。あたしが一番バカだ!)
こみ上げてくる怒りにも似た悲しみに突き動かされるままに、ビリビリに破って捨てた。

昼食はキツネうどんだ。学食の方がよっぽどおいしい。ぬるい上に味もない。半分残して、亜樹は部屋に戻るとふとんをかぶって寝ることにした。だが、安眠できるわけではない。横になるだけだ。そして――こういう時に限って、聞こえてくるのはウィーン少年合唱団。亜樹には外国語がわからないため、何と歌っているかはわからないが、とても綺麗な歌声だ。神様でも賞賛しているのか?
(ああ、うるさい……)
「皆川さん。また寝ているんですか」
声をかけられて亜樹はハッと目を醒ました。いつの間にか寝てしまっていたらしい。見上げると看護師の大路さんがこちらを覗いている。
「今日のバイタル忘れてました。今からいい?」
「あー……」
亜樹はボーッとした頭を掻いて、時計を見た。もう午後2時半。
「その様子じゃまだお風呂入ってないでしょう」
「はい」
「水曜日なんだから入らなきゃ。じゃないと金曜日まで入れませんよ」
「はい」
亜樹は大路さんがやりやすいように腕を少しあげて、血圧を測ってもらう。体温も測るが、どちらも異常なし。健康そのものだ。……脳以外は。

入浴も適当に済ませて売店に行くことにした。Tシャツにジャージのボトム、そしてスリッパといういかにも入院患者っぽい格好で売店へ行く。もう少し身なりに気を遣いなさいと母親はよく言うが、それができればとっくに退院している。
売店は外来のすぐ近くにある。亜樹の目的は買い物ではなく外来へやってくる人の人間観察だ。
何気ない振りをしてロビーを歩く。喫煙ルームに、疲れた顔をしたサラリーマン風の男性や、これからご出勤? なスタイル抜群の女性がいた。待合室には小さく音楽がかかっているのだが、これが幻聴じゃないかと思ってしまうので正直やめてほしい。まぁ、そもそも亜樹は外来と関係ないのでそんなことを申し出てもしょうがないのだが。
ソファの上で横になって、ブツブツ言いながら泣いている青年がいた。きっと外来患者だ。
ああ、きっと『お仲間』だわ。
あとは親や恋人に付き添われている人が数名。ストレートに羨ましいと思った。
(ばーか。あたしの、ばーか)
売店でジュースと雑誌を購入してから病棟に戻ると、亜樹の姿を見つけた看護師が走り寄ってきた。
「皆川さん、どこに行っていたの? 先生がお待ちよ」
「売店です。ちゃんと外出ノートに名前書きましたけど」
「いいから早く、ね。先生だってお忙しいのよ」
そりゃ忙しいかもしれないが、なんでここであたしが叱られるんだ? 今日は特に診察の予定は無かったはずだけど。
亜樹は不服にも、荷物を持ったまま神田医師のいる部屋まで急いだ。で、いざ部屋に行ってみると神田医師は足を悠々と組んで頬杖をついているのである。

なーにが“先生だってお忙しいのよ”だよ。
「昨日の夜勤帯だった田島さんから申し送りをされてね。皆川さん、あまり眠れていないんだって?」
「あんまり……」
そうか。だから臨時で診察なのね。
「頓服はヒルナミンとリスパダールですが……液体のリスパダールは錠剤に変えて、就寝前にしましょう」
「えっ、薬が増えるんですか?」
「その代わりに毎食後のジプレキサは抜きます。体重を気にしているんだって?」
「はい、副作用で食欲湧いちゃって困っているんです」
「全然、健康的でいいと思うんだけどね。食事は基本です。ちゃんと食べてね」
「はぁ」
「じゃ、いいですよ」
「はぁ」
はい、ありがた~い診察おしまい。

亜樹は却って疲れてしまい、ジュースを一口飲んでからまた横になった。何も考えずに、ただ横になっている。買った雑誌も適当にパラパラめくっているだけだ。
ふとゴミ箱を見た。中身がカラッポだ。そういや午後3時頃、毎日掃除のおじさんが来るのだ。もうこの中にはビリビリにしたメモ用紙はない。ちゃんと『ゴミ』として処分された。

(あーぁ)

無性にムシャクシャしてきて、これではいけないと思い、亜樹はプラスチック製のマグを持ってナースステーションに駆け込んだ。
「すみません、頓服ください」
近くの看護師に訴えた。
「皆川さん。どうかしたの?」
「イライラしちゃうの。何かチョーダイ」
「話、聞こうか?」
「それもお願いします。でも、薬、なんでもいいから……」
「落ち着いて。確かヒルナミンだったっけ?」
「リスパダールは常用じゃなくなったの。あの苦いの、嫌いだったから先生が……」
「今、用意しますね」
この若い看護師は、新人1年目って感じだな。出会う場所が違ってたら、友達になれたような気がする。担当の大路さんはベテランだけど、ちょっと怖い。この人の名前ってなんだっけ?
「はい、ヒルナミン1錠ね。せっかくだからデイルームに行きましょう」
「はい」
デイルームではテレビに釘付けになっている患者が数名(そんなに面白い番組がやっている時間帯ではないと亜樹は思うのだが)、それから麻雀におしゃべりにと、めいめい自由に過ごしている。
亜樹はこの何とも言い難い不安やイライラを解消するために話を聞いてもらおうと思っていたのだが、ふとテーブルの端で、真顔で分厚い本を読んでいる患者が目に留まった。
「皆川さん。どうかしました?」
「えーっと、えっと。何て言う名前でしたっけ?」
「あはは。私は太田ですけど。覚えてくださいね~」
いや、そうじゃないんだけど……でもまぁ、名前が判明したのでよしとするか。
「太田さん。あそこにいる患者さん、最近来ましたよね?」
「伊瀬さんね。彼がどうかしました?」
「えーと。ただちょっと気になっただけです」
「そう。皆川さん、さっきより少し楽になった?」
あ、と亜樹はこぼした。そういえば多少ではあるが気分は安定したように思える。
「まぁ、少しは。薬ってそんなに早く効くの?」
「人それぞれかな。プラセボだって場合もあるし」
「プラセボ?」
「病は気からってこと」
それを聞いた亜樹は、ため息をついて、
「気の持ち方一つで合唱が治まれば……薬はいらないでしょう」
と呟いた。太田さんはそうですね、と頷いてから、
「皆川さんはまだまだ休息が必要ってことですよ。洗濯も入浴も、自主的にできるようになったら外泊もできると思うし」
「んー……」
亜樹は頬を掻いた。別にもういい。家に帰れなくてもいい。だって、
「ここにいれば三食出てくるし。エアコンは年中ついているから真冬でも半袖でよくて楽だし。外泊のメリットが見つからないです」
「そんなこと言わないで。ご家族も心配していると思うよ」
「それは無いな」
亜樹は即答した。
あのメモが脳裏に蘇る。
「どうしてそう思うの?」
太田さんには悪意はないのだろうが、その質問は亜樹のイライラを助長するのに十分だった。しかし、ヒルナミンが効き始めたんだろうか、あの押し寄せてくるような感情の津波はない。ただ、虚しさだけが残る。
(きた、この虚脱感)
「どうしてって……居場所がないから」
「そんな寂しいこと言わないで。少なくともここに私たちはいるから」
「はぁ」
まぁ、それがあなた達の仕事だからでしょうね。
「夕飯まで寝てていいですか? ちょっと疲れたので」
「いいですよ。夕飯になったら起こしましょう。今日の夜勤は長井さんです」
「どうもありがとうございました」
(はー。寝るしかないのもつまらんな)
「亜樹ちゃん、ちょっと来て」
ベッドにまさに横にならんとした時、同室の山野さんが声をかけてきた。
「どうかしたの?」
「いいから来て~」
亜樹は緩慢な動きで斜向かいの山野さんのカーテンを開けた。すると、
「旦那が持ってきてくれたのよ。今日、バレンタインでしょ。よかったら食べない?」
山野さんのベッドの上にはきれいな包み紙とチョコが入っていた。
「え、フツー、逆じゃない?」
そう笑いながら亜樹はハートを象った一個を口に放り込んだ。
「おいしーね」
「でしょ。ゴディバのよ!」
「うっわ、生まれて初めてかも。たまに街で見かけたけど、高くてね」
「私一人じゃ食べ切れないからね。もう星野さんや内藤さんにはあげたの」
「そう。ありがとう」
「亜樹ちゃん、どこ行ってたの?」
「ん、診察と、ちょっと」
「そう」
亜樹の『ちょっと』に突っ込んでこないところが、ここの居心地がいい理由の一つでもある。誰だって嫌だろう、わざわざはぐらかしたことを突っ込まれたら。ましてここは病院だ。誰だってそこそこの何かは抱えているんだろう。というか、病気そのものがその『何か』なんだろうか。
亜樹は山野さんにお礼を言うと、ベッドに横になった。

……つまんないなー……。
21歳ってみんな何してるんだろ?
学校に行って。
彼氏見つけて。
色々やって。
青春しちゃって。
少なくとも、こんな場所で横になってはいないんだろうな。

亜樹は携帯電話を手に取ると、新着メールが届いていたことに気づいた。差出人は、大学の友人である。

『来週の木曜日、遊びにいっていい?』

表現が「お見舞い」ではなく「遊びに」というあたりがあの子らしいな。忙しいだろうに、わざわざ遊びにきてくれるのか。

『サンキュー。午後なら大丈夫だよ。待ってるね』

メールの返信が終わると、亜樹は急激な疲労感を覚えて、薬の影響もあってかウトウトしはじめた。

目の前に階段教室が広がっている。
自分は一人、教室に取り残されている。

(みんな、授業はどうしたの?)
すると見慣れない教授が現れ、
「も~ぅ授業は終わったよ。お前だけが残された。お前は残渣だよ、沈殿したのさ」
口を開けて長い蛇のような舌をチロチロさせる。
気味が悪い。

……逃げたい。

亜樹が目を醒ますと、夕飯の時間が迫っていた。

(あー、よくわかんない夢みちゃった)

気を取り直して、デイルームに向かう。部屋を出た途端、目的地方面から奇声が聞こえた。
「いいいいいいいい!」
(なんだぁ?)
「だから! 俺は帰るんだ! こんな場所にいつまでいればいいんだ!」
(あ、Yシャツのイセさんじゃん)
「責任者を出せ。早くここに連れてこい!」
伊瀬さんは顔を上気させて看護師に喰ってかかっている。男性の看護師が伊瀬さんの胴体を押さえつける。伊瀬さんは、もがきながら、なおも叫ぶ。
「会社をクビになったらどうしてくれるんだ、え!?」
「伊瀬さん、ここは病棟です。静かにしてください」
あの看護師は確か……武田さんだっけ。腕っ節の強そうな顔しているわな。
「うるさい! 早く院長を出せ、直訴してやる」
「伊瀬さん、このままだと保護室か閉鎖行きですよ。それでもいいんですか」
「脅す気か? ふざけるな!」
「脅しじゃないです。取りあえず立見先生に診てもらいましょう。ね」
「いいいいいいいいいいいい!!」
(――変わった叫び方だな)
亜樹はカップ片手に、いたって冷静にその光景を観察している。他の看護師もやってきて、伊瀬さんの説得が始まった。
「勝手に俺の脳にレーダーを埋め込んだのは誰だ!」
「伊瀬さん、ちょっと面会室に行きましょう。皆さん驚いていますから」
「手術をするつもりか? 冗談じゃない!」
「違います。先生がいらっしゃるまで、ちょっと休みましょう」
亜樹のすぐ近くで、またしてもパチパチ、と手を叩く音が聞こえた。あのおばあちゃんだ。車いすに乗りながら手を何度も叩いている。そして何か呟いている。亜樹は少しだけ耳をすませた。おばあちゃんは蚊の泣くような声で、
「ありがたや……ありがたい、神幸、神幸」
と言っている。
シンコウ? あれが演説ってか。
「いいいぃぃぃぃぃ……!」
伊瀬さんは半ば取り押さえられた犯罪者のような格好で、脇を抱えられて面会室に連れて行かれた。
(あーぁ、保護室行き決定かなイセさん。にしても人騒がせな)
亜樹はため息をついて、デイルームの椅子に座った。誰かが使用したままなのか、テーブルにコーヒーのシミができている。しょうがないので台拭きを濡らそうと洗面所へ向かった。
洗面所では、骨と皮だけのように細い手足にあどけなさを残した顔の女性患者が、鏡に映った自分の顔をじっと見つめている。亜樹は特に気にせずに彼女の隣の蛇口をひねった。
「亜樹ちゃーん。今の、聞いてたでしょ?」
「うん」
拒食症のリカちゃんだ。
「今の、私のせいなの」
「何が?」
「だから、彼が荒れちゃったの、私のせいなの」
「ふーん」
亜樹が興味を示さないことが不服だったろう、いかにも続きを話したがっているので、亜樹は彼女の意を汲んで、
「何かあったの」
と棒読みで言ってあげた。するとリカちゃんはガイコツが見えるほど痩けた頬を緩ませて、
「彼、私に告ってきたの。びっくりしちゃった。でも、タイプじゃないから断ったの」
「それで荒れちゃったの?」
「それだけじゃないの。私、本当のことを言っただけなのよ、『あなた、Yシャツにネクタイなんて、ここでは意味無いですよ』って」
「ふーん……」
そりゃ荒れたくもなるわな。亜樹は今朝の会話を思い出しながら台拭きを絞った。
リカちゃんは「みんな寂しいのね」と言い残して去っていった。きっと、リカちゃんは自分がすごく好きなんだろう。まぁ、もう少しふっくらしてたら、美人だろうな。

テーブルを綺麗にしてから、携帯電話をいじっていたら、『夕食の時間です。食前薬のある方は、ナースステーションへお越しください』と放送がかかった。もう6時か。

夕食はコロッケとメンチカツだった。揚げ物ばっかじゃん。またしてもあまり食欲が湧かない。しかし、血糖値が明らかに下がっているのが自分でもわかるので、頑張って全部平らげた。胃もたれを起こしそうな勢いだ。

夕食後の薬を受け取りにナースステーションへ行く。そこでは順番待ちの患者で行列が出来る。毎朝毎晩、これを見て亜樹は
(戦時中の配給みたいだ)
と苦笑するのであった。

寝支度を整えると、すでに時刻は午後8時を過ぎている。消灯まで一時間たらず。この時間に、必ずメールをくれる人がいる。亜樹の兄である。
『件名:こんばんは』
これはもう、毎日この件名なのである。だったら省けばいいのに、とも思うが、几帳面な兄らしいとも思う。
『今日はどんな日だった? 俺は残業です。このメールも、会社から打っています。来週末なら会いに行けると思う』
来週末か……今日がまだ火曜日だから、全然先だ。

返信、返信。

『ありがとう。楽しみにしているよ。お仕事お疲れさま。みんなによろしく』
みんな、とは、すなわち兄以外の家族、両親と妹を指している。発病以来、両親はもとより妹とも疎遠になった。唯一わかってくれるのは兄だけだと亜樹は感じている。
本当はメモのことを兄に伝えたかったが、それは兄の苦悩の種にしかならないと、思いとどまった。
夜9時になると、何の予告も無しに消灯される。廊下と部屋は常夜灯しか点かない。睡眠薬を飲んだ亜樹は、同室の山野さんたちに
「おやすみ」
といつも通りに挨拶してからベッドに潜り込んだ。

はーぁ。つまんない一日が終わろうとしている。
寝て起きたら、またこの繰り返しかな?
明日は作業療法がないし、どうしたモンかね。
イセさん、そういやどうなったんだろう。どうでもいいけど。
「…いー、ぃぃ…」
亜樹はポソリと伊瀬さんの叫びの真似をした。それが妙に似ていて、自分でも可笑しかった。
「くすっ」
笑い声は、静まりかえった病室にやけに響いた。少し虚しくなった。それで、そのうち眠りにつくのである。いつものことだ。睡眠薬が効いて、そこいらの人よりよほどグッスリ寝られる。

「あー……」
午前5時半、キッカリに目を醒ました亜樹は、天井を見上げたまま呟いた。
「……いーぃぃ……」

物語のはじめかた

シンデレラや白雪姫……「お姫様」は、女子の永遠の偶像だ。幼いころ、毎日寝る前に母親に童話を読んでもらっているうちに、比奈子はすっかり絵本に出てくるお姫様に憧れを抱くようになっていた。
比奈子が絵本など読まなくなった高校二年生の冬も、絵を描くのが好きだった彼女は、所属する漫画研究部の原稿に向かいながら、
「私もいつか目の前に王子様が現れて、魔法のキスで幸せになるんだ」

などと夢想しながら、Gペンを滑らせていた。
ペンネーム:清宮あずさ
作品名:星屑のきらめく夜に
きら星のさんざめく夜。流星群が訪れる今宵、少女は不思議な流れ星を見る。流れ星に乗ってやってきたのは、火星の王子様。主人公の少女はその日の学校帰りに、不思議な石を拾っていた。実はそれが火星から失われた『祈りの石』という宝物だった。王子はそれを求めて地球にやってきたのである。二人は、運命的な出会いをする……そして始まるロマンス。
あらすじはこういう感じ。それで、ネームを切って下描きをして、いよいよGペンでペン入れする段階まで来た。絵には、正直自信がない。でも、好きだから描く。どうせ部活の部誌だし、私は素人なんだから、こんなもんだろう。
王子様にきらきらとした目を一個描くのに、二分はかかる。漫画を書くのが想像以上に重労働なのだと、部活に入ってはじめて知った。全体の半分のページにペン入れが終わった頃には、とっくに日付が変わり、気づいたら両親も姉も寝静まっていた。
比奈子は明日も学校があるので、いい加減に寝るかと机を離れた。
寝支度を整えて、いつものようにベッドに転がる。
(……今夜こそ、素敵な王子様に出会う夢が見られますように……)

比奈子は知らない。ロマンスは、過酷な試練を乗り越えた「彼女たち」だからこそ手に入れた、当然の報酬なのだということを。白馬の王子が手を差し出すまでに、「彼女たち」がどんな試練に立ち向かっていったのか。比奈子は童話のハッピーエンドにしか興味がなかったため、そのことを全く考えないで、王子様の登場を夢見ていた。
表現するなら、「強欲な受動態」とでも言おうか。しかしその自覚すらない比奈子のために、また純粋にロマンスを夢見る彼女のために、文字通り「夢」を見せてくれるような奇跡が起きるとしたら、ファンタジックで素敵だが、「現実」はそうはいかない。
その日に限って、比奈子は寝付くことができなかった。しょうがないのでココアでも飲んで眠気を誘おうと、台所に向かった。
音をなるべく立てないように階段を下り、台所の棚を開ける。電子レンジで牛乳を温め、ココアを一口飲む。ほぅ、と息をついて、比奈子は目を閉じた。テーブルに伏せて、そのままの体勢で眠りについてしまった。
次にまぶたを開いたら、目の前には真っ白な世界が広がっていた。
「………?」

(ここ、どこ?)
(あ、私寝ているんだっけ。じゃあ夢か。変な夢)
ドアが三つあるだけの、白い部屋。比奈子はパジャマ姿でマグカップを持ったまま、そこに立っていた。
どうしたらいいのかわからないので、とりあえず歩き回った。
当然、三つのドアが気になる。そっと近づいて、ノブまで真っ白なドアに触れたとたん、一番右側のドアが勢いよく開いた。
「うわっ」
驚いた比奈子は、その場に尻餅をついてしまった。びっくり箱でも開けたようなリアクションに、自分で自分がおかしかった。
しかし、さて、なぜドアが開いたんだろう。
比奈子が見上げると、そこにはまるで絵本からそのまま飛び出してきたような「王子様」がいた。金髪に碧眼、整った顔立ち、豪奢な服装。見まごう事なき王子様。
(王子様?)
(あら、夢に王子様が出てきた!)
比奈子は目が点になったものの、「夢」の夢がかなったのだと直感し、
「王子様!」
と叫んだ。王子様はニコッとった。
「どうもありがとう」
「……い、いいえ」
何が何だかだかわからない比奈子は、しかし、彼の笑顔に一目惚れした。そしてどうせ夢ならばと勢いで、
「あなたは、私の王子様ですか」
「ええ」
「そうですか……」
(なんてことだ。本当に「私の」王子様が来てくれた!)
よくわからないけど、とにかく嬉しいので、比奈子は、ぽけーっと王子様の顔に見とれた。
「僕の顔に何かついていますか」
「え、あ、いいえ、違います……」
(やった、やった! 思い続けた甲斐があった)
王子様はひざまずき、比奈子の手を取った。そして流麗な言葉遣いで比奈子に問いかける。
「あちらに樹があるのが、見えますか」
「はい」
「何の樹かわかりますか」
「えっと……なんかなっているわ。木の実かしら」
「林檎です」
「ああ、確かに」
白い部屋の中、自分たちのいるちょうど対角線上に一本、林檎の樹があった。
(どこかで聞いたような伝説があったような。そうだ、校舎裏の杉の下で告白すると、必ずうまくいくって学校の伝説。それに似てない?)
「さぁ、早くしましょう」
「何をですか?」
比奈子の問いかけに、王子様は尚もニコリと笑って、
「儀式です。あなたと僕が結ばれるための」
などと言うものだから、比奈子はすっかり夢見心地で(いや、夢なのか?)何の疑いも持たずに林檎の樹へと向かった。
(――――この樹の下で、私達、これからキスするんだわ。夢は見るものよ、やっぱり。白雪姫は幸せ者なんだわ……)
比奈子がドキドキしながら王子様についていくと、王子様は赤く実った林檎を一個もぎ取った。
「いい色だ……まさに打ってつけじゃないですか」
「甘くておいしそうですね」
「それはもう。甘さと口当たりは最高級です。ぜひ」
「はい」
比奈子は王子様から林檎を受け取ろうとした。が、ふいに王子様は林檎を指しだした手を引っ込めた。
「え?」
王子様はあくまで柔和な笑顔を崩さないまま、
「大事な仕上げを忘れていました。ちょっと待ってください」
「?」
懐から、服装にまるで合わない注射器を取りだして、
「これがないと意味がありませんから」
林檎に注射をした。すると林檎はより赤みを増し、ツヤツヤになった。
「何をしたの?」
王子様はあくまでも、あくまでも柔和な笑みを崩さないまま、
「鈴蘭から取った毒を入れたんですよ」
「は?」
「さぁ、どうぞ」
「どうぞ、って言われても……」
比奈子は少しずつ、自分の置かれた状況を理解し始めていた。
王子様が持っているのは毒林檎。それを食べたら、お姫様は死ぬ。
そして、王子様のキスで蘇る。
だけど、絵本の通りではないじゃない。
毒林檎を持ってくるのは意地悪な女王の化けた老婆のはず……。
「どうしました?」
「無理よ。こんなもの食べられないわ」
「……何故?」
「だって、嫌よ死ぬなんて。毒林檎なんか食べたくない」
その状態で固まってでもいるのだろうか、王子様は相変わらず笑顔のまま、
「それは困ります。あなたが一度死なないと、僕らは結ばれないじゃないですか」
笑顔でこんな事を言う王子様が、比奈子には一気に不気味に感じられた。
「い、嫌よ」
比奈子はその場から走って逃げた。王子様は別段追いかけるようなことはしない。ただ、じっとこちらを見ている。
比奈子は避難しようと、3つのドアのうち真ん中を開いた。すると、
「私を選んでくれるの? お嬢さん」
別の王子様が出てきた。艶めく黒髪、豪奢な服装の王子様。
比奈子は叫んだ。
「あ、あっちにおかしな奴がいるの。助けて!」
「それはおやすい御用……条件が一つあるけれど」
「何、私に出来ることならなんでもやるわ」
「では、いい返事をいただいたので―――」
黒髪の王子様は背負っていた矢を一本取り出すと、
「ウィリアム・テルに叱られるかな」
と言ってから、慣れた手つきで金髪の王子様めがけて弓をしならせた。
―――トン、
というあまりにも軽い音を立てて、金髪の王子様の笑ったままの眉間に矢が突き刺さり、彼はその場で息絶えた。
比奈子は突然の出来事にびっくりして、
「な、なにも殺さなくても……」
「でもこれで、お嬢さん、あなたは毒殺されることはなくなったわけだ」
「そんな……」
黒髪の王子様は、懐からガラスの靴を取りだした。
「さぁ、履いてみせて。本当のシンデレラにしかこれは履けないんだよ」
昔、ディズニーランドでガラスの靴のレプリカを見たことあったが、現物に触れるのは初めてだ。
比奈子はおっかなびっくり、足を入れてみた。
靴は比奈子の足にピッタリだった。
「よかった。これで物語を始めることが出来る。君が選ばれたお姫様。私は一国の王子。あなたが私の元へとやってくるには、まずしなければならないことがある」
「毒林檎はもう嫌よ」
「何でもすると言ったよね? だから、まずは……シンデレラと同等の目に遭わなければならない」
「……、あ、シンデレラはそうだ。継母や義姉達に虐められるんだわ」
比奈子は慌てて周囲を見回した。だが、視界の端っこに、金髪の白雪姫の王子様の死体があるだけで、他には誰もいない。
どうなるんだろう、と比奈子が口に出す前に、黒髪の王子様は今度は弓矢をこちらに向けている。
「え?」
「ゲームをしよう。私が十秒数える。その間に君は逃げる。十秒に一回、私は目を閉じたまま矢を放つ。矢を五回、避けられたらゲームクリア、君の勝ちだ」
「な、何よそれ」
黒髪の王子様は、澄ました表情一つ変えず、
「相手を精神的・肉体的に同時に、一気にいたぶるには、ピッタリなゲームだろう?」
言い放った。
違う、こんなんじゃない。家でいじめられて、でもかわいそうな私の元には魔法使いが現れるはずなんだ。そしてこの靴を履くことで私は認められ、ついに王子様とゴールインするんだ。こんな趣味の悪いゲームなんて、冗談じゃない。
「ちょっと……」
「じゃあ数えるよ。十……九……」
比奈子は自分がどんな顔になっているか、想像もしなかった。彼女の表情はいまや、夢見る少女のそれではない。不条理と恐怖に歪んだ、それは哀れなものであった。
「八……七……」
何はともあれ、逃げなきゃ。比奈子は反射的に、残る最後の扉を開けた。
すると、まばゆい光が射して、視界はホワイトアウトした。ドアの向こうから、声がする。
「早くしなさい! 早く自分で決着をつけなさい!」
どこか聞き覚えはあるのだが、誰の声かはわからない。
「さっさと夢から醒めなさい! あなたは気づくべきだ!」
どういうこと? あなたは誰!?
「わかっているはずだよ。あなたが僕に光を与えたんだから!」
えっ。
「六……五……」
まさか、あなたは……。
「決めなさい、奴はカウントダウンが終了しないと撃ってはこないのだから!」
「四……三……」
「――――っ!」

比奈子はその場の勢いに任せて、ガラスの靴を脱ぐと、そのままそれを握りしめ黒髪の王子様の後頭部に殴りかかった。
威力は相当なものだったらしい。一撃で王子様は倒れ、弓矢を構えたまま痙攣を起こしている。やがてピクリとも動かなくなった。
光の方から、声がさらに言う。
「早く目を醒ましなさい」
白い空間は、二人の王子様の血ですっかり汚れてしまった。
(……もういやだ、こんな場所。
私はお姫様なんかにはなれない。なりたくもない。
朝起きたら普通にご飯食べて学校行って、部活で騒いで帰りたい。
私は夢などみたくない、こんな夢なんて、見たくない)
「現実に帰りたい!!」
光の方から腕が伸びてきて、そのまま比奈子を引っ張った。
白い部屋はぐりゃりと歪んで、二つの死体を巻き込んで消え去ろうとしている。
「助けて!!!」
比奈子は勢いよく体を起こした。
台所だ。時計は真夜中の三時半近くを指している。
伏せて寝ていたせいで、腰が少し痛む。
「夢か……」
(そうだよね。夢に決まっているじゃん)
比奈子は、本気で冷や汗をかいている自分が恥ずかしくなって、小走りで部屋に戻った。
机の上には、ペンを入れかけの原稿用紙。描かれているのは美形の王子様。比奈子はそれが急に気持ち悪く感じられてしまった。
「……これでいいんだ」
ああ、そうか。今わかった。
光の先にいたのは、この王子様だったんだ。
どうりで聞いたことあるけどわからないわけだ。
ペンネーム:清宮あずさ
作品:星屑のきらめく夜に
きら星のさんざめく夜、少女は不思議な夢を見る。夢からさめるための夢を見る。思い描くロマンスの裏側を知ってしまったのである。少女が自分自身の内なる声に耳を傾けたその瞬間から、少女は夢という名の妄想をいだくことはなくなった。
今宵の流星群だって、要は宇宙のゴミの集まりなのだ。ゴミに願いをかける私達は、それだけでもう、十二分に幸せなのかもしれない。おしまい。
比奈子がそんな単純なことに気づくために、果たして王子様二人分の命が必要だっただろうか?
夢は夢。
しかし帳尻合わせは必ず訪れる。
物語が始まるには、いつだって犠牲が必要なのだ。
彼女が捧げたのは無垢な少女だった自分。
二度と戻れない、そんな分岐点を、気づかない間に通過する人の方が圧倒的に多い。
いつからだろう? 夢を「見るだけじゃダメ」なんてみんなが言い出したのは……。
「夢を見るには代償を払わないといけない」
捧げられた美しい二人の王子の命。その重さを彼女が知る日も、そう遠くはない。
知ったその瞬間から彼女を苛むであろう罪悪感が、舌を湿らせながら待ち伏せている。
流星の多い日に自殺者が多いという都市伝説は、あながち根拠がないとは言えないのかもしれない。
比奈子に、あっけなく日常が戻ろうとしている。朝がやってくる。
「彼女」への最後の警告。―――物語が始まるには、いつだって、犠牲が必要なのだ。

逝夏

「まるでショパンに対する冒涜よ。そんな弾き方ってないわ」

僕の『幻想即興曲』を水玉はそう評した。

「そうかな」

僕はこみあげる感情と一緒に指先でG#を抑える。反論するわけではないのだが、僕にだってプライドの一片はあるから、つい声が上ずってしまうのだ。

「ショパンだってどんな気持ちでこの曲を作ったことか。フォンタナとの関係だってそうさ、結局彼は死後に裏切られただろ? 美しいだけの曲なんて、つまらないよ」

しかし水玉は表情を変えることなく、こう断言してみせた。

「雑音よりは、つまらないほうがまだマシだわ」

「そうかな……」

雑音、か。

僕は水玉に聞こえるように大きくため息をつき、部屋をあとにした。

僕には双子の兄がいる。水玉は、兄の恋人だった。過去形である以上、兄と水玉はもう恋人ではない。いや、いつからいつまで恋人だったのか、そもそも果たして恋仲であったのか、今となっては甚だ疑わしい。

水玉はかつて重病に侵されていた。徐々に視力が衰え、やがて失明する病だった。

兄はそんな水玉のために、懸命に研究を続けた。昼夜問わず、必死に書物を読みあさり、寝食を忘れ、治療方法の確立を試みようとした。

しかし、兄の願いと努力も虚しく、水玉は光を失った。

その事実を、兄はどうしても受け入れることができなかった。

――そんなものは「愛」ではない、と言われたところで、一体、誰に何を判じることができるだろう。

兄は理性を失い、ショックのあまり、あっけなく気がふれてしまった。有り体に言えば、頭のねじが吹き飛んでしまったのだのである。当事者である水玉を差し置いてそうなってしまったものだから、僕はあきれる以上に兄へ同情の念を禁じ得なかった。

そんなことがあってからの、ある夜のことだ。

「水玉の手術をする」

突然、兄がそう言い出した。僕は耳を疑った。

「僕は水玉を愛しているから」

兄はそうぽつりと呟くと、僕の不安をよそに水玉の眠る寝室へと向かった。たぶん、長いことキスでもしていたのだろうと思っていた。あまりに静かだったからだ。

僕は自室でショパンを弾いていた。幻想即興曲を2回弾き終えた頃に、水玉の部屋から、兄の大きな笑い声が聞こえてきた。まるで泣き声のような、悲鳴のような笑い声だった。僕は、跳ね上がる動悸を抑えながら水玉の部屋へ向かった。

扉を開けるとすぐに、麻酔特有の臭いがした。水玉は完全に意識を失っていた。横たわる水玉のすぐ傍でうずくまっている兄の姿に、僕は戦慄した。

兄はずっと笑っていた、震えるその両の手には、神経から丁寧に切断された水玉の眼球が握りしめられていた。

僕は自分にできる精一杯のことをする以外に、まったく気持ちが向かなかった。向きようがなかった。だから僕は、毎晩水玉のためにショパンを弾くことにしているし、兄のために毎日新しい瓶を買ってくる。兄の部屋には今50を越える瓶が置かれている。毎日新しい瓶に、ホルマリンと一緒に水玉の眼球を詰め替えるのが兄の日課だ。

瓶の数だけ、あの夜を越えられたのだと、僕は自分に言い聞かせている。

僕の部屋の扉が、軽やかに叩かれる音がした。振り向かずともわかる、白杖で水玉がノックしているのだ。

「お入りよ」

僕は楽譜を整頓していた。白杖を器用につきながら、ネグリジェ姿の水玉が問うた。

「今日の月は?」

「下弦の三日月。少し、青いね」

「そう」

眠れないのだろう。僕は兄の部屋から拝借して調合した睡眠薬のカプセルを、水玉の手のひらにのせた。

「あの人は?」

「兄さんなら……いつもの」

僕は一瞬だけ言葉を詰まらせる。

「作業中だよ」

「……そう」

そうして僕は街で新しい瓶を買う度、兄の部屋にそれらが並んでいくのを見る度、途方もない孤独と罪悪感に苛まれる。

気がふれたのは兄自身の弱さに他ならない。兄は、己の弱さを振りかざして、水玉を傷つけたのだ。それをどうして他人は「愛」などと呼びたがるのだろう。眼球を抉り出して瓶に詰め替える、その行為だけをあげつらって、兄を異常者呼ばわりする者までいる。

なんてことはない、兄はただ弱かっただけなのだ。

あらゆる方法論を越えて生きろと伝えることができなかった。兄にとって机上の倫理など、風前の砂塵より儚く価値のないものだった。

「なぜ水玉を、ありのまま愛せなかった?」そう責めることは簡単だ。しかし、僕には到底そんなことはできない。なぜと問われても、僕はこう答えるしかないのだ。

「兄の気持ちが、理解できてしまうからです」

ある日、いつもの雑貨店に行ったら、赤色の瓶が売られていた。透明や水色のものはよく見るが、珍しい色だ。綺麗ですね、と話しかけると店主は、そうですね、とだけ答えた。特に深く考えず、僕はそれを買って帰った。

「今日は、ショパンは弾くな」

赤色の瓶を見るなり兄は、僕に強い口調で命令をしてきた。

「なんで?」

「シュトラウスを弾け」

「あまり得意じゃないんだけど……」

「……ショパンは弾くな」

「……」

夏が終わる。季節は容赦なく巡るが、兄の時間は恐らく止まったままなのだろう。水玉の美しい碧の瞳は、ホルマリンの中を浮遊するばかりで兄を見ることは決してない。

赤色の瓶に入れられた眼球は、その美しさをくすませるに十分だった。兄の不機嫌の理由がわかった気がした。

僕は、あまり弾きなれないシュトラウスをどうにか弾いた。水玉が口を開くことはなかった。白杖を揺らしてリズムを取っていた。どこか、楽しそうな印象を受けた。

兄は覚悟などとうにできていたのだろう。覚悟というより、決意というべきだろうか。だから僕は、兄が何をしようとしまいと、非難もしないし、称賛もしなかった。兄の弱さを責めるつもりは毛頭なかったし、兄の本来の才能を羨むこともなかった。

「綺麗な水のある場所へ行きたい」

そう兄が告げた時に、僕の中で静かに幕が下り始めた。しばらく家から一歩も出なかった兄がそう願うのだから、そうすればいいと思った。町はずれの湖がいいだろうと僕は助言した。

新月を数日待って、兄は透明な瓶を真白い絹で包んで、夜の森へと出かけていった。この数日間は、いつもと変わらない日々だった。兄は机に向かって書きものをしていたようで、仕上がったそれを僕に託してから出立した。

兄が帰ることは、なかった。

数日後、湖畔で窒息死している兄が発見された。傍らには空になった瓶が落ちていたという。兄は咽喉に水玉の眼球を詰まらせて死んだのだ。

水玉へ
僕は君を愛した。君のことなどお構いなしに、君を愛してしまった。償い方がわからないので、償うことはできない。
君には赤色は似合わない。月の赤い夜には外出しないように。シュトラウスよりショパンが好きだと君は言うが、そこは合わなかったね。
僕は君の傍にいることにした。いつか、ショパンの良さも理解できるように。

いつか、君と一緒に星空が見られるように。

「あの人は?」

「君と、一緒にいるよ」

虫歯の国のアリス

やせ我慢を決め込んでいたけど、日増しに高まっていく歯の痛みに、芦花ありす(16歳、花の女子高生)は嫌々ながらついにその日、歯科医院のドアを叩いた。
『ハートデンタルクリニック』という、街はずれにある小さなクリニックである。外観はまるで洋館で、二月だというのに白い薔薇が咲いている。
ホームページで確認したところ、院長が女性であることがここへ来た決め手だった。年頃の娘が男性に口の中をあれこれされるのは抵抗があったからだ。それに、ありすは生まれて今まで虫歯知らずだったので、歯医者のお世話になったこともなかった。だから、少し、いやかなりの不安を抱いていた。

先客はいなかった。ありすは誰もいない受付に「すみません」と声をかけた。するとモグラ叩きのモグラの要領で突然受付嬢が現れたので、ありすは「わっ」と驚きの声をあげた。受付嬢はニカニカと笑いながら、
「今日はどうされました?」
「えっと、奥歯が痛いんです。たぶん、虫歯じやないかなと。あ、保険証……」
「それは結構ですよ、ウチじゃ意味ないですから」
「え?」
「では、問診票にご記入ください。あと、こちらをお渡ししますね」
手渡されたのは、クリップボードに挟まれた問診票と、クッキーだった。包装紙を見ると、なんとロータス社製である。
(うわー! これめっちゃ美味しいやつじゃん!)
ありすはしかし、すぐに自分の置かれている状況を思い出し、
(はー、今ムリなんだった)
肩を落として問診票を書き始めた。だか、すぐにその手は止まった。設問を見たありすの目が点になる。

まず、名前や住所を書く欄がない。問診票はこう始まっている。
⑴ 最近一番笑ったことは何ですか?
「???」
⑵今までで一番感動した映画は?
⑶好きな紅茶の種類は?
⑷白うさぎはなぜ虫歯になった?
⑸白い薔薇を赤くする最善の方法は?

ありすはすっかり混乱して、受付に「すみません」と声をかけたが、受付嬢の姿はない。代わりに現れたのは、白衣に大きな帽子を被った青年くらいの男性だった。
「やぁ、どうしたんだい」
「あ、あの、すみません、これ、意味がよく分からなくて……」
「分からない? それは嘘だね! 嘘ってのはよくない。物事がうまく進みすぎるからね。君、正直に書きたまえよ。書けないわけないんだから」
よくしゃべる青年だ。ありすがあぜんとするのにも気にしないで、まだしゃべり続ける。
「ヒントがほしいのかい? そりゃ、僕だってほしいさ。万有引力なら、孤独の反対語のこと!  宇宙って縮小の一途か拡大一辺倒って学説は、まったくパラドキシカルで素敵だよね、嫌になるよ」
「あの……」
「あ、じゃあ僕はあっちで治療中の白うさぎを放置してるから、じゃあね!」
しゃべるだけしゃべって、青年は治療室へ去っていった。

困った。このままじゃ治療を受けられない。ありすがオロオロしていると、
「まだかしら?」
背後から艶のある声がした。ありすが振り向くと、そこには白衣を着て悠然と脚を組みソファに座っている美しい女性がいた。赤いエナメルの靴が存在を主張している。彼女はやや威圧的な口調で、
「早くその問診票に記入してちょうだい。クッキーが泣いてるわよ」
「はい?」
ありすは手の中のクッキーを見るが、別段泣いている様子はない。当たり前だ。女性はなおも続ける。
「なんでクッキーは焼かれると思う?」
「え?」
「食べられるためよ。ただそれだけのため。そのたった一つの役目まで、あなたはクッキーから奪うの? 酷いことするのね」
「そ、そういうわけじゃなくて、食べたくても食べられないんです。虫歯が痛くて」
白衣の女性、ハートデンタルクリニックの院長はわざとらしく長くため息をついた。
「治してあげてもいいけど、ちゃんと問診票に記入してもらわないと困るわ」
「でも、これ……」
「『でも』も何もないわよ。自分に聞けばわかることでしょう。あなた、ちゃんと自分のことわかってる?」
「え……」
ありすは歯の痛みをこらえながら、固唾を飲んだ。

最近一番笑ったこと?
一番感動した映画?
好きな紅茶?

(……なんでだろう、こんな質問にも答えられないほど、私は自分のことをちゃんと見てなかったのかな)

ありすは目を閉じて、ふっと息を吐いた。

最近一番笑ったのは、学校でバレンタインデーにアサコからもらった友チョコが本命用だったことかな。アサコの慌てっぷりがかわいかった。

一番感動した映画は、英語の授業で観た「ショーシャンクの空に」だな。友情ってすごいなって、こころから思ったっけ。

好きな紅茶は、特にないというかそんなに詳しくないのだけれど、アッサムだったらミルクを入れるのが好きだ。アイスならアールグレイが、好き。

⑶まで書いてみると、不思議なことに⑷も⑸もペンが進んだ。

白うさぎはバレンタインに配りそびれたチョコを一人で食べてしまったのだ。だから虫歯になった。さながら罰を受けているのだ。

白い薔薇を赤くする最善の方法。それはきっと、いや絶対、ペンキなどではなく、白い薔薇に、恋をさせること。

ありすは問診票を院長に手渡した。
「院長」
「なに?」
「白い薔薇たちのこと、許してあげてください。彼女たちに必要なのは自由です」
先ほどまで余裕顔だった院長の表情が、記入された問診票を見て一変した。
「……なんですって、あの娘たちを解放しろ、とでも?」
「はい。これから私は自分のことを見つめ直します。だから、院長もそうなさってはいかがでしょうか」
「ずいぶんな口の利き方ね」
「問診票は書きました。治療してください」
院長は声を上げて笑った。
「生意気なお嬢さん! いいでしょう、すぐに終わるわよ」
てっきり治療台に連れて行かれるのかと思えば、その場で院長は流麗な手つきでありすの左頬に触れた。すると、痛みが嘘のように消えたのだ。
「わぁ……すごい!」
感激するありすの様子に、院長は意外そうな顔をした。
「怖くないの?」
ありすは首を横に振り、
「怖いだなんて、とんでもないです。最高です!」
その返答に、院長も満足げだ。しかしありすはすぐにハッとして、
「あの、治療費は、これ、保険効くんですか?」
財布を気にし始めたのだが、院長は首を横に振った。
「お金なんていらないわ。白い薔薇たちにも自由をあげましょう。その代わり……」
「その代わり?」
「あなた、私のお茶飲み友達になってちょうだい。アッサムにはミルクを、夏になったらアールグレイを用意するから。そのクッキーだって、いくらでもあるわよ」
ありすは痛みが取れた以上の歓喜でもって、
「はい!」
と笑顔で頷いた。
そうだ、友達ができたときの嬉しさをしばらく忘れていた。虫歯になるのも、そう悪いことではないのかもしれない。