カテゴリー: 掌編小説

銀の翼

神さまになんて、なりたくなかった。

***

今日の彼には、私の背中に銀色の翼が見えるという。映画館で流行りの作品を観ているときも、こじゃれたレストランでランチをしているときも、点灯前のイルミネーションが絡まった樹々の並ぶ舗道を歩いているときも、彼はずっと私ではなくその翼に目を奪われている様子だった。

ふたりでよく行く小さなカフェで、ホットのカフェラテを注文したときも、彼はまったく上の空だった。

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ラテアートを崩す瞬間の形容しがたい背徳感を共有したくて、私は彼に銀のスプーンを持たせ、かき混ぜるように言った。

ところが彼は眉間にしわを寄せ、今度はスプーンを凝視しはじめた。正確には、スプーンに映る私の翼を確認しているのだった。ラテアートのくまはどんどん冷めていく。

ひざ掛けに使っていたストールがするりと床に落ちてしまったので拾おうとしたのだが、私の動作を彼はスプーンで制止した。ペナルティカードでも出すような仕草でスプーンを見せられて、私は面食らってしまった。

近くを通ったカフェのウェイトレスが、気を利かせてストールを拾ってくれた。お礼を述べるとにっこりと笑みを返してもらえた。

一方、彼といえばいつのまにかスプーンをくるくるとカップ内で回して、くまの原型を消し去ってしまっていた。ただの冷めかけたカフェラテがテーブルの上に残った。

翼ってなに? と私がいくら訊いても、彼はふるふると首を横に振るばかりだ。そんなもの生えてないじゃない、といくら主張しても、なぜ否定をするのかと問い返されてしまうので、どうしたらいいのかわからない。

幻覚でも見ているのじゃないかと心配だ、と率直に伝えた。それでも彼は、私の背中のほうへ視線を送ったまま黙ってカフェラテを飲み干していた。

日の入りの早い季節、午後5時にもなればあたりは真っ暗になる。街灯が点灯するのに合わせて駅前のイルミネーションも輝きはじめる。わぁきれい、などと口走れば、星々の光を覆い隠す人工物に寄せる視界はない、と一刀両断されてしまうことだろう。

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翼で飛ぶこともできない私が、翼の存在を認識する彼のとなりにいてもいいか、というのは愚問だと思う。実際私はとなりにいるわけだし、彼が翼を見ようが見まいが、私の恋人であることに変わりはないのだから。

イルミネーションに支配された並木道を、手をつないで歩く。追いやられた夜の闇が、彼の中に居場所を求めたかのように彼の瞳は暗い。落ち葉のじゅうたんを踏みしめると、ときおりプラタナスの大きな葉がくしゃりと小気味いい音を立てた。

光の洪水を脱出して中央線の真っ暗な高架下にたどり着くと、彼の挙動はいよいよぎこちなくなっていた。繋いでいるはずの手は小刻みに震えて、呼吸も浅くなっている様子である。街灯には大小の蛾たちが羽音を鳴らして群れている。

大丈夫? と私が声をかけるより先に、彼はつぶやいた。

「神さまになんて、なりたくなかった」

頭上を中央特快の列車が激しい音を立てて通過していく。彼の唇はまだ動いているが、声を聞き取ることは叶わない。彼の暗い瞳がまっすぐに私をとらえる時、それに抗うすべを私は持ち合わせていない。

この先、何がどうなるかなんて知らないし、知りたくもない。ただ、私はこの彼と、それでも一緒にいたいと望む。説明責任なんて蹴っ飛ばして、一般常識や慣習、思い込みたちを全部なぎ倒して。

彼の目から、ほろほろと涙があふれ出した。彼は突然つないでいた手をふりほどくと、翼ごと私を強く抱きしめた。私はされるがまま、彼の腕の体温を感じることにした。

列車が去ってから数秒後のことだ。通過音の余韻の残る澄んだ空気を裂くように、彼は言葉をゆっくりと紡いだ。

「お願いだから、何度も言わせないで」

「え?」

「結婚してください」

野良猫が走り去って、スーパーマーケットの裏口に積み上げられたダンボールに突っ込んでいった。街灯が心もとなくチカチカするたび、蛾たちは惑って集散した。急に風が吹き始めて、足首あたりが特に冷たく感じられた。これは木枯らし何号だろうか。

どうしてこう、そういう大切なことをこんな場所で伝えるかな。これじゃあどこにも断る理由が見当たらないじゃないか。きみは神さまなの? いつの間に? それと私へのプロポーズにはどういう関係が?

逡巡するだけ意味がないと思った。彼に抱きしめられたとき、私は確かに自分の背中に生えた翼を感じたからだ。

私たちは高架下の柱に寄りかかり、銀の翼を、ふたりの姿を秘匿するように丸く広げた。彼の涙をそっと人差し指で拭ってあげてから、私はゆっくりと頷いた。彼にとってこの世界に女神がいるとしたら、それは間違いなく私のことなのだ。

はたから見れば、冬の夜に高架下で熱烈に抱き合うカップルに過ぎないと思う。それでいいのだ。真実はふたりだけが知っていればいい。そういうものなのだ、きっと。

プレゼント

イルミネーションに浮き照らされた舗道を、小ぶりの箱を携えた男が歩いている。背筋をしゃんと伸ばして、規則正しい靴音を鳴らしながら。白い箱には真っ赤なリボンがかけられている。道を行き過ぎる誰もが、箱の中身は愛しい人への贈り物だと思うことだろう。

身を切るように冷たい風が吹きつけても、彼が歩を止めることはない。まっすぐに目的地めざして、着実に前に進んでいる。その表情はどこか冷めた、何もかもが他人事のような色彩に支配されていた。

二路線の乗り換え駅でもある駅の改札に、彼女はワインレッドのワンピースの上からベージュのコートを着て立っていた。約束は午後6時。時計の針はそれを今か今かと待ちわびている。ただでさえはやる気持ちが心臓から飛び出しそうで、彼女は茶色のブーツでコンクリートの床を何度かカツンと踏みつけた。

白い息が生まれては消える。私の人生もこれくらいあっけなければ、ためらうことなんてなかっただろうにな。

人波のなかから男の姿を確認すると、彼女は手ぶくろをした右手を小さく振った。男がそれに気づくと、軽く頷いてこちらに近づいてきた。

「待ちました?」

言われて、彼女は首を横に振る。頬は待ち焦がれた寒さですっかり赤くなっているというのに。

「じゃあ、行きましょうか」

言われて、彼女は懸命に「はい」と返事した。

駅から歩いてすぐにある、フォーマルカジュアルなフレンチレストランに案内をされた彼女は、椅子に座っても落ち着かない様子であたりをキョロキョロ見回していた。

クリスマス仕様にデコレーションされた店内は、カップルでいっぱいだった。ひょっとしなくても、私たちもそう見られているのかしら、と彼女の心はざわついた。

それとは対照的に、冷静沈着そのものの男はシャンパングラスを傾けて「出逢いに乾杯」となどと言ってみせる。彼女はどぎまぎしながら、グラスを合わせたのちカラカラに渇いた喉へシャンパンを流しこんだ。

アミュズ・ブーシエ、オードブル、ポタージュ、ポワソン、ヴィアンド、グラニテ、ロティ、デザート……どれをとっても美味しかったはずなのに、特にロティを切り分けるときの彼の手つきに見惚れてしまって、何を話したかほとんど覚えていない。

それでも、終始彼は落ち着いていたし、こうした場に慣れない彼女をうまくリードしてくれていた。

デザートと一緒に運ばれてきたハーブティーを飲み終えると、いよいよ男は箱をテーブル上に置いた。彼女の心拍数はいよいよ急上昇する。

「約束です」

男がいうと、彼女は小さく首肯した。男が厳かな手つきでリボンをほどいて箱を開けると、中身はからっぽだった。

「あなたを、プレゼントにします」

言い終えるや否や、男はティースプーンを彼女に向けた。ああ、やっとこれで、私は私をやめられる。彼女は目を閉じた。まぶたの裏に、捨て去りたい記憶や苦い思い出、傷だらけのくだらないこれまでが、バラバラになったパズルピースのようにほどかれてゆく。

絶望だなんてありふれた言葉は添えてほしくない。なぜなら、私は初めからどこにもいなかったのだから。馬鹿みたい、楽になりたいだなんて、まるで苦しんでいるみたいじゃないの。

ワインレッドのワンピースが抜け殻になって、男の向かいの椅子にばさりと舞い落ちる。椅子から立ち上がった男はこともなげにそれを折りたたむと、丁寧に箱の中へ仕舞った。愛しいものに触れるように、赤いリボンをかけ直して。

男は一人でレストランを出ると、今度は鼻歌まじりに軽い足取りで、イルミネーションの舗道を抜け、真冬の冷たい宵闇溶ける街へと消えていった。

風鈴

1.

ちりんちりんと軽やかな金属音が耳に心地よい。今日は少し風があるようだ。揺れる風鈴の姿こそ見えないが、季節が確実に巡っているのを感じることができる。風鈴はいつからあそこに飾ってあって、なぜ夏が過ぎても仕舞われないのかとその日の担当看護師に尋ねたことがあった。けれど、「さあ」と気のない返事をされただけだった。音が鬱陶しい患者もいるのでは、と主張してみたものの、「そうかもしれませんね」と流された。少なくとも私は気になります、と食い下がったが、「忙しいんで」と返されてしまった。

6時半の起床のアナウンスが流れるのを待ってから、私はベッドから身を起こした。睡眠時間の割に、頭は今日もしっかりと重たい。「ああ、よく寝た」と伸びをして目覚めるようなことはもう数年も経験していない。夜9時という小学生よりも早い就寝時間に入眠するために、しこたま睡眠薬を飲まされるためだ。

ハンドタオルを持ってナースステーションに声をかける。預けてある洗顔料を受け取るためだ。石鹸などの類は、異食の防止の観点からナースステーションで管理されることになっている。

「おはようございます。よく眠れた?」
「まあまあです」

この「まあまあ」というのはここで過ごすようになってから身につけた重要ワードの一つだ。ここで「あまり眠れていない」だの「眠りすぎてしまう」だの正直に伝えてしまえば、もれなくそのことが看護記録に記される。週に一度あるかないかの主治医の診察を経て、下手すれば薬が変更されてしまう。自分に合う薬というのはそう簡単には見つからないものだから、モルモットのごとく次々と別の薬を試されたのではたまったものではない。

洗面所で顔を洗う。洗顔料が流れてようやく頭が目覚めを受け入れていく。顔をあげると鏡越しに視線が合った。私はハンドタオルで顔を吹き、その視線に気づかないふりをした。

「おはよう」

視線の主に声をかけられても、私は軽く会釈しただけで、あとは無視するように自分の部屋に戻ろうとした。それでも、その男性患者はこちらの領域を侵すような勢いで話を続けた。

「眠れた?」

どうしてこう、ここの人々はひとの睡眠事情を知りたがるのだろう。私は若干の苛立ちとともにその声を振り切った。

就寝時のスウェット姿から普段着に着替える。今日は火曜日なので10時から作業療法があるのだ。普段着といっても同年代の女子が着るようなスカートやらレースのついたブラウスやらではない。露出度の控えめなカットソーにジーパン。寝癖の直らないショートカットに、もちろんノーメイク。花も恥じらう二十歳の秋、私の青春は精神科病院で過ぎようとしていた。

2.

院内でハロウィン祭があると聞いて、私は思わず顔をしかめた。知らせてくれたのは同室の星野さんで、彼女は嬉しそうに職員がワードで作成したらしいチラシを見せてくれた。

「毎年、楽しみにしてるの。結構盛り上がるのよ。キャンディー釣りもあったかしら」
「楽しいんですか、それ」
「昼間だからねえ。まあ、お酒が飲めたら最高なんだけど。でも、楽しいわよ。ゾンビナースのカラオケとか」
「本当に楽しいんですか」
「ええ」

星野さんはここの常連とでもいうべき存在で、退院したかと思えばすぐにまた入院を繰り返している。なぜそんなことをしているのか特段の興味はなかったが、病院側にとっても退院者の人数の実績を増やせるというメリットがあるらしいということを、患者同士の雑談の中で伝え聞いた。

ハロウィンか。ゾンビナースに昭和歌謡を歌われてもな。

夕飯の時間になって、見たことのない女性患者が私の隣の椅子を示しながら、遠慮がちに声をかけてきた。

「あの、ここいいですか」
「はい。特に席は決まっていないので」
「ありがとうございます」

白身魚のフライ、キャベツの千切り、切り干し大根の煮物、ワカメの味噌汁、たくあん、白米。温かいものは温かく、冷たいものは冷たく出される、最近の配食の技術は見事だ。それでも「美味しい」からは程遠い。完食しなければ下膳時に看護師にちくりと嫌味を言われる。それが面倒だった私は、いつも押し込むように食事を済ませていた。

消灯までの少しの間、デイルームでは予約ノートに書かれた番組が流れている。よく知らない俳優が主演のドラマなので、私は壁にもたれかかるようにしてCDプレーヤーをイヤホンで再生していた。

すると、先ほど声をかけてきた女性がこちらに会釈してきたので、私も軽く首肯した。

「何を聴いているんですか?」
「ビョークです」
「洋楽ですか?」
「アイスランドのアーティストです」

するとその女性は、私の隣に今度はことわりを入れることなくすとんと座った。

「素敵。行ってみたいな、アイスランド」
「……そうですか」

年齢なら三十路前だろうか、長く伸ばした黒髪がよく手入れされて艶めいている。スヌーピーのスウェット姿がちぐはぐに見えた。きちんと化粧すればしっかりとした美人だろう。

「私、今日からなんです」
「そうですか」
「不安で」

ストレートに感情を吐露できるのだから、大した不安ではないと私は感じた。それはそれでいいことだと思うので、私は「はあ」とだけ返した。

「学生さんですか?」

突然インタビューされても、私は返答に窮してしまう。大学の学籍が残っているかわからなかったし、いきなりプライバシーを晒すのもためらわれたからだ。

私は病棟で最年少だ。そのためか、年上の女性患者さんたちからよく世話を焼かれる。先述の星野さんとは親子ほども年齢が離れている。可愛がってもらえるのはありがたかったが、一人になりたい時は少し困った。そう、まさに今この瞬間のように。

「私、こういう場所にいるべきじゃない気がして」

女性は一方的に話し続ける。

「早く出たいな」
「おやすみなさい」

私はすっくと立ち上がると、一度深く頭を下げて自分の部屋に戻った。

3.

リハビリテーションと称して、病床のシーツ類は患者たちが自分で交換することになっている。私はこの作業が苦手で、特に敷布団のシーツ交換をいつも同室の患者さんが手伝ってくれていた。

「こうしてね、端っこの布を見つけたらそれをうまく片手でキープして」
「う、うん」

悪戦苦闘すること私を助けてくれているのは、もともと保育士だったという須川さんだ。

新しいシーツになると、確かに寝心地が良くなる気はする。だが、果たしてこれのどこがリハビリテーションなのかの説明は、これまでに一切ない。あったところでこじつけめいた弁明がされるだけだろう。わかっている、ここでは私たちは「そういう立場」なのだ。

木曜日の午後一時半過ぎ、私はデイルームで時間を潰していた。すっかり読み古された猫の写真集を広げて頬杖をつく。作業療法などのプログラムは午前中に集中しているので、午後はひたすら暇を持て余してしまう。

今日もそうやって時間が過ぎるのだろうと思っていたのだが、突如面会室から、空気をつんざくような女性の怒鳴り声が聞こえてきた。驚いて視線を向けると、男性看護師二人に抱えられるようにして、面会室からあの女性が出てきた。連行されていた、という表現のほうが相応しいかもしれない。

「一生恨んでやる! 絶対に許さない!」
「田辺さん、それ以上騒いだら保護室行きですよ」
看護師がそうたしなめても、田辺さんというその女性は鬼のような形相だ。
「あんたらに何がわかるのよ!」
「はいはい、みんなびっくりしてますから、とりあえずあっちに行きましょうね」

看護師の指さした先にはナースステーションがあり、そこでの「事情聴取」で対応を誤れば、彼女は確実に保護室送りだ。彼女の去った面会室を再び見ると、スーツ姿の男性がそそくさと出て行くところだった。

人生いろいろ、ってやつだろうか。

デイルームが騒がしくなってしまったので、私は自分の部屋に戻ることにした。6つのベッドの置かれた大部屋で私は過ごしている。そのうち右真ん中のベッドのカーテンが開放され、リネン類がきれいに折りたたまれている。ボストンバッグをパンパンにした星野さんが、声を弾ませて私にこう言った。

「退院なの」

何度目のですか、という言葉を私は飲み込んだ。

「おめでとうございます」
「心がこもってないわ」
「ハロウィン祭はいいんですか?」
「あんなもの、どうでもいいわよ」
「あはは」

この日は清秋と呼ぶに相応しい好天で、抜けるような青空に病棟の白い外壁が映えていた。「じゃあね」と星野さんが出ていく。その後ろ姿を見送る私に、田辺さんがゾンビの格好をして「可哀想に」などと言ってくるものだから、私は自分の中にくすぶる悔しさを焚きつけられたと感じて、「せめて人間になってよ」と言い返した。するとナースステーションの天井に設えられたミラーボールが光を乱反射させ、横一列に整列したナースたちが師長の合図でいっせいに私を指さして笑いはじめた。くすくす、と嘲笑する者、あっははと明け透けに馬鹿にする者、ふふふ、と憐れむ者、笑い方は十人十色だ。個性というのはこういうときに滲み出るのだ。私は「うるさい」と叫ぼうとした。しかし、喉がつかえてうまく発語ができない。目の奥がツンと痛んで、ぎゅっとまぶたを閉じられたのはいいが、次に目を開けたときに見えたのは、一面に広がるピアノの鍵盤だった。床も、天井も、四方の壁も、すべてがモノクロで満たされていた。やはり師長の「よーい!」という合図で、ゾンビナースたちがパッヘルベルのカノンを弾きはじめる。一糸乱れぬ演奏である。私が「やめて」と発しようと試みると、私の口からはカノンコードをたどるあの風鈴の音が漏れるだけだった。田辺さんはその調べにやがて斃され、鍵盤に横たわったままビョークの「ペイガン・ポエトリー」を歌っている。鍵盤は波打って田辺さんを徐々に飲み込んでいく。田辺さんはほろほろと泣いていた。そうじゃない、泣きたいのは私のほうなのに。

カノンの演奏が終わると、かしゃんとなにかが壊れる音がした。私はようやく許されたまばたきをすると、「ありきたり」と言葉を発することができた。田辺さんだった抜け殻はきらきらと紫色に輝いて、巨大なアメジストみたいだった。私もこうなれたら、あの小うるさい風鈴を撤去することが叶うだろうか。

無音

失うべき音が一つも無い朝を迎えて小鳥が窓辺から飛び立ったその瞬転、誰かが垂れ流した幸せの残渣が見事に私の胸に沈殿しました。

それから、在り合わせの言葉と、間に合わせの言葉と、出来合いの言葉とが、非常に都合のよい状態で昼時に届きました。

箱に結ばれたリボンの赤色を見て、私は自室で吐き気を催したものです。

さて、耳触りのよい囁きを吐き出す花と、口当たりのいい言葉を求める魚と、被害報告に明け暮れる行列は、どれが最も有毒なのでしょうね。

午後3時には気まぐれな木枯らしと一緒に優しい紅茶を飲みましょう。それでもきっと苦しくて、結局泣いてしまうでしょうけれど。

愚か者が二の句を告げないのは、その愚かさ故ではなく、自称賢者たちに辟易しているからなのです。

今日も闇に向って傾いていく太陽とあなたとが共謀して、私に甘い時間を強制します。そのまま溺れればいいのだと優しいフリをして搾取するのです。

怖いというよりは、野暮だと思うのだけれど。

果たして小鳥は帰ってきませんでした。殺風景な窓辺に与えられる ♪ は何処にも無く、口笛を吹いて誤魔化しても隠しきれない悔しさと虚しさが、点けっぱなしのラジオから聞こえました。もちろんSOSとして、です。

ノイズ混じりのI love youなんて

全然届かないよ……。

レモンスライス

私はこのどうしようもないナルシシストを慰めた。楕円形に何度も額を撫でて、「あなたは悪くない」と。

彼は満足そうに足を組み直すと紅茶のおかわりをせがんだ。私はなんとか眠い目をこする。十六夜だから仕方ないのだ。

彼はレモンスライスを口に含んでその酸味をじっくりとねぶる。それから頭に入っているというマニュアル通りに口角をつり上げる。

私がそれを「不愉快だ」と呟くと、彼は「僕にとって君を糾弾することは暇つぶしにもならない」と言い放った。

絆されたのは今流行りの「自己責任」ってやつなんだろう。

彼は気ままに泣いたり、笑ったりして、涙をよくこぼす。それを素手で拭えと私に迫る彼の顔面右半分が、ちょうど枯れかけのスパティフィラムの葉に隠れた。

私は彼を拒絶しようとするのだが(絆された私が悪いのか)取扱説明書も奪われた今となっては、もう手遅れのようで。

彼の一挙手一投足はブラックホールのように無限に膨れあがる重力の如く、圧倒的な憂いを伴っており、私は視線を逸らすことすら叶わない。

(だって、月だって欠けてゆくから)

彼がようやく眠りについてから、隠れて彼の吐き出したレモンを舐めてみた。

鍵盤の壊れたピアノの音階と、いやに生温い10月初めの秋風を思い出した。

5秒後の視界

悲しいニュースが流れると、彼はグラス一杯の水を飲む。まるで厳かなルーティンのように、蛇口をひねる音がすると、私に微かな焦燥が生まれる。

私たちの知らない街で、私たちの知らない人が殺害されたらしい。事実がこれでもかと粉飾されたニュースが垂れ流されるワイドショーを観ながら、彼は「暇つぶしにもならないね」とつぶやいた。

誰かが誰かに殺された。それは悲しい出来事のはずなのに、他人事であるという現実が、私たちの目の前に転がる。ころんと転がって、そのままどこかへ消えていく。まるで風の前の塵だ。

テレビの画面のなかでコメンテーターが顔を真っ赤にして「正論」を視聴者に叩きつけている。彼はもう一杯グラスに水を注ぐと、それを一気に飲み干してから、リモコンでテレビの電源を切った。

「嫌な事件」という私の言葉に対し、彼は「そう」とつまらなそうに反応した。

「まるで嫌じゃない事件があるみたいだね」

「そうじゃない。でも殺人なんて、良くないと思う」

「僕にそれを言う?」

「ん……」

私は継げる二の句を失う。今、私の目の前にいるのは、彼であって彼ではない。彼を支配している人格は、人を手にかけたことのある人物のそれである。

しかしながら、彼に対して私は恐怖心の類を抱いたことがない。なぜなら、彼は私を大切に想ってくれているから——まるで恋人のように。

彼が手招くので、私は素直に彼のとなりに座る。ソファが小さな軋みを上げた。

「悲しい?」

「別に」

「雪は正直だね」

彼が私の髪の毛を、細い指で撫ぜる。その腕とクロスさせるように、私は彼のさらさらした前髪に触れる。私たちはそのまま唇を重ねた。その直後、一瞬だけ彼は脱力し、私にもたれかかってきた。私は彼の肩を抱くと、壁掛け時計の秒針が進む音に耳を澄ませた。

それから5秒後、うっすらと目を開けた彼は私がそばにいるのに気づくと、ぬいぐるみを抱きしめるように私にしがみついた。

「怖い夢でもみた?」

「うん」

揺れる、影と影。窓から差しこんだ斜陽がふたりの顔を浮かび上がらせている。隣家がつけているラジオから、夕方のニュースが漏れ聞こえてきた。

「本日未明、渋谷区初台のカラオケ店で発生した殺人事件について、警視庁は午後、被害者の元交際相手から任意で事情聴取をしており……」

悲しい、というのはきっと嘘だ。事件に心を痛めている、というわかりやすい像を描きたがっているだけの、いわば欺瞞だ。

「彼」はそんな私の浅ましさをとうに見抜いている。私には、そんな「彼」の怒りの発露としてのキスを拒む権利など、存在しないように思われた。

だって、事件がどこまでも他人事なのは、ふたりにとって真実だから。

シンクに置かれたグラスに西陽があたって、水滴が光を乱反射させる。私たちは、まるで恋人のように、これからもこの街で暮らすのだろう。絶望なんて、する暇もなく。

欲しかったもの

秋の夜長に眠れない不肖のわたくしは、ベッドの上でただ一人きり、泣けないピエロの真似事をする。

(それを見ていた月うさぎは、紅いお目目でこちらを睨んでいた。)

下手な笑みが嗚咽に変わる夜には、全部お前が悪いぞといっそ責めて欲しかった。気が済むまでとことん貶して欲しかった。

黒の瞳を閉じたまま、阿呆の家鴨の鳴き声を聞く。この夜を越えられない居残り蛍が憐れなら、絶えた交情になんと言い訳すればいいのだろう。

月の相好に魅せられて愚者の吐く血こそが、初紅葉。「きれいね」「きれいね」と狩られるその日を、口を開けてサラサラ笑って待っている。

虫の声に混じってリビングの奥から漏れ聞こえる歌はこうだ。

最初に泣くのは月うさぎ
寂しいからって泣くんだと
次に鳴くのは呑気な家鴨
明日も餌にありつけるから
最後まで眠れないこのわたくしは
静寂の中で首絞めごっこに興じる

今日もまた冷たい夜が無音のままに果てていく。わたくしは幸せなふりをして、取れなくなった真っ赤な鼻を鏡に映してはにこにこ、にこにこ、笑顔の練習に余念がない。

わたくしにも、欲しいものならあった。笑ってくれるかしら。

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誕生日が、欲しかったのです。

天国三丁目

夏が逝ったとの一報に、川辺のススキどもは痙攣して笑っていました。私はその光景を茫然と眺めました。いつかの帰り道の出来事です。

それから間もなく、立ち尽くす場所を求めて私は記憶を捨てるために湖に出かけました。

枯葉と一緒に、水面に蝶が浮かんでいました。拍手喝采の直後のことです。私は必要に迫られて呟きます。

「旋律を戦慄と違えていたの。だから音楽が怖かった。」

浮いていたのは黒蝶のようでした。なぜか半分に折りたたまれていました。寂しくなるのにこれ以上の理由は要らなかったようです。

(――寂しいから秋なのではなく、ましてや秋だから寂しいのではなく。)

足元でりりりりと喚き倒す鈴虫どもを潰せば、指先に秋の香りがします。私は鼻をスンと鳴らして、それをゆっくりと味わいます。

「いつか誰かになれると高をくくっていた。だから私には何もないの。」

喪失完遂、不可逆、可及的速やかな後悔。ゆえに、秋とはどこまでも寂しいのです。

それでも擦過傷です、なにもかも。私に引導を渡した女神の煌びやかなネイルさえ。

私は口笛であなたの大嫌いなムーンリバーを吹きます。

(浮遊なんて……識りたくもない。)

気のせいです、あなたの悲劇は昼下がりに見たバオバブの幻影でしょう。

「陽炎を蜻蛉と違えていたの? 哀れなひと」

目の前をよぎったのは誰の影でしょうか。(たぶんあなた。その足音がリフレインして寂しさを助長する。)

君は夢を見続けるんですね
孤独に逃げるのですね
あぁ其処は天国三丁目

秋の所為にしてそろそろ眠りましょう。

明日の予報は午後から雨。
私が地球を抱きしめたら、あなたの強がりは崩壊するでしょう。

遠くで

寂しい。

望み叶って立ち尽くしていると、胸の奥からりりりりと鳴き声がしました。

どうやらあなたの遺言のようでした。(ススキどもは、やはりカサカサと笑っていました。)

耳を澄ませてみれば、それは擦過傷として私に痛みを与えます。ああ、私は確かに生きている。痛みだけがもはや、私にとってのほんとうなのです。

湖に乱反射するひかりを集めて、縒り合わせた鈴虫で留めたなら、寂しさのできあがり。痛む場所によく似合うでしょう。

(もしこの拍手がやんだなら)孤独どうし、天国三丁目で待ち合わせましょう。真っ二つの黒蝶のことを、どうか忘れないで持ってきてくださいね。

カットアウトする希望、フェードアウトする笑顔、ほんとうのことというのは、いつだって寂しいのです。

朝と蠅

そんな優しい旋律で私に構うのはやめてください。お願いだから独りにさせてください。冷めきったこの胸に温かい手など差し伸べないでください。

期待してしまうから。性懲りもなくまた信じてしまいそうだから。

そんな甘いお菓子で私の機嫌を窺うのはやめてください。

お願いだからやめて……。

……——

金属の破裂する音で目が覚めた。

光を嫌ってわざわざ籠った箱庭を侵す一匹の蠅がいた。脳天の周囲をブンブン回っている。

鬱陶しい、ああ喧しい、疎ましいったらない。

インタールードのような人生の半分が過ぎたことを報せたのだろうか。私はのそのそとベッドから起き上がり、カーテンの隙間から差し込む陽光を睨んだ。

錆びたオルゴールが軋みながらムーンリバーを奏でる朝。

(太陽が希望を連れてくるという嘘をついたのは誰だ。光に希望が宿ると人を盲信させたのは誰だ。ホラ見てみろ、外には笑顔の魚がウヨウヨ泳いでやがる。)

光の呪縛から逃れられ得ているのは実は頭の上の、コイツだけかもしれない。蠅に悩みは無さそうだから。
しかも食うには困らないだろう。箱庭にすら腐った光がとっぷりと沈んでいるから、その饐えた香りに惹かれてはブンブンと飛ぶ姿に、私はすっかり魅せられているのだ。

歌を唄えば責められて、詩を詠めば笑われて、助けを求めれば無視されて、叫びを上げれば放置されて、復讐すれば裁かれる。それが外での正しい仕組みらしい。

(きぼう しんらい しんじつ ぴあす
何処に売っていますか? いくらで買えますか?)

(なみだ ためいき あどけないがんきゅう
何処で失くしたのですか? 誰に奪われたのですか?)

そんなことをダラダラと考えていたら、蠅が半分灰になって床に転がっていた。

外では季節を勘違いした蝉が一匹きりで鳴いている。
私も真似して泣いてみる。

誰も知らない、朝の出来事。

追伸
私という名の醜い空間図形が、空気と世界の一部を侵して存在していること、本当に御免なさい。

レイナちゃん

嘘だ。全部、嘘なんです。何もかも幻なんです。

 

 

午後9時の消灯から9時間はベッドから起き上がることができない。睡眠の確保のために、就寝前にはしこたま睡眠薬を飲まされるから。錠剤だけで腹が膨れそうな量を、ぬるい水で流し込むのだ。

そのあと、「おやすみなさい」といっても夜勤の看護師は挨拶を返すことはなく、「口」とだけいって口を大きく開けるよう促す。きちんと全部の薬を飲んだか確認するためだ。僕がそれに応じると、面倒そうに口内を見た看護師は「はい」とだけいって次の患者の対応に移る。いつものことだ。

ぺたぺたとスリッパで擦り気味に廊下を歩く。薬さえ効いてしまえば、あとは横になって意識を手放すだけだ。余計なことを考えずに済む。プラスチック製のカップにデイルームに置かれた給茶器から水を注いで、ほんの少し唇を湿らせた。年中エアコンがきいているのはいいが、そのせいで乾燥がひどく唇がしょっちゅう割れてしまうのだ。

「おやすみなさい」

こちらにあいさつをしてきたのは、僕よりひとまわり年上と思しき隣の部屋の男性患者だった。

「おやすみなさい」

僕が返事をすると、その男性は嬉しそうに会釈して部屋に戻っていった。見かけない顔だ。入院して間もないのかもしれない。

***

その日の朝も僕は鈍い頭痛とともに目を覚ました。中途覚醒がなくてよかった。追加の睡眠薬の頓服を求めてナースステーションに行ったところで、夜勤で機嫌の悪い看護師から嫌味を言われるか聞こえよがしにため息をつかれるのが関の山だからだ。

食事は朝食が7時半。デイルームのテーブルの席は決められており、食事時だけ名札が置かれる。配膳する看護助手に名前を呼ばれ、一人ひとりがトレーを受け取り、「いただきます」もなく各自黙々と食べ始める。

ブロイラーみたいだ、と僕は内心で自嘲する。何にも迷わず、惑うことも悩むことなく、目の前の栄養バランスの優れた食事を残さずに食べることだけが、この時の患者たちのミッションとなる。

「やだあ、私、これ嫌い!」

「私はこれが嫌」

若い女性患者同士が嫌いなおかずを交換しあうのを見つけた看護師が、「勝手なことをしないで!」と二人を叱責した。一人は子どものように泣きだし、もう一人は怒りのあまりスープをトレーにひっくり返した。

近くにいた看護助手がモップをもってきて床にこぼされた液体を拭き取る。泣いている女性が、「私は、悪くないのよう」としゃくりあげると、スープをぶちまけたもう片方の女性はいよいよ気まずくなり、「あんたが椎茸食べられないっていったからいけないんでしょ!」と怒鳴った。それでなにがしかのスイッチが入ってしまったらしく、その女性は何語かわからない、そもそも言語なのかもわからない金切り声を上げはじめた。

その場の他の患者たちは見て見ぬふりに徹し、自分のトレーにのった皿を空にすることに集中した。そうせざるをえなかった。さもないと——

「はいはい。いい子はあっちに行きましょうねー」

明らかに腕っぷしのいい男性看護師が二名駆けつけて、喚きちらす女性患者の肩と腕をがっしりと掴む。まるで猛獣の捕獲だ。

「放して! 放してよ!」

「みんなの迷惑だからねー、あっちに行こうねー」

「あっち」とは、すなわち保護室という名の独房のことだ。彼女は今からそこで「お仕置き」を受ける。

「あーあ」

誰かがぽつんと呟いた。先ほどまで泣きじゃくっていたほうの女性患者は、椎茸だけを器用に残してあとは全てを食べ切っていた。

「食事は残さないでください」

看護助手にそう言われ、彼女がまた泣きそうになるのを見た看護師長が「もういいわ」と大きくため息をついた。

確か泣いたほうの女性は最近入院してきたはずだ。僕はちらりとそちらを見たが、一瞬彼女の目尻が下がっているように見えたので、すぐに視線を逸らし、ぬるくなった野菜のスープを飲み干した。他人事としてやり過ごす。ここではそんなことが肝要なのだ。

***

ラジオ体操ののち作業療法の時間になると、曜日によって決められた患者が別部屋に集められる。めいめいに塗り絵や書道、折り紙などをしているのだが、僕は何をするでもなく、窓辺で初夏の日差しを受けて萌える院内の樹々の葉が風にそよぐのを眺めていた。

「これ、見てもらえませんか」

僕に話しかけてきたのは、先日の就寝前に挨拶を交わした男性だった。男性はぬり絵をしていたのだが、それはいわゆる大人向けの難易度の高いもので、非常に細かい絵柄に緻密かつ丁寧に色が配置されている。

「結城さん、すごいじゃないですか」

返したのは僕ではない。近くにいた作業療法士だった。結城と呼ばれた男性は軽く会釈して、やはり僕にぬり絵の感想を求めた。

僕はその絵をじっと見つめた。それは自傷防止のために先端の丸くされた色鉛筆で仕上げたとは思えないほどタッチが力強く、また洗練されていた。

「どうしたらそんな風に塗れるんですか」

僕が興味を示すと、結城は嬉しそうに答えた。

「塗る前の線たちが、『優しく塗ってくれ』ってリクエストしてくれるんです。だから、それに応えてあげたんです」

「声がしたんです?」

「ええ」

そんなことは、ここではよく話される経験だ。しかし結城のように、嬉しそうに話す患者は珍しいと僕は思った。

「それ、納涼祭で飾りますね。預かります」

作業療法士が結城本人の許諾も得ずにぬり絵を回収し、鍵のかかったキャビネットにしまってしまう。だが結城は終始にこにこしながら、

「また、塗ればいいですから」

と、作業療法士を睨みつける僕をどこか説得するようにいった。

***

売店で欲しいものを買い物伝票に記入し、病棟スタッフに代わりに買いに行ってもらって、その物品を支給される。そこから手数料が引かれるだけではなく、「管理費」の名目で日額数十円をとられる。それを搾取と呼ばずしてなんといおうか。

僕は有名作家の新作小説をお願いしていた。僕のすぐ後ろで順番を待っていたのが結城で、クレヨンを受け取っていた。クレヨンは異食の対象になりやすいため、使用後には必ず看護師に預けるように言われていた。

僕はデイルームに戻り、さっそく読書をはじめた。その隣に座って、結城はチラシの裏にクレヨンで絵を描きはじめた。結城の手つきは慣れたものだった。その軌跡には躊躇いや雑念がない。あっという間に、幼い女の子が柔らかく微笑んでいる絵が描かれた。

「娘です。レイナっていいます」

「かわいいですね」

「髪がくせっ毛なんです。目元は、俺に似たってよくいわれます」

絵を見つめる視線は、娘を想う父親のそれだった。

聞けば、結城はサラリーマンとの兼業イラストレーターとして働いていたという。ある日突然、絵がこちらに話しかけてくるようになったのでそれと会話していたところ、その姿を発見した家族に勧められて、少しの間、ここで休養することになったのだと、笑いながら教えてくれた。

***

病院内の納涼祭は職員の福利厚生も兼ねており、リハビリという位置づけで患者たちは出みせでやれ焼きそばだのフライドポテトだのの盛りつけに駆り出される。

ソフトクリームの渦を巻くのに件の泣き虫女性患者が苦戦していると、若い看護師たちがケラケラ笑って「早くしなさいよー」「そんなこと言ったらまた泣いちゃうんじゃない?」などとうそぶいていた。

僕と結城は、祭の会場となった駐車場の一番奥に設けられた「みんなの作品展」ブースを担当させられた。そこで日頃の作業療法で作ったぬり絵や工作品を飾っていたのだが、その中に、あの日結城が見せてくれた絵がないことに気がついた。

「あの、見当たらない作品があるんですが」

僕が尋ねても、ブースの監視をしていた作業療法士は「そうですか」と返すだけだった。結城は、それでもにこにこと笑みを浮かべていた。

***

それから一ヶ月ほどして、結城に外泊の許可が下りた。

小ぶりのリュックサックを携え、結城は「ちょっと、行ってきます」と僕にだけ挨拶をした。

「もうすぐ、レイナの誕生日なんです」

それを聞いた僕はとても、嫉妬心を抑えられなかった。結城には、自分と違って帰る場所がある。そのことが、どうにも虚しくてたまらなかった。

僕は会釈する結城を無視した。それでもなお、結城は笑顔でこちらに手を振りながら病棟を去っていった。

——なぜ、あの時僕は、彼を引き留められなかったのだろう。

己の弱さが、この先ずっと自分を苛むことになろうとは、このときの僕にはまったく想像できなかった。

ただ、ひたすらに虚しかった。悲しかった。……寂しかった。しかもそれらを口に出すことすらできなかった苦悩から、僕はひたすら目を背けていた。

しかし、そんなことは、しょせん卑劣で身勝手な言い訳にすぎないのだ。

それから、結城が病棟に戻ってくることはなかった。

外泊期間があまりに長いので、不自然に思って結城の携帯電話に病棟の公衆電話から何度も電話をかけた。個人情報のやりとりは自己責任として放置されていたため、僕たちは互いの携帯電話番号を交換していた。

僕の携帯電話は管理上の理由で没収されていたし、閉鎖病棟は外へ自由に出ることもできないので、ナースステーションの前の公衆電話からかける以外の方法がなかったのだ。

結城の携帯電話は留守電にもならなかった。だから何度もかけた。いつか出てくれると信じていたから。

しかし、それを病棟スタッフたちにひどく咎められた。時として口汚く罵られた。

喉の奥が焼けるような不快感を堪えながら、彼ら彼女らの罵声を背に受けても、毎日公衆電話から結城の番号をプッシュし続けた。しかし、ついに電話が繋がることはなかった。

***

ある時、隣の病室で男性患者同士の喧嘩が起きた。看護師にいわれて仲裁するために僕はその部屋に入った。それで初めて気がついた。6人部屋のベッドに空きはなかったはずだったが、一番奥の空間に洗濯済みのリネンが畳まれて置きっぱなしになっていたのだ。結城は戻ってくるんだから、他の患者が(リハビリと称して)シーツ類を敷いておくはずだ。僕は失礼を顧みずに、間仕切りのカーテンの中へ顔を突っ込んだ。

結城が使っていたはずのベッドには、見知らぬ老年男性が、直接マットレスの上で、オムツをつけた姿で昼寝をしていた。

どういうことかと尋ねても、ここぞとばかりに「個人情報だから」と医師や看護師たちには取り合ってもらえなかった。

結城はなし崩し的に退院したのかもしれない、と僕はどうにか自分を納得させようとした。もしかしたらどこかの街で、レイナちゃんに得意のイラストを描いてあげているんだろう。

あの人は、一足先にここから出られたんだ、と。

***

その後、結城が作業療法の部屋に残していったあのぬり絵が、年末の「大掃除」のプログラム中に出てきた。作業療法士が即座に捨てようとしたので、それをどうにか阻止して僕がそれを引き取った。

デイルームに戻ってそれを広げたところ、近くにいた看護師たちが「あっ」と声をあげた。

「やだ、あれってもしかして」

「ああ、あの人の? JRに飛びこんじゃった」

僕は視界が一気にぐにゃりと歪むのを止められなかった。腹の底から激しい怒りが込み上げてきたことまでは、記憶にある。

それからしばらく先のことは、よく覚えていない。気がついたら保護室の中にいて、コンクリートでできた灰色の天井を見上げていた。

この灰色に、結城ならどんな色彩を添えてくれるだろう。そんなことを考える資格すら、僕にはもう、ないように感じられた。

右腕にじわりと痺れを覚えたので視線をやると、ガーゼがあてられていた。おそらく、きつめの鎮静剤を注射されたのだろう。頭の鈍痛は相当ひどく、僕に整然とした思考を許さなかった。

ここは「心を癒す」場所などではないと身をもって理解していた。疲れ傷つき果てた人々が「正常」とされるものからの逸脱を余儀なくされた結果として、社会から隔離される場所に他ならないと。

散々傷ついてたどり着いた先で、またしてもその傷をえぐられる。そんな不条理が、この社会では「医療」としてまかり通っているのだ。

保護室から一般病室に移動が許可された日、僕はふらつく足をどうにか運んで自分のベッドへ戻った。頼んでもいないのに持ち物が整頓されていた。嫌な予感がして、床頭台の引き出しを開けるとそこには黒のボールペンで全面に「×」をつけられたレイナちゃんの似顔絵が転がっていた。

僕は薬のせいで怒りを抱く気力も奪われていたので、沸き上がる虚しさにどうにか耐えながらその絵を携えて、のろのろとナースステーションへ向かった。

ノートパソコンに向かって気だるげに看護日誌をつけていた看護師に向かい、僕はその無残になった一枚をみせた。

「これ、どういうことでしょうか」

「なにが?」

視線も合わせずに看護師がいう。異食や自傷を避けるために病棟内では患者たちにボールペンの所持は一切認められていない。

だが、レイナちゃんの顔を汚したのが誰であれ、この絵を守れなかった僕が悪いことには変わりがない。

「……なんでも、ないです」

僕が踵を返して去ろうとすると、奥の椅子でふんぞり返っていた看護師長が、やはりだるそうに顔を起こした。

「そういうの、もうやめたほうがいいわよ」

「……はい?」

「あの人には娘なんていなかったの。妄想よ妄想。そういうのに、いつまでも付き合ったって、なんか意味ある?」

ここは、心を癒すどころか、自分に尊厳というものがあることを徹底的に忘れさせるための場所だ。このとき、僕はそれを痛みとして実感した。

僕がうつむいて立ち尽くしていると、看護師長は脅すような口調でこういった。

「なに、保護室がそんなに恋しいの?」

僕はそれから黙りこんだままデイルームにしつらえられたソファに身を沈めていた。するとその隣に、例の泣き虫女性患者がやってきて、唐突に僕にこういった。

「死にたいっていうと『それは生きたい、の裏返しだ』とか、イミフなことカウンセラーとかに言われるじゃん。でも死にたいはそのまま死にたいって意味じゃん。でもそれを口にすると薬がガンガン増えていくでしょ? で、死ぬことについてさえ考えられなくなる」

「……そうかもしれませんね」

「その絵、もったいないね」

女性患者が無残になったレイナちゃんの似顔絵を指さした。

「びっくりしたよ、あなたがあんなことする人だなんて。でもまあ、気持ちはわかるけど」

「『あんなこと』?」

「ほら、あなたが保護室行きになった時のこと。え、覚えてないの? デイルームにいたみんな見てたよ。あなた、近くにいた看護師につかみかかってボールペン奪って、その絵にでっかくバツジルシつけちゃったじゃん。もったいないなーって思った」

それだけいって、その女性患者は去っていった。僕は強烈な罪悪感を覚え、何度か頭を横に振った。それだけで激しいめまいに襲われた。このままもう、なにもかも終わってしまえと心の底から願った。

けれど、その願いひとつすら叶えることは許されない。光などには到底、手の届くはずもない。そういう場所に、僕は居る。

嘘だ。全部、嘘なんです。何もかも幻なんです。

そう言えたなら、どんなに救われるだろう。

〈終〉

しゃぼん玉

卯月の手前の日曜日、珍しく雪の積もった私たちの住む街は、少し怖いくらいにしんと静まりかえっていた。マンション四階の窓から外を眺めると、はらはらというよりはぼたぼたと雪が落ちて窓に打ちつけていた。

「うわー、季節外れ」

私が声をあげると、きみは文庫本から目を離さずにこういった。

「それって、どういう意味?」
「え?」
「3月の終わりに東京で雪が降るのはおかしいことかな」
「別におかしくはないけど」
「そう」

きみは本を閉じると、洗面所に向かっていった。私はソファに横になってそのままうたた寝を始めようと目を閉じた。

眠りに落ちるより前に、私はもう一度まぶたの裏にぎこちなく舞う白いかけらを思い浮かべた。

ふと、いつかテレビでたくさんの珊瑚礁が白化して死に至るというニュースが流れていたのを思い出した。その時に映像で観た珊瑚の白片は、今日この街に降り注いだそれにそっくりだった。

このとき「なんだか悲しいな」と私はいったのだが、きみは「これはこれで綺麗だね」といったので、本当に悲しくなってしまったのを思い出した。

ほのかな石けんの香りに気づいた私は、はたと瞬きして目を覚ました。時計の針が午後四時過ぎを指した頃、私の視界へ「おかしな」光景が飛び込んできた。

きみが紙コップとストローでしゃぼん玉を作っていたのだ。そのなかでもとびきり大きな一つが、私の目の前までふよふよと遊びにきてくれたのだが、私が手を伸ばすとあっけなくぱちんと弾けて消えた。

「変なの!」

昼寝を邪魔された私が少しだけ不機嫌にいうと、きみはわざと勢いよく息を吹いて、小さなしゃぼん玉をたくさん作った。

「おかしい?」
「うん」

きみは何が嬉しいのか、それからもしばらく洗面所からしゃぼん玉を作り続けていた。そのうちのいくつかはリビングにまで届いて、私のよく見える場所で消えていった。

「おいでよ」

きみがそういっても、私は首を横にふった。

「怖いの?」

なんという挑発をするんだろう。

そんなもの、怖いに決まっている。美しいものほど、すぐに目の前から消えてしまう。しゃぼん玉はいつだって、そのことを教えてくれているじゃないか。

「また作ればいいよ」

私の臆病さをよく知るきみだ。雪もしゃぼん玉も、明日にはすっかり消えてしまうし、消えてしまったことも、きっと私はもう気にしなんてしないのだろう。気にしないうちに忘れてしまって、忘れたことそのものを忘れてしまうのだ。

そう考えたら急に怖くなってしまって、私は考えるより先にソファから起き上がって、すぐにきみの横にぴたりとくっついた。

「どうしたの」
「それは、私のセリフだと思う」
「じゃあ、言ったら?」
「どうしたの」
「どうしたんだろうね」

なんだかおかしくなって、私たちは笑いあった。しゃぼん玉なんて何年ぶりだろう。
ストローを今度は私が吹いて、しゃぼん玉をリビングに飛ばした。そのうち一つが、きみのお気に入りの文庫本の上ではじけた。

「あー」

きみが楽しそうに手を叩く。私も楽しくなってどんどんしゃぼん玉を作っては失った。そのすべてが悲しくて、だから祝福すべきだと私たちはわかりきっていた。

外は暗めの曇天、せっかく満開になった桜もこごえていることだろう。花びらも湿った雪に耐えられずに散っていることだろう。

何もかもが他人事のような気がしていた。けれど、きみとの時間だけが私にとっての本当であれば、それでいいと思う。なにがあっても消えてほしくないと、強く願った。

たとえこのしゃぼん玉みたいに今のこの想いがはじけて消えてしまう時がきても、ふたりで過ごした時間は本当なんだと、いつか「その時」が来ても信じていられますように。

きみは文庫本を手にして、私に窓の外を見るよう促した。私がつま先立ちで窓辺にたたずむと、きみは後ろから腕をまわしてきた。

向かいの一軒家の屋根の上の雪は、すでに溶けかかっている。「なんだか寂しいな」と私がいうと、「これはこれで綺麗だね」ときみがいうから本当に寂しくなってしまったので、私はきみのセーターの袖に噛みついた。ふわりと石けんの香りがした。

変わらないものなんて、何一つ望んでいないよ。何もかもが流転して色彩も体温も変えてゆく。それは私だって同じことなんだ。

だから、いまこうして一緒にいられることも、当たり前だなんて、決して思わないよ。

純愛とか笑わせんな

「志望動機は?」

同期の中竹佳樹がタバコ片手にだるそうに聞いてくる。山積みになった捜査資料にゲンナリしていた僕はため息をついた。

「就活生かよ」

「社会の平和を守るため、は嘘だろ」

「なんでだよ」

「志望動機は?」

竹中は容疑者を詰問するような威圧的な口調で質問を繰り返した。

「なんで刑事になんてなろうと思ったんだ」

「別にどうだっていいだろ」

……言えない。

合法的に「こういう」画像を見られるから刑事になっただなんて、とても言えない。

僕は資料ファイルを閉じると、表紙部分に貼り付けられている数枚の写真を一瞥した。そこには今追っている事件の被害者が写っている。

——あらゆる角度から撮影された、惨殺死体が。

きみが生きている限り、僕はきみを愛せない。

「どうせ殺すなら、私にしてくださいね」

警視庁捜査一課きってのじゃじゃ馬事務員、宮川香織は僕のデスクにホットのルイボスティーの入ったマグカップをどんと置いて、トレイをひらひらさせながらそんなことを言い放った。

「いきなり何言ってるんですか」

「だって、そういう目をしてるんですもん」

「目?」

宮川は僕の顔をじっと覗きこんだ。

「私ね、父の職場見学で子どもの頃からたくさんの殺人犯に会ってきたんですけど」

「それ、いいの⁉︎」

「さあ。で、秋山さんって彼らと『おんなじ目』をしてるんですよ」

「はい?」

それだけ言って、宮川は鼻歌まじりに足取りも軽く去っていってしまった。

僕はそれが仕事にもかかわらず、いかがわしい本でも隠すかのような仕草でそそくさと捜査資料を片付け、席を立った。

きみが生きているせいで、僕はきみを愛せない。

きみが、生きているせいで。