サファイアの涙

お前がもうこれ以上傷つかないよう、石英硝子でできた籠にお前を閉じ込めてから、どれくらいの時間が経っただろう。 朝が来るたびに、お前はその白い羽を震わせてリーンと鳴く。どんな天使の歌声よりも美しく響くそれは、私を眠りから覚…

たんぽぽ

落ち葉がつむじ風に踊っているのを見ると、たんぽぽのことを思い出す。たんぽぽといっても植物のそれではなく、たんぽぽという名の女の子のことだ。もちろんそれはあだ名で、本名は知らない。出会ってすぐ、好きな花はと訊かれ、僕が特に…

レモン爆弾

テーブルの上にレモンがひとつ。壁に掛けられた時計は、正午を少し過ぎたあたりを指していた。 大事な話がある、と言われたのはいいが、もう何分も沈黙がこの部屋の支配をしている。 ふと、白い鉢が目についた。 「なんていうの」 私…

ボールペン

窓の外では蝉の大合唱だ。クーラーのよく効いた部屋で、彼は木製の椅子に身を預けていた。読みかけの文庫本には、クローバーをあしらった栞が挟まれている。 梅雨明けをあれほど待ちわびたのに、いざ夏がやってくると、暑さも湿気も非常…

暇つぶし

僕はしげしげと目の前の少女を見た。少女は不機嫌そうに僕の視線を受け流している。 「邪魔じゃない?」 単刀直入に僕は言った。 「その羽。空気抵抗が」 少女はダンマリだ。 「不利だと思うんだ」 ショートカットヘアの少女は、ま…

ゼンマイを巻く

地元のミニコミ誌の取材依頼が来たのは、紫陽花たちが雨に濡れて彩りを増す時期のことだった。 はなみずき通りと名付けられた通りに面したこの店だが、流行のカフェとは違って年号が昭和の頃からほとんどスタイルを変えていない、自分で…

開かずの踏切、スカートの汚れ

久々に会う彼とこじゃれたカフェでディナーをするために、日もとっぷりと暮れた街を新しいスカートを履いて歩いていた。 遮断機のバーが降りはじめて、しかし私は走ることをしなかった。ワイヤレスイヤホンの右側が耳から落ちてしまいそ…

朝と灰

(1) 皆川先生が亡くなった。その一報をLINEで受けた夜、僕はタブレットにダウンロードした「ニューシネマパラダイス」を観ていた。トトとアルフレッドの熱い友情に名作の呼び声高い映画だが、僕にはいささか美しすぎるように感じ…

水曜日の午後、喫茶白鳩にて

しとしとと雨の降る夕まぐれには、決まって彼のことを思い出す。彼はこういう日にこの喫茶店に来ると、いちばん窓際の席に座って、ずっと外を見ていた。雨だれがガラスに打ちつけるのを寂しげに、しかしどこか楽しそうに眺めていた。 彼…

白鴉

彼が神を自称しはじめてからも、私たちの生活になにか大きな変化が起きたわけではない。 彼は相変わらず寝坊するし、派手に忘れ物をするし、よく椅子の端にかばんの紐を引っかける。 自称とはいえ神なら予言のひとつもしてみたらどうか…