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銀の翼

神さまになんて、なりたくなかった。

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今日の彼には、私の背中に銀色の翼が見えるという。映画館で流行りの作品を観ているときも、こじゃれたレストランでランチをしているときも、点灯前のイルミネーションが絡まった樹々の並ぶ舗道を歩いているときも、彼はずっと私ではなくその翼に目を奪われている様子だった。

ふたりでよく行く小さなカフェで、ホットのカフェラテを注文したときも、彼はまったく上の空だった。

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ラテアートを崩す瞬間の形容しがたい背徳感を共有したくて、私は彼に銀のスプーンを持たせ、かき混ぜるように言った。

ところが彼は眉間にしわを寄せ、今度はスプーンを凝視しはじめた。正確には、スプーンに映る私の翼を確認しているのだった。ラテアートのくまはどんどん冷めていく。

ひざ掛けに使っていたストールがするりと床に落ちてしまったので拾おうとしたのだが、私の動作を彼はスプーンで制止した。ペナルティカードでも出すような仕草でスプーンを見せられて、私は面食らってしまった。

近くを通ったカフェのウェイトレスが、気を利かせてストールを拾ってくれた。お礼を述べるとにっこりと笑みを返してもらえた。

一方、彼といえばいつのまにかスプーンをくるくるとカップ内で回して、くまの原型を消し去ってしまっていた。ただの冷めかけたカフェラテがテーブルの上に残った。

翼ってなに? と私がいくら訊いても、彼はふるふると首を横に振るばかりだ。そんなもの生えてないじゃない、といくら主張しても、なぜ否定をするのかと問い返されてしまうので、どうしたらいいのかわからない。

幻覚でも見ているのじゃないかと心配だ、と率直に伝えた。それでも彼は、私の背中のほうへ視線を送ったまま黙ってカフェラテを飲み干していた。

日の入りの早い季節、午後5時にもなればあたりは真っ暗になる。街灯が点灯するのに合わせて駅前のイルミネーションも輝きはじめる。わぁきれい、などと口走れば、星々の光を覆い隠す人工物に寄せる視界はない、と一刀両断されてしまうことだろう。

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翼で飛ぶこともできない私が、翼の存在を認識する彼のとなりにいてもいいか、というのは愚問だと思う。実際私はとなりにいるわけだし、彼が翼を見ようが見まいが、私の恋人であることに変わりはないのだから。

イルミネーションに支配された並木道を、手をつないで歩く。追いやられた夜の闇が、彼の中に居場所を求めたかのように彼の瞳は暗い。落ち葉のじゅうたんを踏みしめると、ときおりプラタナスの大きな葉がくしゃりと小気味いい音を立てた。

光の洪水を脱出して中央線の真っ暗な高架下にたどり着くと、彼の挙動はいよいよぎこちなくなっていた。繋いでいるはずの手は小刻みに震えて、呼吸も浅くなっている様子である。街灯には大小の蛾たちが羽音を鳴らして群れている。

大丈夫? と私が声をかけるより先に、彼はつぶやいた。

「神さまになんて、なりたくなかった」

頭上を中央特快の列車が激しい音を立てて通過していく。彼の唇はまだ動いているが、声を聞き取ることは叶わない。彼の暗い瞳がまっすぐに私をとらえる時、それに抗うすべを私は持ち合わせていない。

この先、何がどうなるかなんて知らないし、知りたくもない。ただ、私はこの彼と、それでも一緒にいたいと望む。説明責任なんて蹴っ飛ばして、一般常識や慣習、思い込みたちを全部なぎ倒して。

彼の目から、ほろほろと涙があふれ出した。彼は突然つないでいた手をふりほどくと、翼ごと私を強く抱きしめた。私はされるがまま、彼の腕の体温を感じることにした。

列車が去ってから数秒後のことだ。通過音の余韻の残る澄んだ空気を裂くように、彼は言葉をゆっくりと紡いだ。

「お願いだから、何度も言わせないで」

「え?」

「結婚してください」

野良猫が走り去って、スーパーマーケットの裏口に積み上げられたダンボールに突っ込んでいった。街灯が心もとなくチカチカするたび、蛾たちは惑って集散した。急に風が吹き始めて、足首あたりが特に冷たく感じられた。これは木枯らし何号だろうか。

どうしてこう、そういう大切なことをこんな場所で伝えるかな。これじゃあどこにも断る理由が見当たらないじゃないか。きみは神さまなの? いつの間に? それと私へのプロポーズにはどういう関係が?

逡巡するだけ意味がないと思った。彼に抱きしめられたとき、私は確かに自分の背中に生えた翼を感じたからだ。

私たちは高架下の柱に寄りかかり、銀の翼を、ふたりの姿を秘匿するように丸く広げた。彼の涙をそっと人差し指で拭ってあげてから、私はゆっくりと頷いた。彼にとってこの世界に女神がいるとしたら、それは間違いなく私のことなのだ。

はたから見れば、冬の夜に高架下で熱烈に抱き合うカップルに過ぎないと思う。それでいいのだ。真実はふたりだけが知っていればいい。そういうものなのだ、きっと。