第三章 さようならだけはいわないで

冷たい廊下にカツン、と高音が響く。狭い空間によく映える鋭い音。それがテンポよく聞こえてくる。彼は読んでいた本から目を離し、来客を待った。カツカツという靴音は、彼の部屋の前で止まる。

一呼吸置いてから、来客は静かに彼にこう言った。

「……話があるの」

篠畑礼次郎は即答せず、客を迎え入れるために紅茶を淹れようと、椅子から立ち上がった。この緩慢な動作が来客にはひどく不快だったが、篠畑のこのペースは昔からちっとも変わらないので仕方がない。

「セイロンよりアッサムがいいかな」

篠畑は茶葉の入った缶を選んでいる。彼の言動に文句をつけていてはキリが無い。来客はじっと時が過ぎるのを待った。腕組みしながら、篠畑が自分を招き入れるのを待っている。急いでいるとはいえ、「拘束された自由」を侵してはならないと心得ているからだ。

しかし数十秒経った頃、篠畑はあっけらかんとこう言った。

「あ、鍵なら今日は開いてますけど」

来客――ミズはわざとハイヒールで床を軽く蹴とばした。一際高い音が響く。

「相変わらず喰えない奴ね」

小声でそうこぼした。

篠畑は自分の椅子をミズに勧め、自分はベッドに腰かけた。

「あぁ、美味しい」

マイペースに紅茶の感想などを述べるものだから、ミズの苛立ちは増長する。だが篠畑が言う通り紅茶はかなり美味しかったので、ミズのご機嫌は辛うじてキープされる。

ミズは早速本題に入ろうと、こう切り出した。

「ここで新聞は読めるんでしょう?」

「新聞だけじゃないですよ。本だっていくらでも読めます」

「そんな事はどうでもいいの」

「僕の紅茶は我流だったんですが、本でちゃんとした淹れ方を知りました。場数を踏まないと上達はしませんね。まだあの人に淹れてあげるのは難しいな。もっとも、ここにいる限り逢う事はできませんが」

勝手に話を進めて、勝手に苦笑している篠畑をけん制するように、ミズはやや語気を強めて言った。

「Dr.篠畑」

懐かしい呼称で呼ばれた篠畑は一瞬だけ、ぴく、と右眉を上げた。そして何でもないような素振りで紅茶を一口、口に運んでから、

「……なんでしょうか」

「話があるのよ」

「まぁ、そうでしょうねぇ。あなたがここに暇つぶしに来るとは到底思えない」

「篠畑。あなた、私が何を訊きたいのか、もうわかっているはずよ」

「さて?」

篠畑お得意のおとぼけである。ミズは苛立ちを極力抑えて続ける。

「この間、身内が捕まった話は知っているわよね」

「ええと、一昨日の三面記事に載ってた件かな?」

一言発するたびに篠畑は紅茶を飲むので、話がスムーズにいかない。だがそんなことはミズにはわかりきっていることである。

「単刀直入に聞くわよ。あなた、『彼』に何をしたの」

篠畑は首を少しだけ右に傾け、

「と、おっしゃるのは?」

とミズの言葉を促した。ミズは足を組みかえながら、イラついた時の癖である腕組みをした。

「今日はただ捜査協力の申請をしに来たんじゃないの」

「ほう」

「もう一度訊くわ。あなた、『彼』に何をしたの」

「どなたのことでしょう」

ミズは苛立ちを発散させるように、フン、と笑った。

「何がおかしいんです、ミズ。あなたらしくもない」

「本当は貴方だって笑いたいんじゃないの? まったく違う意味で」

そう言われた篠畑は、それでもとぼけた顔である。

「紅茶が冷めてしまいますよ」

「結構よ。これ以上とぼけないで」

「何の話やら……」

尚も白を切る篠畑だったが、ミズは動揺しなかった。直後にミズが続けた言葉に、篠畑の「何か」がオンになったのである。

「……人形遊びも度が過ぎたようね」

「人形遊び?」

篠畑の両目に何かが灯り始める。彼は紅茶のカップをベッドに置くと、あごに手をやった。

「ああ……『彼』かぁ」

まるで懐かしい友人でも思い出すかのようだ。

「そうですね……ちょっと遊びすぎちゃいました」

そう言ってニッコリ笑った。

ミズの顔から、自らを嘲るような笑顔が消える。

「今朝、その彼の机からこんなものが出てきたの」

ミズはコピーされたノートの1ページを差し出した。それを見た篠畑は、しかし顔色一つ変えない。

「悔しいけど、あなたからの情報が必要。今すぐ白状してちょうだい」

ミズの百歩譲った発言に気を良くした篠畑は、残りの紅茶を飲み干して足を組み直した。

「構いませんよ」