朝礼終了後に若宮から届いた携帯のメールに、篠畑が自分に会いたがっている旨が書いてあって、葉山は喜ぶと同時に非常に驚いた。まさかこんなにすぐに願いが叶うとは思っていなかったからだ。
メールで、指定された時間に都内某所へ来るように指示されていた。葉山は半休を取ってその場所へ向かった。
どんな閑寂な場所だろう、と思いながら行ってみると、そこは大通りに面したオープンカフェだった。午後の日差しがいやに眩しい。こんなうるさい場所で本当にあっているのだろうか、と葉山は多少の不安を覚えた。しかし、周囲の客と一線を画すような雰囲気を醸している浅黄色のセーターの男性にすぐに気がついた。
「あの、もしかしてあなたがDr.篠畑ですか」
声をかけられた男性は、持っていたカップを二、三回縦に揺らした。
「君が葉山くんですね」
にっこり、篠畑は営業スマイルで彼を迎えた。葉山は頭を下げた。
「はじめまして、この度はお手数をおかけして……」
「そんなに固くならないでください。紅茶でもいかがですか」
「あ、はい」
葉山は、緊張と興奮でムズムズした。ほんとに、『見えざる影』は存在した。そして今、目の前にいる。
「僕には外出許可時間が決められているので、申し訳ないですが早速、本題に入りましょう。構いませんね」
葉山は首を縦に振り、ごくりと唾を飲んだ。
「お手紙拝見しました。君の先輩の話も、若宮君経由で知っています。そこで僕には甚だ疑問があるんですが」
「……なんでしょうか」
「気にすることないと思いますよ?」
あっけらかんとした篠畑の言葉は、葉山を惑わせた。そんな彼に構うことなく篠畑は続ける。
「モグラが刑事をしてはいけませんか? それを気に病む必要が、一体どこにあるのでしょう」
「それは、だって」
「君は『自覚していることを自覚したがらない』。現実から逃避したがっている」
葉山はキョトンとしている。
「世の中、不条理で不可解な事象など腐るほど転がっています。そのうちの一つや二つにぶつかっただけで悩んでいては、心がもちません」
葉山の席に紅茶が置かれた。篠畑は彼に、それを飲んで一息つくように促した。
「君は純粋な目をしていますね。僕好みです」
「えっ!?」
「誤解はしないでください。そうではなくて、僕の嗜好に打ってつけの人材だという意味です」
「ますます、意味がわかりませんが……」
戸惑う葉山に篠畑は苦笑した。
「救ってほしい、と手紙にはありましたね。簡単ですよ。君は君自身の手で、今の殻を破り羽ばたくんです」
「……はぁ」
なんだか、ありきたりな青春ドラマのセリフみたいだな、と葉山は内心でガッカリしてしまった。
「僕はそのお手伝いをするだけです。君が君自身を解放するためのね」
「解放?」
唐突に篠畑の両目に、不穏な色が灯り始める。それが、十数人を自殺へと追いやった『見えざる影』の表情である。葉山はその雰囲気に圧倒された。と同時に、不思議と惹かれるものがあった。
「君は正義の刑事。今追っている事件は、間もなく解決するでしょう」
預言者のような口調で篠畑は言う。
「その時、君は解放されるチャンスを得る」
「解放されるチャンス?」
篠畑は、今回の事件―――連続女性殺害事件―――の真犯人を知っていた。しかしそれをまだ誰にも伝えていない。それはなぜか? と問われれば、きっと彼はこう答えるだろう。
「放置すれば、もっと面白いことになりそうだから」。
実際、事態は篠畑の考える方向へ向かっている。しかも葉山という、とっておきの「人形」というオマケつきだ。彼の存在を知っている者には言わずと知れたことだが、篠畑の趣味は「人形遊び」である。
そう、葉山と篠畑を引き会わせたという判断の甘さを、若宮は後々まで後悔することになる。
「いいんですよ。我慢しなくても」
「えっ」
篠畑は歪曲した優しさのこもった口調で、葉山に甘言を弄し始めた。
「都会の喧騒は君に多くを語りかけています。その中で君は自分の正義を貫くんです」
「正義?」
「君は選ばれた人間です。世界に否定された、ね」
「……」
心迷う人間にとっては尚更であるが、いわゆる選民思想というのは、当事者に勘違い気味の「特別意識」を植え付けてしまう。そしてそれは、正義という名の独善の実現に向かって暴走をするのである。
無邪気そうだった葉山の中に隠れていた苦悩。その苦悩を篠畑は手紙によって見抜き、彼を「救う」ことを選んだ。
すべては、「面白そうだから」。自分の欲望を満たすための篠畑の言葉が、しかし葉山には天からの啓示のように感じられた。
篠畑が言うところの「救い」……すなわち、自己の解放と崩壊。
「君は、君自身の信念を貫いてください」
「……」
「誰が許さなくても、僕は君の味方ですよ」
「……」
葉山はしばしの間、与えられた言葉を咀嚼して、
「……ありがとう、ございます」
それを飲み込み、ゆっくりと席を立った。
「失礼します」
葉山は、ここに来た時よりも晴れやかな表情をしていた。都市伝説とまで謳われた人間から、「選ばれた」と言われたことによる大きな充足感と、今まで味わったことのない解放感を味わっていたからだ。
葉山の後ろ姿を見送った篠畑は、一度だけクスッと笑って、また何事も無かったかのように紅茶を一口飲んだ。