第三章 さようならだけはいわないで

やがて若宮と葉山を乗せた電車は終点の飯能駅に着いた。行くあてのない二人は、ひと気のないホームに降り、さらにひと気のない出口を選んだ。

車内でずっと寝ていた葉山はいくらか体力を取り戻したらしく、自分で若宮のコートを掴み、血痕を隠そうとしている。

「大丈夫?」

「うん……」

駅の近くに喫茶店を見つけたので、二人はそこでしばらく時間を潰すことにした。不自然に背中を丸める葉山の姿に、ウェイトレスは少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上気にとめることはなかった。

二人は特に会話もせず、適当に食事と飲み物を頼んだ。すっかりお腹が空いていたことを忘れていた葉山だったが、トーストの匂いに食欲を刺激されてか、食いっぷりはよかった。それに少々の安堵を覚えた若宮だった――が、その気持ちも、直後にかかってきた電話によって打ち消されてしまう。

着信は、篠畑からだったのだ。出ていいものかどうか迷った挙句、若宮は思い切って通話ボタンを押した。

――この瞬間が、重大な分岐点であった。

「……もしもし、若宮です」

「おはようございます。いや、もう『こんにちは』の時間かな」

若宮は完全に追い詰められていた。

「君に面白いお話があって電話したんだけれど。どうやら調子が良くないようですね。また寝不足ですか?」

「……なんですか、話って」

「ほら、ちょっと前に僕が会った警部補いたでしょ」

若宮はぎくっと肩をすぼめたのを、電話越しとはいえ篠畑に悟られないか不安だった。

「ミズより聞きかじったことなんですが。彼の机から面白いものが出てきて、署内で大騒ぎになってますよ」

「面白いもの?」

「ええ。捜査一課の刑事さんが何者かに殺された事件と、一連の連続殺人は繋がっていたのです」

若宮は息を飲んだ。

「今回の容疑者は身内です。彼の机から日記風のノートが出てきましてね。そこに書かれていた内容が非常に興味深く……いえ重大かつ重要な証拠になりました」

「そう、ですか――」

「だから、彼と代わってもらえませんか?」

若宮はめまいを覚えた。篠畑は、何もかもお見通しだというのだろうか。若宮は恐る恐る、葉山に電話を渡した。若宮の携帯電話から、篠畑の声が聞こえてくる。

「もしもし、葉山君」

「……はい」

「あと少しですよ。君はもう真理に近づいている。決断をすべきです」

「……」

真理。自分の存在をこの世に印付けるための行為に関わる一切の自己意識、あるいは投影される影。

「僕は誰だ……?」

――決断をすべきです。

葉山のデスクから見つかったノートには、こう走り書きされていた。

 僕はどこにもいない。どこにもいてはいけない。

土竜さんを殺したのは僕です。

でも、土竜さんに『僕』は殺されつつあります。

いくつもの世界を奪った罪は償います。僕は、僕が僕でなくなることが何よりの罰だと思っています。 僕は選ばれてしまった。この確信は揺るぎません。 すべて僕の所為です。さようなら。ごめんなさい。

さようなら。

篠畑の言葉によって葉山は、場所をわきまえず、いや完全にどこか若宮の知らない場所にいるような感覚で、まるでスイッチが入った人形のように高らかに笑いだした。

「くく……ッ……あははは!」

周囲の視線もものともせず、葉山は喫茶店を飛び出した。急いで若宮が後を追う。

「葉山君!?」

「俺はここにいる! ここにいるんだ!」

全速力で走っても、文字どおり暴走を始めた葉山に追い付けない。葉山は若宮の携帯電話を地面に投げ捨てた。そして、

「篠畑先生、あなたは本当に『僕』を救ってくださいました。その証拠を、今お聞かせします」

言い終えるや否や、急に振り返った。そして葉山は自分を追ってきた若宮に逆に掴みかかり、彼女の拳銃を奪おうとした。合気道有段者の若宮にも、この行動は予想外すぎて、応戦できなかった。

「やめて!」

若宮が言い終える前に、葉山はどこにそんな力が残っていたのか、若宮のみぞおちを思い切り殴った。あまりの痛みに耐えかねて、若宮はその場にうずくまり動けない。

「ダメ……葉山君!」

葉山は笑いながら拳銃をこめかみに宛がうと、

「『俺』を忘れてくれるな!」

「葉山君っ」

そのまま、躊躇せずに引き金を引いてしまった。

「きゃああっ」

自分の悲鳴に被さるようにゆっくりと倒れていく葉山の姿を目の前にした若宮は、あまりのショックと殴られた痛みで、その場で意識を失った。