第十三章 決意

首謀者の思惑と違った、と書いたが、では、首謀者――篠畑礼次郎が一体、何を目論んでいたのか?それは若宮郁子の出生にまで遡る。果たされなかった約束。そして裏切り。

「どうしよう」
あの日、恭介は呆然とした表情で篠畑にそう言った。
傍らに倒れている女性。戸惑いの指先が、篠畑を捕らえようとこちらに伸びてくる。
それを無視して、篠畑は女性に歩み寄り、様子を観察した。
「ただの気絶だよ、恭介。そんなに怖いのなら殴らなきゃいいのに」
「……すまん」
「謝るなら、千枝さんに謝ることだね」
「……」
通常、患者の家族になら、ここで主治医として『指導』をするのであろうが、殊にそれが親友であったりした場合はそうはいかない。どうしたって私情が挟まってしまう。だから、篠畑は努めて義務的に振る舞おうとした。
「お嬢さんだって生まれたばかりだろう。こんなことを繰り返してはいけないよ」
「わかってる」
恭介は衝動を吐き出した後の心地悪さと、してしまった行為のバツの悪さに俯いてしまう。
「千枝さんの診断書は早急に書いて郵送する。この場ですぐに書けるって程、簡単なものでもないからね」
「ああ」
「あまり気負うな。それと、どんな理由があっても暴力は良くない」
「……ああ」
千枝の若く白い腕は、自らつけた傷で赤黒く汚れていた。

 

「千枝を、入院させてくれ」
「どうして?」
「もう無理だ。あいつは目を離せばいつでも、切る。俺にはどうしようもできない。情けない話だが、凶悪犯は落とせても、自分の妻を管理することができないんだよ」
篠畑は目を臥せ、カルテの角を机にトントンと当てた。
「僕だって必要なら、入院指示だって辞さないけれど」
「ああ、頼むよ」
「今、千枝さんの生活環境を変えることに、賛成できない」
「何故だ」
「まだ幼いお嬢さんがいる。今が、アタッチメントが最も必要な時期。タイミングを見誤れば、将来に関わりかねないんだよ」
「もう十二分に悪影響だろうよ、千枝は育児放棄している」
篠畑は、白衣の襟に着いた警視庁のバッジを外しながら、ため息をついた。
「僕が賛成しなくても、君ならできる。その権力でいくらでも」
「それが嫌だから、こうしてわざわざお願いしているだろう」
「僕に、押し付けるの」
「……違いないな」
篠畑は苛立ち、眉間にしわを寄せた。
「恭介、君らしくない。君はもっとしゃんとすべきだ。それが警視庁と若宮家を背負って立つものの振る舞いかい?」
「みっともないのは、わかっているさ」
「誰も何も責めません、と精神科医なら本来言うべきだろうね。けど、僕はそんな薄っぺらい言葉を君に向けられない」
恭介は寂しそうに笑った。
「ありがとう」
「勘違いするな。僕は君に対してプロになりきれない自分を、誰よりも責めているだけだよ」
「……」
篠畑は机の引き出しを開き、1枚の紙を取り出した。
「君が欲しいのは、これ」
差し出されたのは、入院同意書。
「これに、僕の診断とサインが入っていれば」
篠畑は悔しさを滲ませた声でそう言うと、万年筆を握りしめて何かを走り書きし始めた。

病名   分裂感情障害
症状経過 自傷行為と被害妄想が激しく、通常の育児が不可能な状態。明け方に増悪し、しばしば家族に対して拡大解釈的妄想が見られる。

篠畑の手が一瞬だけ躊躇したが、しかし書き殴るように最後に自身の名前をサインし、恭介に突きつけるように手渡した。
「これで、いいんだろ」
「……すまん」
「恭介。僕は君の身勝手なわがままを聞いた。しかし、ただとは言わせない」
「わかってる。いくら払えばいい」
篠畑は唇を噛み締めた。
「対価が、金銭である必要はないよ」
「?」
「約束しろ」
恭介の表情が訝しげになる。前々から食えない男だとは思っていたが、まさかここへきて一銭の要求もせず、約束しろとなどと言う。しかし篠畑は真顔そのものだ。
「恭介、全力でお嬢さんを愛せ」
「何だって?」
「それが約束だ」
「本気かお前」
恭介は信じられない、と言った顔で篠畑を見た。篠畑はそれを睨み返して、
「僕に言わせれば、君のわがままの方がずっと、狂気の沙汰だね。愛した人があんなにも苦しんでいるのに、仕事を手放せない君の方が」
「……」
僕は今まで、多くの家族を診てきた。それこそ、仕事を言い訳にして病んだ家族に振り向こうとしない父親像など、腐るほど見てきた。しかしどうだ、それが、己が認めた親友であった時に、自分は一介の医師であることすらできなかったではないか。
「僕らは共犯者だ。しかしあの子に罪はない。だから君は全力であの子に愛情を注げ。そしていずれあの子が君と同じ道を選び、僕の元へ来ることがあったら、その時には――」
篠畑は断言した。
「僕が、護ろう」