別れてくれ。その言葉がユイの頭の中で何度もリフレインした。なんで私、すぐに「嫌です」って言えないんだろう。
今日の朝からあった出来事が走馬燈のように駆けめぐり、ユイは混乱した。
「今まで随分と迷惑をかけたことだろう。すまなかった」
違う、違う。さっきからこの人は何を言っているのだ? 第一、この征二の兄はやけに冷静だ。ユイはまるで自分の気持ちを試されているような気分になった。
「このザマだ。弟はどうかしている。一緒にいるのは君のためにならない」
「待ってください」
ユイは言葉の方が先に口を突いて出た感じだった。征二への気持ちにヒビを入れられた憤り故だろう。俊一は表情一つ変えずユイの言葉の続きを待っている。
「その。私は……」
ユイは唇をかみしめて、看護師達の手で再び大人しくなった征二を見つめた。彼の右手は不自然に中空を掴もうと動いている。両眼は辛うじて開いて、何も見ていないようだった。
「連絡はまだかしら」
「科を移ってもらわないと困るわね」
看護師たちのひそひそ話が聞こえてくる。ユイにもようやく事態が掴めてきた。いや、数時間前からの予感が確信に変わったのだ。
「征二は病気だ」
ユイの心を読んだようなタイミングで俊一は言った。ユイは目を見張った。
「認めたくないが、征二はどうかしてる。それをたった今君も見ただろう。こいつは病気だ」
「だからなんだっていうんですか」
ここで、ユイ本来の性格が唐突に顔を出した。初対面の相手に向かって、随分な態度だと自分でも思う。でも、止められない。
「征二は私の、大切な人です。それはあなたにとっても同じことでしょう? なんでそんな見下げたような言い方をするんですか」
俊一は腕組みしてしばし黙した。ユイは今朝から続いている緊張の糸が、今にも切れてしまいそうで、深呼吸をした。
「彼、ちょっと疲れているんです。だから、私が支えてあげなきゃいけなかった。それができなかったのは私の力不足です」
看護師たちは征二の様子が落ち着いたのを確認すると、ユイと俊一を交互に見やって退室した。
「なんですぐ病気だなんて言えるんですか。彼は確かにナイフを持っていた。それで私を傷つけた。でも、その時すごく動揺して……」
ユイは自分の指先にできたばかりの傷跡を見た。征二が、舐めてくれた跡だ。
「確かに私にも訳がわかりません、征二の今日の行動は理解しがたい部分があります。でも、そうやって突き放すように断言するのはいくらなんでも性急です」
俊一はため息をついた。
「統合失調症」
ユイの目が点になる。
「その疑いがあるそうだ」
ユイはバラバラになったビーズのストラップを思い出した。その後、征二が夢中で自分の携帯電話を壊した場面が、鮮明に蘇った。
「そ、そんなの嘘です、征二は――」
そんな訳がない。そう言いかけ言葉に詰まった。しかし、ナイフ所持を罪に問えない。そういうことなのか?
「本音を言わせてもらう。君が一緒だと、征二にとって良くない」
「えっ」
「救急車の中でも病院に搬送された時でも、必死に君の名前を呼んでいたそうだ。佐々木さん、君の名前をずっと」
「なんで……」
「こうなる日が来ると思わなかったのか?」
俊一のあまりに冷静かつ冷酷な質問に、ユイは窮した。第一、心当たりがない。俊一は背広のポケットから携帯電話を取り出しスイッチを入れた。病院の中だが今は咎める者がいないのでいいと思ったのだろう。
「弟からの、ここ最近の着信履歴だ。見る覚悟は、ある?」
……覚悟? 着信履歴? ユイはますます混乱した。携帯だったら毎日のようにやりとりしていたし、なぜ履歴を見るのに覚悟がいるのだろう。
ユイがうつむいていると、俊一はたしなめるように言った。
「君を責めたいわけじゃないんだ、ただ」
俊一は咳払いをした。
「ただ、君はまだ若い。この現実を受け止めた上で、今後の征二との関係を考えて欲しい」
そう言って、ユイに自分の携帯電話を手渡した。ユイは力なくそれを受け取ると、ようやく寝息を立て始めた彼を一瞥して画面に向き合った。
2006/11/25 AM4:22
2006/11/30 AM3:54
ユイの親指は次の着信履歴へと動いていく。
2006/12/04 AM3:36
2006/12/15 AM2:45
なんで、こんな時間に。
2007/01/04 AM1:22
2007/01/18 AM4:02
「さらに、だ」
申し訳なさそうに、しかし冷徹に兄は現実を突き付けてくる。
「真ん中のボタンを君に押せるか?」
「それは、どういう……」
「会話の記録が、残ってる」
「……!」
「聞けない? 無理もないよね」
「そんなことありません」
ここでNOと言えない、いや言わないのがユイなのだ。彼女は、一瞬躊躇し、しかしすぐにボタンを押した。
――ロクオンヲ、サイセイシマス。
2006/11/25 AM4:22
『兄さん、俺はどうしたらいいだろう』
『どうした?』
『実は今、つき合っている人がいるんだ』
『いいことじゃないか』
『そうだね』
2006/11/30 AM3:54
『こんな時間に電話して悪い。けどどうしたらいいか分からないんだ。眠れなくて』
『疲れてないか? 俺も明日仕事なんだ。勘弁してくれ。用があるなら朝にしろ』
『今隣で彼女が寝ているんだ。大きな声は出せない』
『用件は何だ』
『彼女の事で』
『恋愛相談なら友人にしろ。俺もそんなにヒマじゃない』
『そういう事じゃないんだ』
『ならどういうことだ』
『……なんでもない、すまない兄さん』
2006/12/04 AM3:36
『俺は大切なものを失ってしまうかもしれない。誰にも相談できないんだ』
『別れ話でも出ているのか?』
『彼女が遠くに行ってしまう』
『留学でもするのか』
『神に選ばれてしまうんだ』
『からかうな。いい加減にしろよ』
『俺は本気だ。天使が、間違いなくやってくる』
『寝不足で悪い夢でも見たんだろう。酒でも買って飲め』
2006/12/15 AM2:45
『今日も眠れない。頭が痛い。でも彼女に心配はかけられない』
『病院に行ったらどうだ? 風邪でも引いたんだろ』
『違う。俺が眠ってしまったらその間に彼女は殺されてしまうかもしれない』
『どんな発想だよ』
『地球は丸い。そして青い。だけど天使どもの目は真っ赤だ』
『詩人気取りか? 冗談なら面白くないぞ』
『助けてくれ』
『意味が通じない。何が言いたい』
『そうか。俺が神になればいいんだよね』
『なにも好きでお前の漫画じみた妄想につきあってるわけじゃないんだ、分かってるのか』
『苦しいんだ』
『しっかりしろ』
『武器が必要か? そうすればいいんだ』
『明日会おう。仕事が終わったら連絡する』
『それは出来ない。明日は武器を探しに行く』
ユイの指先がにわかに震えだした。俊一は壁にもたれかかって腕組みをしている。
2006/12/25 AM3:27
『決まった。彼女はやつらに選ばれてしまった。だが夜は俺の味方だ。計画を実行する準備を始める』
『お前、本当に本気で思ってるのか? 明日はバイトを休め。絶対に会いに行くから』
『彼女を守れるのは俺だけだ』
『正月、こっちに帰ってこい。この事を母さんにも話そう』
『そんなことをして俺の計画がやつらにばれたらおしまいだ。ふざけるな』
『それはこっちのセリフだ』
『俺は本気だよ』
2007/01/04 AM1:22
『征二、起きてるか?』
『寝ているヒマなど俺にはない。今も隣で彼女が寝ている。俺が守らなくちゃならない』
『一度でいい、会おう。頼む』
2007/01/18 AM4:02
『明日、計画を実行する。夜だけじゃない。太陽もやっと俺の味方になったんだ』
『何をする気だ?』
『そうやって俺の計画を聞き出そうとしても無駄だぞ。すべては彼女のためにすることだ』
『お前のせいで俺までどうかしてしまいそうだ』
『狂っているのは奴らだ! お前とは話さない』
『征二、お前、本当にどうしたんだ』
サイセイヲ、シュウリョウシマス。
録音は今日の分で終わっている。
征二は、ユイの知らない内にこんな妄想を抱いていたというのか。昼と夜とで、正気と狂気の間を彷徨っていたというのか。
自分は、何も知らなかった。何も……ただ平凡に愛し、愛されていたと確信していた。自分の無力感に、現実の残酷さに、ユイは打ちひしがれた。床に、電話を落としてしまう。俊一がそれを拾い上げた。
「これでもまだ、征二と向き合う覚悟が君にはあるのか?」
「私……」
「征二は君を失いたくない一心で病んでしまったんだろう。君と一緒にいたせいで」
君のせいで。君のせいで。
「私のせいで?」
俊一はすまなそうに頷いた。ユイが嗚咽を止められなくなるのにそう時間はかからなかった。
散ったビーズ。壊れた携帯電話、傷ついた指先……全部自分のために彼がやったことだとしたら。私はどうすればいい?
今すぐにでも征二に問いただしたかった。けれどその気力すら奪われた。ユイはのろのろとベッドに近づくと、落ちる涙もそのままに征二の体に縋った。
「ごめんね、征二、ごめんね……」
征二はこの場にあまりにも相応しくない安らかな寝息を立てていた。