俊一は征二にすがりつくユイに憐れみの視線を送ると、ため息をついて携帯電話の電源を切った。ユイは征二の手を握った。すると、弱々しくではあるが握り返す反応があった。ユイはハッとしたが、それは反射神経に過ぎなかった。しばらく時計の針の音だけが病室に流れた。俊一は堪りかねて言った。
「佐々木さん。いつまでそうしているつもりだい? まだ答えをきいていない。君はこの先征二とのつきあいをどうするつもり?」
ユイはBGMを聴くように俊一の言葉を聞き流した。いや、彼の言葉に応答する余裕がないのだ。ユイは思った。征二の兄はなんでこんなに冷静沈着なのだ? 自分の弟がこんな目に遭っているというのに。そしてさっきの会話記録……。
征二は正気と狂気の狭間を彷徨っていた。それに気づけなかった無力な自分がどこまでも恨めしい。確かに、自分は征二にふさわしくないのかもしれない。
征二がこうなったのは全て君のせい。君が、追いつめたのだ。忘れてくれ。別れてくれ。正直君といると征二のためにならない。俊一の言葉が脳天を直撃した岩石の如くにユイにのしかかった。私は、どうすればいいの? 涙があとからあとから流れてくる。それを見た俊一は、何か面倒なモノでも見るような視線をユイに送った。
「すまないが母さんが帰ってくるまでに答えを出してほしい。僕も仕事があるんでね」
「そんな」
「そもそもこれは工藤家の問題であって、君は部外者だ」
「私は、彼の、その、」
「もう一度言う。忘れてくれ」
「私は……」
「何度も言わせないでくれるかな。結果は明白だ」
「どうすれば……」
「別れてくれ」
ユイは征二の手を握ったまま、立ち上がった。
「……嫌です」
自分の器が、次から次へと浴びせられる冷たい言葉に、あっさり我慢の限界を超えたのだ。
「それは困ったな」
俊一は肩をすくめた。彼のその態度に、ユイ本来の性格が初対面の俊一相手に殻を破って飛び出してしまう。
「冗談じゃないわよ。何よ。私と征二が何で別れなきゃいけないのよ、私がね、どれだけ征二を想っているかも知らないくせに」
ユイは肩で息をしていた。正直、自分の言葉の薄っぺらさが疎ましかった。俊一は再びため息をついた。
「あの会話のやり取りを聞いておいて、よくそんなことが言えるな」
「私は、別れませんから。彼と、一緒にいる。あなたが何を言おうと」
「僕は事実しか言っていない。弟がこうなったのは、もう一度ハッキリ言おう、君のせいだ」
「だからなんだっていうのよ」
「なんだと?」
ここではじめて俊一は感情を顔に出した。
「私は、彼を愛しています。彼も同じです」
「ハッ」
俊一は鼻で笑った。
「失礼だが、めでたい話だ。僕は征二の兄だ。君よりも弟のことはよくわかっている」
「そうかもしれない。でも」
「恋愛沙汰に振り回されて気のふれた弟を、僕がどう思っているかわかるか」
「なんですって?」
「哀れな奴だ」
ユイは握る手に力を込めた。ふつふつと何かが沸き上がるのを、彼女自身感じていた。
「愛する人を守る為に、だと? 笑わせる。視野狭窄もいいところだ」
俊一はポケットに手を突っ込んで、ユイ達に近寄ってきた。
「君に責任をとれとは言わない。お願いをしているだけだ」
ユイはふうっ、と息を吸い込んだ。
「頼むから別れてくれ。征二のために」
俊一の言葉には容赦がない。しかしユイも負けじと、繋いだ左手に想いを込める。二人は、しばし睨みあった。いや、俊一は諦めの表情をひたすらユイに送っていたのだが。繋いだ手と手の温もりが、ユイを気丈にしていた。
病室には再び時計の針の音だけが響く。ユイは必死に言葉をまとめようとしていた。どうしたら、征二と別れずに済むんだろう。どうしたら、どうしたら……。
「ユイ」
突然、背後で声がした。ユイの左手がしびれた。あっ、と声に出していたかもしれない。
「……征二?」
ユイは振り返らずに言った。俊一が歩を止める。ユイは手にぎゅっと更に力を込めた。
「ここはどこ?」
「病院だ」
俊一が間髪入れず答える。
「俺は……どうしたんだ」
ユイと征二の手にじんわりと汗が浮かんだ。
「征二、あなた車にはねられたの。それで……」
征二は呆然と白い天井を見上げている。ユイは首を震わせながらそっと振り向いた。征二は真っ青な顔をしていた。そして子供のように目を潤ませていた。
「お前、覚えてるか。今朝からここに運ばれる直前のこと」
俊一が抑揚のない声で問いかける。
「今朝……今朝?」
征二は俊一の言葉を後追いするように繰り返した。
「そうだ。今の状況を理解できているか、と訊いているんだ」
ユイは征二から目が離せなかった。だって、彼、まるで幼な子のよう。
「俺、お、俺は」
征二の視線が中空を彷徨う。ユイから自然と手を離して、自分の頬に当てた。
「生きてる……」
不覚にもその言葉だけでユイは再び涙ぐみそうになった。
「そうだよ。あなたちゃんと生きているの。わかる? 私だよ」
「………」
征二はしばしユイの顔を見つめた。俊一は苛立ちを必死に抑えてその様子を見守っている。
「ユイ。ユイだね」
「大丈夫? どこか痛くない?」
ユイは征二の手に自分の手を重ね彼を抱きしめた。征二はそれに応えるように、潤んだ目をユイに貼り付けるようにして言った。
「ユイ、は、大丈夫だよ」
「え?」
力の入らない手で、今度は征二がユイの手を握る。ちぐはぐな優しさをユイは直感した。
「兄さん」
「何だ」
「ついに、俺は、到達した」
ぽつぽつと、言葉を並べるように征二は言う。
「何にだ」
「神に、さ」
ユイはぎくりとした。俊一はどこか悟ったかのように動じない。
「ユイ。君は、幸せだよ」
「征二?」
「俺は選ばれた……奴らを殲滅する神として」
力が入らないはずの体をゆっくりと起こし、征二はユイの耳元で囁いた。
「そして、君は、俺に、選ばれた……」
征二の口調は一定だが、ぎこちなさを感じる。ユイの握られた手が震え出すのにそう時間はかからなかった。
「俺達、の幸せは、もうすぐだよ」
残酷な現実がその場にいる全員を襲う。
「いやっ……」
征二の口元が、不自然に吊り上がったのだ。
「いやぁっ!」
ユイは恐怖を感じ、征二から離れた。全身から血の気が引いた。
「これだから言ったのに」
俊一が再び、先ほどよりも強い口調で、ユイを責めるように言う。
「これでも『愛してる』などと言うつもり?」
「征二、しっかりして」
「ユイ。こっちに、おいで」
「お願い、しっかりして。ねぇっ」
「君は今、明らかに征二を拒否した! これが現実だよ」
征二の頭の中では、荘厳な鐘の音が響いている。二人を祝福する鐘の音が。
「征二っ……」
俊一が何度目かわからない大きなため息をついた。