「僕、このでっかい栗が食べたい!」
「こら、まだ手を洗ってないでしょう。これからの季節はちゃんと、手洗いとうがいをしないとダメよ」
「ぐちゅぐちゅ、ぱー。おしまい」
「ふざけないの。お兄ちゃんはもうやったのよ?」
「ふーん」
「おい征二! モンブラン食べちゃうぞ」
「やだーだめー」
「はは、さっさと洗ってこいよ」
「うん!」
「父さんは?」
「仕事が忙しいの。今日から夕飯は、しばらくお母さんとお兄ちゃんと三人」
「ふーん」
「寂しい?」
「別に」
「ねぇ、母さん」
「なに? 俊一」
「俺、塾に通いたいんだけど」
「はは、どうしちゃったんだよ、兄ちゃん」
「どうしてなの?」
「学校の授業が物足りないんだよ」
「だって、あなたまだ中学二年生よ? 受験対策なら早すぎない?」
「遅すぎるくらいだよ。この前の中間テストだってイマイチだった」
「そうねぇ、私に教わるのはどう? 一応お母さんプロなんだし」
「母さんは国語教師だろ。俺が苦手なのは数学なんだ」
「困ったわね、お父さんと相談しないと」
「わかった」
「……ふーん」
「どうしたの、征二?」
「兄ちゃん、ガリ勉だなぁと思っただけ」
「何だと!」
「こら征二、ちゃかさないの!」
「小学生は気楽でいいよな」
「へへっ」
「兄さん、ちょっといいか?」
「なんだよ、突然」
「初恋って、いつだった?」
「本当に唐突だな。初恋なんて覚えてねーよ。保育園の頃だし」
「そうか」
「どうした」
「別に」
「……父さんの見舞いには行ったのか?」
「いや、今日もさっき部活から帰ってきたばっか」
「そうか。まぁ、たまには顔を出してやれよな。母さんばかりに世話させるのも酷だ」
「ああ。わかった。勉強中ごめんな」
「受かりっこないさ。教員採用試験! 地方公務員! ああ、なんてオカタイ響きなんだ」
「大学生も、そう気楽じゃないんだな」
「ふん、俺みたいに遊んでた人間は4年になってから苦労する。卒論、就活、頭が痛ぇ。征二、俺みたいになるなよ」
「俺は大学に行けるかもわからないってのに」
「成績がふるわないのか?」
「何て言うか……部活でいっぱいいっぱいで、授業どころじゃない」
「母さんが聞いたら泣くセリフだな」
「違う、走るのが楽しいんだよ、それだけ」
「あー、わかった」
「何がだよ」
「お前、好きな子ができたな?そうだろ」
「え、あ、え」
「すぐ顔に出るところ、昔から変わらねぇな! どんな子だよ、聞かせろよ」
「え、おい、勝手に話を進めるなよ」
「いいだろ、図星なんだろ? 俺も勉強に飽き飽きしてたところだ。いい気分転換になる」
「……同じクラスの子だよ」
「へーぇ。かわいいのか」
「顔は、まぁ普通。でもなんていうか、いい子なんだ」
「それで?」
「それで、って……それだけだよ」
「告白する気は?」
「まさか! ちゃんと喋ったこともないのに」
「お前が? 小学生の頃はよく女の子達と遊んでたじゃないか。しょうこちゃんとか、まりちゃんとか」
「ガキの頃と一緒にするなよ」
「今だって俺からみりゃガキだよ」
「うるせぇ。とにかく、その……どうすればいいのかわかんないんだ」
「うーん、そういうのって普通、友達に相談しないか?」
「できないよ。冷やかされるだけだ」
「いいか。肝に銘じろ。『初恋は、実らない』」
「なんだよそれ!」
「そんなモンだ」
「もういい、一人で考える!」
「仕事は順調なの? 俊一」
「まぁまぁ。やりがいはあるよ。母さんの現役時代はどうだった?」
「そうね。正直戸惑いの日々だったわ」
「俺もそう。最近の高校生って、本当に口が立つというか生意気というか……」
「ふふ、あなたが高校生の時、私もそう思ってたわよ」
「そんなモンか。あいつは?」
「征二?」
「うん」
「あの子は、そうね。受験を控えた今こそ勉強に集中しているみたいだけど、一学期の三者面談の時には担任とケンカ腰だったの」
「気弱なアイツが?」
「穏和って言ってよ。担任が『君なら国公立を目指せる、今すぐ部活を引退して受験に備えろ』と言ったらあの子、『俺はもっと走りたいんです。学校の名誉の犠牲になるつもりはないです』ってキッパリ言ったの。私、ふき出しそうになっちゃった」
「母さんだってバカにしてたんじゃんか」
「違うわ。嬉しかったのよ。あの子、私が思ってる以上に意思の強い子なんだって。あと、その時の担任の呆けた顔といったら……」
「同じ教育者から言わせてもらえば、うん、褒めるべき態度だな。あいつ、そんな事言ってたのか」
「……どうかしらね、受験」
「第一志望はL大か?」
「ええ。作家になりたいんですって」
「へぇ! そりゃすごい。まぁ、アイツと俺とは頭の出来が違うからな」
「加えて努力家だわ」
「ははっ、たまには長男坊も褒めてやってくれよな、っと。父さんの仏前にもお願いしておかなきゃ」
「あら、珍しいじゃない」
「父さん、頼みます。征二のヤツに、早くかわいいカノジョができますように」
「何よそれ」
「あはは……」
「あはは、じゃねーよ」
「せ、征二、勉強はどうした?」
「喉が渇いたから水を飲みに来ただけだよ。あのな、何勝手に願ってんだ?」
「いいじゃねーかよぉ、お前の青春ときたら走るか本を読んでるかだろ。せめて大学ではだな……」
「余計なお世話だよ!」
「おお、怖っ」
「集中途切れたよ。今夜はもう勉強しない」
「まだ10時だぞ? 俺のせいかよ」
「別に。ランボォの詩集がまだ途中なんだ、それが気になってるだけだよ」
「高校生がランボォねぇ。やっぱ最近の高校生は生意気だわ。頭でっかちというか」
「それ、死語に近くない?」
「生意気だっつーの!」
天井も、壁も、床までもが白かった。だから余計に個室のカーテンの青が目立って見えた。俊一は征二のいるという部屋の前で立ち止まり、大きく息を吐いた。屋内だというのに吐息は白くなった。
「……入るぞ」
特別に許可は得ている。十分のみの面会時間。鉄製の扉をゆっくり開けると、俊一はすぐに息を飲んだ。そこにはベッド、簡易式のトイレがあるのみ。蛍光灯の無機質な明かりに浮かび上がった弟の姿を見て、俊一は瞬時に思った。――俺の判断は正しかった。征二はベッドの隅に腰掛けながら、中空を見上げている。
「……征二」
征二はこちらをちらりと見た。しかしすぐに興味が失せたのか、視線を中空に戻す。
「お前は、今日からしばらくここで暮らすんだ」
「……」
「荷物、置いておくからな」
「……」
「明日は母さんも来る。俺は仕事だから――」
「私は、夏の終わりを、抱きしめた」
征二が唐突に、抑揚の一切無い声で言った。
「幻惑された雪が新緑の夜の彼方へ。即ち」
「征二」
「たゆまない海の眼差しへと溢れ出る接吻を」
「……警察は、お前を起訴しないそうだ」
「彼女の孤独は、愛情の機械学、その倦怠は――」
「入院の手続きは全部俺に任せておけ。お前はここで休むことだけを考えろ」
事務的に告げると、踵を返して帰ろうとした。しかし、
「その倦怠は、恋愛の力学」
俊一はいよいよ堪らなくなって、飛びかかるように、
「この野郎……っ!」
征二の頬を叩いた。征二は一瞬呆けた顔をして虚ろな目を俊一に向けたが、すぐにその視線は彷徨いはじめる。
「彼女は、諸々の、人種の……熱烈な……衛生学……」
俊一は弟をぶったはずの自分の手の方が痛いような気がした。力無く、面会時間を半分以上も残したまま、俊一は去らざるを得なかった。彼は、自分の判断がいかに正しかったかを思い知らされた。弟のあんな姿を、とても「彼女」には見せられない。
「…………」
部屋には、しばらく征二のかすれた笑い声だけが響いていた。
これで、全部だろうか? ハブラシ、クッション、CD、着替え。こんなものだっただろうか?
なんだか、寂しいと言うより、虚しかった。鍵を掛ければ、この合い鍵ももう用無しだ。二人で過ごした時間は、それを荷物に投影したらこんなに軽かっただろうか? 現実が自分を追いつめる。
――私は、彼を拒絶した。これは、まぎれもない事実。彼女は家主のいなくなった部屋に向かって独りごちた。
「……さよなら」
間奏 LOVE SONGへつづく