PHRASE 10 「私は、夏の終わりを、抱きしめた」

「僕、このでっかい栗が食べたい!」

「こら、まだ手を洗ってないでしょう。これからの季節はちゃんと、手洗いとうがいをしないとダメよ」

「ぐちゅぐちゅ、ぱー。おしまい」

「ふざけないの。お兄ちゃんはもうやったのよ?」

「ふーん」

「おい征二! モンブラン食べちゃうぞ」

「やだーだめー」

「はは、さっさと洗ってこいよ」

「うん!」

 

 

「お父さんは?」

「仕事が忙しいの。今日から夕飯は、しばらくお母さんとお兄ちゃんと三人」

「ふーん」

「寂しい?」

「別にー」

「ねぇ母さん」

「なに? 俊一」

「俺、塾に通いたいんだけど」

「はは、どうしちゃったんだよ、兄ちゃん」

「どうしてなの?」

「学校の授業が物足りないんだよ」

「だって、あなたまだ中学二年生よ? 受験対策なら早すぎない?」

「遅すぎるくらいだよ。この前の中間テストだってイマイチだった」

「そうねぇ、私に教わるのはどう? 一応お母さんプロなんだし」

「母さんは国語教師だろ。俺が苦手なのは数学なんだ」

「困ったわね、お父さんと相談しないと」

「わかった」

「……ふーん」

「どうしたの、征二?」

「兄ちゃん、ガリ勉だなぁと思っただけ」

「何だと!」

「こら征二、ちゃかさないの!」

「小学生は気楽でいいよな」

「べー」

 

 

 

「兄さん、ちょっといいか?」

「なんだよ、突然」

「初恋って、いつだった?」

「本当に唐突だな。初恋なんて覚えてねーよ。保育園の頃だし」

「そうか」

「どうした」

「別に」

「……父さんの見舞いには行ったのか?」

「いや、今日もさっき部活から帰ってきたばっか」

「そうか。まぁ、たまには顔を出してやれよな。母さんばかりに世話させるのも酷だ」

「ああ。わかった。勉強中ごめんな」

「受かりっこないさ。教員採用試験! 地方公務員! なんてオカタイ響きなんだ」

「大学生も、そう気楽じゃないんだな」

「ふん、俺みたいに遊んでた人間は四年になってから苦労する。卒論、就活、頭が痛ぇ。征二、俺みたいになるなよ」

「俺は大学に行けるかもわからないってのに」

「成績がふるわないのか?」

「何て言うか……部活でいっぱいいっぱいで、授業どころじゃない」

「母さんが聞いたら泣くセリフだな」

「違う、走るのが楽しいんだよ、それだけ」

「あー、わかった」

「何がだよ」

「お前、好きな子ができたな?そうだろ」

「え、あ、え」

「すぐ顔に出るところ、昔から変わらねぇな! どんな子だよ、聞かせろよ」

「え、おい、勝手に話を進めるなよ」

「いいだろ、図星なんだろ? 俺も勉強に飽き飽きしてたところだ。いい気分転換になる」

「……同じクラスの子だよ」

「へーぇ。かわいいのか」

「顔は、まぁ普通。でもなんていうか、いい子なんだ」

「それで?」

「それで、って……それだけだよ」

「告白する気は?」

「まさか! ちゃんと喋ったこともないのに」

「お前が? 小学生の頃はよく女の子達と遊んでたじゃないか。しょうこちゃんとか、まりちゃんとか」

「ガキの頃と一緒にするなよ」

「今だって俺からみりゃガキだよ」

「うるせぇ。とにかく、その……どうすればいいのかわかんないんだ」

「う~ん、そういうのって普通、友達に相談しないか?」

「できないよ。バレたら冷やかされるだけだ」

「いいか。肝に銘じろ。『初恋は、実らない』」

「なんだよそれ!」

「そんなモンだ」

「もういい、一人で考える!」

 

 

 

「仕事は順調なの? 俊一」

「まぁまぁ。やりがいはあるよ。母さんの現役時代はどうだった?」

「そうね。正直戸惑いの日々だったわ」

「俺もそう。最近の高校生って、本当に口が立つというか生意気というか……」

「ふふ、あなたが高校生の時、私もそう思ってたわよ」

「そんなモンか。あいつは?」

「征二?」

「うん」

「あの子は、そうね。受験を控えた今こそ勉強に集中しているみたいだけど、一学期の三者面談の時には担任とケンカ腰だったの」

「アイツが?」

「穏和なのよ。担任が『君なら国公立を目指せる、今すぐ部活を引退して受験に備えろ』と言ったらあの子、『俺はもっと走りたいんです。学校の名誉の犠牲になるつもりはないです』ってキッパリ言ったの。私、ふき出しそうになっちゃった」

「母さんだってバカにしてたんじゃんか」

「違うわ。嬉しかったのよ。あの子、私が思ってる以上に意思の強い子なんだって。あと、その時の担任の呆けた顔といったら……」

「同じ教育者から言わせてもらえば、うん、褒めるべき態度だな。あいつ、そんな事言ってたのか」

「……どうかしらね、受験」

「第一志望はL大か?」

「ええ。作家になりたいんですって」

「へぇ! そりゃすごい。まぁ、アイツと俺とは頭の出来が違うからな」

「加えて努力家だわ」

「ははっ、たまには長男坊も褒めてやってくれよな、っと。父さんの仏前にもお願いしておかなきゃ」

「あら、珍しいじゃない」

「父さん、頼みます。征二のヤツに、早くかわいいカノジョができますようにっ」

「何よそれ」

「あはは……」

「あはは、じゃねーよ」

「せ、征二、勉強はどうした?」

「喉が渇いたから水を飲みに来ただけだよ。あのな、何勝手に願ってんだ?」

「いいじゃねーかよぉ、お前の青春ときたら走るか本を読んでるかだろ。せめて大学ではだな……」

「余計なお世話だよ!」

「おお、怖っ」

「集中途切れたよ。今夜はもう勉強しない」

「まだ10時だぞ? 俺のせいかよ」

「別に。ランボォの詩集がまだ途中なんだ、それが気になってるだけだよ」

「高校生がランボォねぇ。やっぱ最近の高校生は生意気だわ。頭でっかちというか」

「それ、死語に近くない?」

「生意気だっつーの!」

 

 

 

天井も、壁も、床までもが白かった。だから余計に個室のカーテンの青が目立って見えた。俊一は征二のいるという部屋の前で立ち止まり、大きく息を吐いた。屋内だというのに吐息は白くなった。

「……入るぞ」

特別に許可は得ている。十分のみの面会時間。鉄製の扉をゆっくり開けると、俊一はすぐに息を飲んだ。そこにはベッド、簡易式のトイレがあるのみ。蛍光灯の無機質な明かりに浮かび上がった弟の姿を見て、俊一は瞬時に思った。――俺の判断は正しかった。征二はベッドの隅に腰掛けながら、中空を見上げている。

「……征二」

征二はこちらをちらりと見た。しかしすぐに興味が失せたのか、視線を中空に戻す。

「お前は、今日からしばらくここで暮らすんだぞ」

「……」

「荷物、置いておくからな」

「……」

「明日は母さんも来る。俺は仕事だから――」

「私は、夏の終わりを、抱きしめた」

征二が唐突に、抑揚の一切無い声で言った。

「幻惑された雪が新緑の夜の彼方へ。即ち」

「征二」

「たゆまない海の眼差しへと溢れ出る接吻を」

「……警察は、お前を起訴しないそうだ」

「彼女の孤独は、愛情の機械学、その倦怠は――」

「入院の手続きは全部俺に任せておけ。お前はここで休むことだけを考えろ」

事務的に告げると、踵を返して帰ろうとした。しかし、

「その倦怠は、恋愛の力学」

俊一はいよいよ堪らなくなって、飛びかかるように、

「この野郎……っ!」

征二の頬を叩いた。征二は一瞬呆けた顔をして虚ろな目を俊一に向けたが、すぐにその視線は彷徨いはじめる。

「彼女は、諸々の、人種の……熱烈な……衛生学……」

俊一は弟をぶったはずの自分の手の方が痛いような気がした。力無く、面会時間を半分以上も残したまま、俊一は去らざるを得なかった。彼は、自分の判断がいかに正しかったかを思い知らされた。弟のあんな姿を、とても「彼女」には見せられない。

「…………」

部屋には、しばらく征二のかすれた笑い声だけが響いていた。

 

 

これで、全部だろうか? ハブラシ、クッション、CD、着替え。こんなものだっただろうか?

なんだか、寂しいと言うより、虚しかった。鍵を掛ければ、この合い鍵ももう用無しだ。二人で過ごした時間は、それを荷物に投影したらこんなに軽かっただろうか? 現実が自分を追いつめる。

――私は、彼を拒絶した。これは、まぎれもない事実。彼女は家主のいなくなった部屋に向かって独りごちた。

「……さよなら」