エビフライ

エビフライを揚げていたら、油が跳ねて目に入りそうになった。麻衣子は慌てて洗面所に駆けて、夢中で顔を洗った。というか水で乱暴に何度も拭った。

やだ、どうしよう、跡がついたらやだ。

顔にシミなんて、まだ勘弁だ。

台所から鈍い音と焦げ臭い香りがして、麻衣子は油に火を付けっぱなしだったことを思い出し、慌てて消した。エビが真っ黒焦げになっていた。

あーあ、なんだかな。

黒こげエビは生ゴミ入れに直行だ。

彼氏が初めて家に来る日なので、見栄を張ってエビフライなどを作っては見たものの、普段からあまり料理をしない麻衣子は、背伸びなんてするもんじゃない、とその場で後悔した。

再び洗面所に行って顔を凝視する。油が跳ねたのは目のすぐ下だった。目に入らなかっただけでもよしとしなければならないのであろうが、わずかに右目の下が赤くなってしまった。しかも、まるでわざとフェイスペイントでもしたようにきれいな逆三角形。

まるでピエロだ。

ファンデーションで誤魔化さなきゃ。

麻衣子はすでに化粧を施した顔の上にさらにファンデーションを塗った。麻衣子は貧乏学生生活で苦しい家計の中でも、化粧品代は惜しまない。お気に入りのマキアージュを、丁寧に右目下につけた。

しかし、やけどの跡はいくら塗っても消えない。それどころか、

「え、え、あれ?」

パフを叩くと叩いただけ、肌の赤みが増すのだ。それも、定規で描いたようにまっすぐに、逆三角形が広がっていく。

なんだこれ。

麻衣子がパフを持って硬直していると、携帯電話のメール着信音が鳴った。麻衣子は、なんとなく流行っているので「ドラエモンが秘密道具を出すときの音」を使っている。

ちゃんちゃかちゃんちゃかちゃーん。

彼氏からだ。麻衣子は直感した。女の勘はよく当たるのだ。パフを持ったまま、麻衣子はテーブルの角に置いてあった携帯電話に手を伸ばした。

当たり。

送信者:有本哲哉
件名:ごめん。

本文:ごめん、今日行けなくなっちゃった。それどころじゃないんだ。緊急の仕事が入っちゃって。今度は『必ず』な、ごめんね。

……なんだよ。せっかく味噌汁まで出来あがってたのに。こちとらヤケドまでして手料理振る舞おうとしてたんだぞ。しかも『それどころ』なの?私の家に初めて来ることって。

麻衣子は器用に片手で、すぐに返信した。

送信者:樋野麻衣子
件名:どうしたの?

本文:今度っていつ? 仕事ならしょうがないね。次の機会を待ってるよ。

あー。あたしってすごく優しい。

そういえば麻衣子は彼氏の仕事を知らない。

初めて会ったのは今から1カ月前。池袋を一人でふらついていたら、雑踏の中にも明らかに目立つ、真っ白なスーツ姿の男性を見つけた。手にはジュラルミンケース。どうみてもアヤシイ。時々現れるストリートパフォーマーか?

その時彼は、人ごみの激しいサンシャイン通りのケンタッキー付近でジュラルミンケースを開けた。中から、白いハトが何羽も飛び立っていった。

麻衣子は知らず知らず彼に近づき、そして思ったことを率直に口にした。

「マジシャンですか?」

彼はすぐには返答しなかった。ハトが雑踏を、ビル群を、上手に抜けて飛び去っていくのを見届けてから、ようやく麻衣子を見て、

「違います」

とだけ言った。カラになったジュラルミンケースに、千円札が一枚入っていたので、麻衣子は雑踏の中、自然と財布を取りだし、100円を放り入れた。それをみた彼は、

「どうもありがとう」

と言うと、ケースをぱたんと閉じて、去っていこうとした。

なんで、みんな彼を気にしないの?

今、明らかに目立つ格好じゃん。

今、明らかに妙な行動とったじゃん。

家に帰っても別段やることが(レポート課題以外に)無かった麻衣子は、これを逃したら二度と彼に会えないと直感し、後を追った。彼は普通に歩いていただけなので、すぐに追いついた。

「あの、」

と声をかけてから麻衣子は困った。

「なんですか?」

それが一番困る返答だ。

「あの、どこへ行くんですか」

麻衣子はなんて適当なことを言っているんだろう、と自分を責めた。

「今日はもう仕事が終わったので……、家に帰るのですが」

「どちら?」

我ながら図々しい質問だ。まずその前に、言うべき事があるだろうに。そう自分にツッコミをいれる。

「所沢です。西武線で帰ります」

あ。自分と同じ方向だ。

「私、も、そっちです。はい、」

なぜかすごく興奮した。彼と自分の共通点を見つけた気がしたからだろうか。彼は首をかしげて、

「有本哲哉です。」

と恭しく名乗った。

しまった。声をかけておいて名乗りもしなかったんだ自分。

「樋野麻衣子です。あの、はじめまして」

「あなたも『仕事』帰りですか?」

「いえ、私はまだ学生で。学校が夏休みで、それでヒマだからここで……」

何て自分は間抜けなんだろう。きっと彼がききたいのはそういう事じゃない。

「そうですか。それは失礼しました。もうお帰りですか」

「え、まぁ、はぁ」

「じゃあ一緒に帰りませんか」

びっくりした。

その日の麻衣子は、どこにでもいるいたって普通のおしゃれをした女子大生だった。池袋の東口を、1日冷やかして体を疲れさせて帰るだけのつもりだった。

存在感がありすぎる白いスーツの彼と並んで電車に乗る。

少しだけ周囲の視線が気になったが、嫌な気はしなかった。それ以前に、誰も気にしていないようだった。

なんだ、みんな自分のことでいっぱいいっぱいなんだ。まぁ、私もそうなんだけれど。

帰りの電車で、麻衣子はようやくきちんと自己紹介をした。西武線沿線の大学に通う20歳であること、バイトは週3日であること、好きなアーティストのこと等々……。

彼はうんうん、と麻衣子の話を聞いていた。電車は快速だったのですぐに麻衣子の降りる駅に近づいた。

いけない。このままじゃ、二度と会えない気がする。

「あの、メアド交換いいですか」

自分でも驚くほど積極的だった。彼は嫌な顔一つ見せず、

「どうぞ、赤外線通信はできる?」

「はい、受信します」

駅に着く直前に、互いのメアド交換は無事に終わった。席を立った麻衣子は、

「メールしてもいいですか?」

またしても自分で激しいツッコミをいれたくなることを口走った。何のためのメアド交換だ。

「どうぞ。僕は『仕事』で返信が遅いけれど、それでもよければ」

自然と麻衣子の顔に笑顔が浮かんだ。

それからメールだけでのやりとりがしばらく続いた。いつも麻衣子からメールして、それに彼が返信をする、という形をとっていた。きっと忙しい人なんだろう。だから、麻衣子も彼の負担にならないように、『今日のできごと』や『バイト先の愚痴』などを軽く送る程度に留めて、ひたすら返信を待った。

それが半ば慣例化してきた頃の、ある夜である。麻衣子が『今日友人と行った新秋津のカフェについて』、なんてことないメールを打っているまさにその最中、メールの着信があった。

なんと彼からだった。麻衣子は驚いて、メールの作成を中断し、すぐに彼からのメッセージを読んだ。それだけでももう十分興奮していたのに、内容を読んで麻衣子は心臓が飛び出しそうになった。

送信元:有本哲哉
件名:無題

本文:僕はなんて幸運なんだろう。あの日、君があそこにいてくれて、本当に良かった。出会えたことを感謝するよ。僕は幸せだ!

―――これって、事実上の告白?

麻衣子は何度も何度もそのメールを読み返した。嬉しくて、嬉しくて、狭いアパートの一室にムリヤリ置かれたベッドに寝っ転がって、

「やったぁ!」

と叫んだ。

そして返信した。

送信元:樋野麻衣子
件名:ありがとう

本文:私も嬉しいよ。実は、私ずっとそうだったんだよ。でも言い出せなくて。あなたから言ってもらえるのを待っていたんだ。本当にありがとう。今度、直接会わない?

返信後、それに対する返信が待ち遠しくて、1秒が1分、1分が1時間くらいに感じられた。2、3分してから返信が来た。

送信元:有本哲哉
件名:Re:ありがとう

本文:もちろん会いたいよ、今すぐ。でも仕事とか準備とかあるから、早くて28日になりそう。予定は大丈夫?

夏休みの大学生に、これを上回って優先する予定などあるだろうか。

送信元:樋野麻衣子
件名:もちろん!!

本文:28日だね。大丈夫だよ★どこに行こうか?

それに対する返信は、麻衣子を少し戸惑わせた。

送信元:有本哲哉
件名:Re:もちろん!!

本文:君の家が一番いいと思う。

「えっ」

思わず口に出してしまっていた。最初のデートから彼女の家? 意外にアグレッシブなんだ、あの人……。でもまぁ、こういうのもアリか。

何よりも嬉しさが彼女の判断能力を鈍らせていた。尤も、ここで彼女が冷静な判断能力を発揮できたとして、その後の自分の運命を知る由も無かったのだが。

そうして28日、麻衣子はわざわざ早起きしてスーパーまで食材の買い出しに出かけた。いつもなら適当に済ませる部分である食費を存分にかけて(といっても大学生の“存分”なのでたかが知れている)車エビを買った。

エビフライだ。これしかない。理由は自分でもよくわからないが、これがいいと思った。

 

下ごしらえは本を読みながら、丁寧に施した。後は揚げるだけ、という段階で麻衣子は一旦手を休め、彼が来る前に化粧をしようとテーブルに鏡とポーチを出した。

眉毛は前日に整えておいた。今日は学校に行くときと違って、ベースから慎重に化粧を始めた。

そして自分で納得のいくメイクが完成したので、夕方5時を過ぎたころ、エビを揚げようと思い、慣れない手つきで180℃の油に一匹目を投入しようとした時。

やはり熱いのが怖くて、そっと入れればいいものを、ぼちゃん、と入れたために油が景気良く跳ねて、右目下に跳ねたというわけである。

「ああ、もう」

一人暮らしだと自然と独り言が増える。悲しいことだが、彼のドタキャンは麻衣子のテンションを萎えさせるのに十分すぎた。

しかも、なんだこの肌荒れは。

怒りに任せて、麻衣子は再びパフを持ってファンデーションを塗ったくった。しかし逆三角形は広がる一方だ。どこぞの民族のようになってしまった。

麻衣子は気味が悪くなって、手を止めた。

鏡も見ないことにした。

揚げられるのを待っている残りのエビも、さっき捨てた黒こげのエビも、彼からのメールも全部無かったことにしたい。

麻衣子は自棄になってベッドに潜り込んだ。

疲労感から知らない間に寝てしまっていたらしい。気づいたら真夜中だった。聞き慣れない音がして目が覚めたのである。

コン、コン、コン、コン

………?

窓の方からだ。

コツ、コツ、コツ、コツ、

何かが当たってる音みたいだけど……、と麻衣子はのそのそと体を起こした。ふて寝してしまったのでカーテンはしていなかった。夜だから、すぐに音の正体はわからなかったが、何かが動いているのがわかった。

………鳥?

カカカカカカカカカカカカカカ、窓をつつく鳥の数がどんどん増えている。

何、何が起きてるの?

麻衣子は恐る恐る一歩踏み出して、アパートの小さい窓をのぞき込んだ。そして仰天した。

ハトの大群である。しかも、駅前で餌を漁っている類ではなくて、マジシャンが使うような白いハトだ、暗闇でもわかるくらい白が目立っている。その大群が窓をつついているのである。

「わ、わ、きゃああ」

麻衣子は一瞬でパニックに陥った。腰を抜かした。

その時。この状況にしてはあまりに平和な、インターホンを鳴らす音がした。

ピンポーン。

だ、誰? こんな時に、こんな時間に、誰?

麻衣子が何も出来ずに狼狽して床にへたっていると、閉まっているはずの鍵がカチャカチャと音を立てて、ドアが開いた。

え? え? え? え? え?

「あ!」

姿を現したのは、他でもない彼だった。麻衣子は瞬時に叫んだ。

「助けて!」

彼は指をパチンと鳴らした。するとハトたちが一斉におとなしくなり、近くの電線に整列した。

「場所を教えてくれたんだよ、彼らは」

「……は?」

「ごめんね、遅くなるよ。『仕事』はもうすぐ終わるから」

「え、」

仕事が終わったから来てくれたんじゃないの? 今の現象は何? 今日も白いスーツなの? その格好で何の仕事をしているの? まだ仕事中なの? どういうこと?

多くの疑問が麻衣子の頭を占めて、パンクしそうだった。故に何も口から出てこなかった。彼はそんな麻衣子の様子には構わず、

「もっと早く気づいておくべきだった。あの日あの場所で出会った時に、僕は君のことを同業者だと思った。僕らの職業は陰に属するものだからね。姿さえ認識されないはずの僕を認知した君は、てっきり同業者だと思いこんでいた」」

彼はよくわからないことを言いだした。

「しかしまったくの逆だった。確かに、僕らの、いや『世界の敵』にも、僕らは認識されうる。ついに存在してはいけない種が支配を始めた」

彼はそう言ってからジュラルミンケースの中から、折り畳みの姿見を取りだした。

さっきから彼は何を言っているのだ?

「自分の姿をよく見るといい」

「!?」

鏡に映った自分の顔を見て、麻衣子は頭が真っ白になった。

右目下の逆三角形が飛び出している。角形状になっているのだ。

「偶然でしか僕らは生き延びることができない事が、今ここで証明されるんだ」

それだけではない。目はまるで獣のようにつり上がり、牙まで生えている。

「1999年? ずいぶんと適当な予言だったよ。でも、だからこそ、僕らはこうして地道に『仕事』をこなしていくしかない」

私は、私はどうなっちゃったの?! これは夢か? と頬をつねってみようとしたその手には、不気味にも黒揚羽蝶の塊が蠢いていた。

「きゃあああ」

「声を出すな」

彼は同じくジュラルミンケースから巨大な刃物を取りだした。死神の持つような鎌である。

「まだ奴ら、いや君らは潜んでいる段階だ。生き延びるためには僕らは『仕事』を完全に遂行しなければならない」

「い、いや」

麻衣子は自分の運命を即座に悟った。そして逃走を試みようと窓を開けた。

「無駄だ」

窓を開けた途端、平和の象徴であるはずの白いハトたちが一斉に飛んできた。

化け物を駆逐するためによく訓練されている。麻衣子の目などの急所を狙って次々に飛んでくる。

「いやああぁぁ」

麻衣子は、そのハトたちを追い払うために、両手を振り回した。すると自分でも信じられない現象が起こった。

両手から黒揚羽蝶の塊がぶわっと飛び出してハトたちを取り込んだのだ。ハトたちは慌てて逃げ出した。中にはショック死するものもいた。

何が起きているのだ!?

今、明らかにおかしいことが起きている。

今、明らかにおかしいことを自分はした。それなのに。

黒揚羽蝶に取り込まれたハトは、真っ黒なカラスに変化した。

「ちっ」

彼が舌打ちした。

カラスとなったハトたち(?)は、ケーッ、と汚い鳴き声をあげて私と彼の間に入った。どうやら私を守ってくれるらしい。しかし、

「今までありがとう」

そう言った彼は、私の目の前でカラスたちを鎌で斬って捨てた。白いスーツに血液が付着する。

「あああ……」

私は顔を覆った。ワケが分からなかったが、悲しみの波が押し寄せてきた。

彼は言う。

「僕らは守護者と呼ばれている」

麻衣子は泣き出してしまった。

「今からおよそ450年前、プロヴァンスで怖ろしい実験が行われた」

ただただ悲しくて怖くて、しくしく泣いた。

「ノストラダムスは知っているよね? 彼は予言者として有名になったが、彼は本来医者だったんだ。当時ペストが流行したとき、彼は医者として活躍したが、その時に怖ろしい実験をしたと言われている」

彼はカラスの遺骸を一つ、鎌の柄で払った。

「ペスト菌は一部の人間に於いて、進化遺伝子を狂わせる作用があることを彼は発見してしまった。そして、ペストの治療法が確立されてから、威力を弱めたペスト菌を、ワクチンと称して多くの人間に植え付け、君のように——」

麻衣子は窓に映ってしまっている自分の姿をもう一度見た。妙な場所から生えた角。両手に蠢く黒揚羽蝶。

私が、化け物?

「この菌は宿主が死なない限り、繁殖を続ける。僕のパートナーたちをカラスに、いやカラスのような黒い鳥に変化させたのも進化遺伝子に異常が生じたせいだ」

よく見るとカラス、のような鳥は緑色の泡を吹いて死んでいる。足が6本ある。

「ノストラダムスは1999年7月に恐怖の大王がやってくると予言した。しかしそれは予言ではなく、彼自らが計画した人体実験の結果が出る時に他ならなかったんだ」

しかし予言はやや外れて、7年後の2006年、ノストラダムスの計画を450年前から引き継いできた『組織』によって続けられた人体実験——ワクチン接種の皮を被った——によって、一部の人類に変化が見られるようになった。

「僕が駆逐するのは君が初めてだ、麻衣子」

……あ。

彼、初めて私の名前を呼んでくれた。

今はそんなことを考えている場合じゃないのに。

でも、でも…嬉しいなぁ。

麻衣子は突然生気を取り戻し、夢中で彼に駆け寄ろうとした。

「寄るな! 君は殺されるんだぞ」

それでもいいから……。

麻衣子が伸ばした両手は、彼が一瞬のうちに切り落とした。

痛みは感じなかった。両腕からは血と同時に黒揚羽蝶が激しく飛びだした。ぶわっと勢いよく吹き出した血も蝶も、彼を、狭い部屋ごと包んだ。

「う、うわ、うわあああ」

麻衣子の両腕はすぐに黒揚羽蝶によって復元される。

蝶の乱れ飛ぶ中、麻衣子はもう嬉しくて嬉しくて、

「ねぇ、私も『哲哉』って呼んでいい?」

彼を抱きしめた。

「うわあああぁぁぁっ!!」

残りの白いハトは逃げ出した。何匹かは黒い異鳥に変化した。

「ねぇ、好きになっちゃったの、こんなに」

彼の耳、鼻、口、あらゆる場所に黒揚羽蝶が流れ込む。

「ん、ぐ、ぐ、ぐ」

麻衣子は思う存分彼を抱きしめる。狂ったように蝶が飛び交う部屋の中で。

「おいしい?」

麻衣子は少し緊張して訊いた。

彼は笑顔で、

「すごくおいしいよ。いい火加減だね」

「本当! 嬉しい……」

「麻衣子は料理も上手なんだね。もっと食べたい」

真っ黒のスーツに身を包み、顔面に妙なフェイスペイントを施したような痣を持った彼が、夕方麻衣子が三角コーナーに捨てた黒こげのエビフライを食べて言う。箸を持つ彼の手には黒揚羽蝶が蠢いている。

「上手に出来たのはこれ一個だけなの。お腹すいた?」

「いいよ。また作ってね」

「うん」

哲哉は麻衣子の両手に蠢く蝶を毟って食べた。麻衣子に痛みは無い。

むしろ心地いい。

セックスなんかよりよっぽどあったかい……。

「偶然だけが、僕らを救ってくれるんだよね」

「そうよ。さっき哲哉が言ったじゃない」

二人は背中から大きな蝶の羽根を広げると、明けない夜の空へと消えていった。