第三話 映画館

春もやが街を支配する水曜日、珍しく平日に休みを取った。いわゆる年度末の有給消化というやつだ。私がそのことを彼に伝えると、「じゃあ、僕も」とわざわざ休みを合わせてくれた。ありがたいような、ただのありがた迷惑のような、どっちつかずの感情が芽生えた。

実はせっかくの平日休みなので、一人で銀座に行く予定を立てていたのだ。銀ブラとまではいかないが、普段あまり行かない街なので、気ままにウィンドウショッピングでもしようと思っていた。それが今、結局、彼と二人で銀座の街を歩いている。

場所が場所なので、いつもより少し背伸びした格好をした。すれ違う人の持っているブランド物のバッグなどに目を奪われながら歩を進めた。恥ずかしながらノーブランドのバッグしか持っていなかった私なので、それが後ろめたくて少しだけ前かがみに歩いたのだが、その様子を見た彼は言った。

「恥ずかしいの?」
「別に、そういうわけじゃ」
……そういうわけ、なんだけど。そんな私の心中を見透かしていたのか、彼はこんなことを言った。
「どんな金持ちもそうじゃない人も、等しく夢中になれる場所を知ってるよ」
「え?」
「映画館。それも、名画座」
——なるほど。

有楽町の方まで歩けば、有楽町スバル座があると彼は教えてくれた。ブランドショップ、コーヒーショップ、レストラン、ブティック、ベルギーワッフル屋さん。どこを歩いても何かがある、銀座は私の目には少し眩しすぎるように映った。逆に、「なにもない」がない。満たされすぎるのも考えものだな、と感じた。これは決して東京郊外在住の強がりではない。

名画座で上映されていたのは、「ニューシネマ・パラダイス」だった。往年の名作とよくいわれるが、実は観たことがなかった。
彼は、
「死ぬ前にもう一度観たいから」
と言った。
(また始まった)
私は心の中でため息をついた。そう、これはデートなんかじゃない。彼と私の、いつ終わるのかわからない、いや終わらせるわけにはいかない、勝負なのだ。

映画の上映時間は2時間強だったが、あっという間だった。すっかり、私はこの作品の世界観に引き込まれてしまった。アルフレッドとトトの強烈な友情。美しいを通り越して、切ない。名作と称される理由は、十分に私にも伝わった。

映画が終わり、また少し歩いて喫茶店に入った。コーヒー一杯で800円とは……。しかしこれでも銀座では良心的な方らしく、1,000円を超えることも当たり前の街なのだという。

「映画、面白かったね」
マンデリンを一口飲んで私が切り出すと、彼はやや険しい表情で、
「どこらへんが特に印象的だった?」
と問うてきた。私は少し思案してから、
「あれかな、二人のお別れのシーンかな。寂しかったけど、トトを想ってのアルフレッドの決断なんだと思うと、胸が熱くなったよ」
「そう」
そう答えて、またしばらく黙る彼に、今度は私から質問を投げかけた。
「どうしてまたあの作品を観たいと思ったの? 思い出の作品か何か?」
すると、彼は真顔でこんなことを言った。
「僕が印象に残ってるのはね」
「うん」
「映画館のシーン」
私は800円のマンデリンを盛大に噴き出しそうになった。あれは映画館を舞台にした映画だ。作品の7~8割がた、映画館が出てくる。まるで「この料理のどこが好き?」と問われて「食べ物なところ」と答えるくらい、何も伝わってこない。
しかし一体どこのシーンを指しているのか、という問いは既に無意味で、彼は構わず続けるのだ。
「良かったよ、『決断』する前に、あの映画を君と一緒に観られて」
——しまった。
このままでは、彼は『決断』してしまう。私はとっさに、
「でも、ニューシネマ・パラダイスよりもっと泣ける映画があるよ」
と口走ってしまった。
彼は関心を持ったらしく、「へぇ」と身をこちらへ乗り出してきた。
「じゃあ、それを観てから『決断』しようかな」
……あぁ、彼以上に自分が面倒だ。

私は持てる知識を総動員し、頭の中に検索バーを設けて

映画 泣ける 名作

で検索をかけた。そしてヒットしたのが———

「ドラえもん、なんだけど……」
彼は目をぱちくりさせた。そして、間を開けてから声を上げて笑い出した。
「本気? 泣けるの? ニューシネマ・パラダイスより?」
「……んー、たぶん」
なんだ。ちゃんと笑うんじゃん。そんな顔まで見せて、余裕かよ。
「そうなんだ。じゃあ、今度観に行こうね」
すっかり弱気になった私の頭に、彼がぽん、と手を置いた。
「今日のところは、僕の勝ち、でいいかな」
うーん。人生において私は今まで何をしてきたのだろう。もっと映画をたくさん観ておけばよかった。私は心から後悔した。
「じゃあ、次はどこに行こうか」
彼はコーヒーを啜って、そんなことを言った。

次。次がある。……ということは、彼はまだ『決断』しないということだろうか。私はおずおずと呟いた。
「私さ。……まだ君を信じてもいいのかな」
「ご自由に」
突き放されたような、それでいて許されたような、アンビバレントな感情が私の中でむくむくと膨らんでいく。

ああもう、休日を、有給休暇を、銀ブラ計画を、返せ!

そうして、銀座は私にとって苦い「初黒星」の街として心に刻まれたのだった。

第四話 なんだ、やっぱり