帰り道、二人とも一言も発さなかった。冥土カフェにて彼の「命日」の宣告を受けた私はすっかりしょげてしまったのだ。
来月の25日、彼は「その時」を迎えるという。物憂げなカフェのマスターはそう断言した。
「でも、これって、ただの占いですよね?」
私が頑張って茶化した口調で言っても、マスターと彼はまるで同じ目をして私を見やっただけだった。
中野駅の南口改札でPASMOをタッチすると、彼がふいに口を開いた。
「楽しみだね」
「何が」
我ながら、ぶっきらぼうな返しだったと思う。しかし、彼にはノーダメージで、むしろあの宣告以降、彼はいきいきとしてさえ見えるのだ。こんなことを言うくらいに。
「君には保険がかかって、僕には希望が芽生えた」
「何言っちゃってんの」
仏頂面の私と対照的に、至って彼は朗らかな笑顔だ。
「5月25日まで僕は死なないらしいから」
「あっそ」
しかし、彼は余裕しゃくしゃくの様子だ。
「ねぇ、桜ももう終わりだね。次はツツジかな」
「そうだね」
棒読みで返す私。唐突に、彼は詩でも朗読するかのように、ゆったりとした口調になって、人々の行き交う中野駅の構内で、私の左手を握ってこう言った。
「次々に季節が巡って、花が咲いて、実を結んで、枯れて、朽ちて、また花が咲いて。それって、悲しくならない?」
「なんで? 命が巡るのが世の常じゃないの」
「そう、だね。でも、今年のヒマワリは見られないか。それは残念だな」
「ねぇ、本気?」
私は負けじと言い返した。
「悲しいってのはね、目の前の人が、来月の給料日に死ぬ、とかぬかしてることだよ」
「……」
左手がじんじんと痺れている。その微かな熱い痛みが、私に幽かな火をつけた。
「だいいち、占いに命日を託すほど君の人生は人任せなの?」
「どうだろうね」
「ふーん。来月の25日に死んじゃうって?」
「その予定だけど」
「へー、そんなことよく本気で思えるよ。明日くたばるかもわからないのにねっ」
「……」
私の言葉が意外だったのか、彼は目を何度もぱちくりとさせた。そしてひと呼吸もふた呼吸も置いてから、
「それって……」
そう呟いた。私の言葉をじっくり咀嚼しているのか、私の左手を握るその手がやがて少しだけ震え出す。
私が「それ」に気づくのが、あと数秒早ければ。
「あ……。ははは……ッ」
掠れた声で、彼は静かに笑い出した。けれど、それが明瞭な笑い声になることはなかった。
がっちり掴まれていたはずの左手が突然解放されたかと思えば、彼は不器用な呼吸でもって微かな笑い声を上げながら、5番線ホームに続く階段を駆け上がっていったのだ。
「あ……え……?」
(何が、起きたんだ?)
呆然とする私の耳に、程なくして5番線ホームからけたたましい非常停止ボタンの警告音が射し込んできた。
やばい。
私は人にぶつかりながら、5番線ホームへと全力で走った。
バカじゃないの? すぐに死ぬだの、死なないだの。なにが君をそうさせる? なにもまだ私は君のことを知らない。血液型と星座と、動物占いしか知らない。そんなことしか知らないんだよ。
もっと、知りたい。いや、知らなきゃならない。だって、だって、私は……。
「あっ!」
考えるより先に声が出ていた。5番線ホームは騒然としていた。ざわめきがその場を支配している。若干慌てたような駅員のアナウンスが流れ出した。
「ただ今、三鷹行き列車は非常停止ボタンが押されたため、停止位置手前で停車しております。安全が確認されるまで少々お待ちください。お急ぎのところご迷惑をおかけして申し訳ありません」
目に飛び込んできたのは、人だかりと、線路に散乱した書類の束とボロボロになったビジネスバッグ。
どうやら、歩きスマホをしていたサラリーマンが線路に転落したらしかった。幸い、列車の非常停止が間に合って助かったらしい。
私はすぐに視線を切り替え、ホーム中程のベンチに彼の姿を捉えた。彼はあれほどの騒ぎにも関心がないのか、自分の両ひざを見つめたまま固まっている。
私は彼のその鬼気迫る表情に一瞬たじろいだが、くっと息を飲んで声をかけた。
「どうしたの」
すると彼は、緩慢な動きで私を見上げた。
「……参ったよ」
「え?」
「君からあんなことを言われるとは思わなかったから、びっくりしたんだ」
「『あんなこと』?」
「認めたくないけど……」
彼は今度は、私と目を合わせることはなかった。
「……嬉しかった、よ」
つまり、明日死ぬかもしれない、という旨の私の発言が、「嬉しかった」ということか。
私の言ったことはあながち間違いではないと思う。命日の宣告がいつであれ、明日、いや今日もしかしたら、くたばってしまうかもしれないのだ。
だからこそ、今生きているこの瞬間を、何より大切にしたい。少なくとも私はそう願っている。
これは、私のワガママだろうか?
いつかこの恋が終わるときが来るとしたら、「その時」がきて彼が本当に「決意」してしまったら、どうするのかな、私は。
たぶん、いつも通りに起きていつも通りに働いて、いつも通りに眠るんだろうな。ビョークでも聴きながら電車に乗って、新宿に寄り道くらいは、するかもしれない。
そんなことはどうでもいいのだ。とにかく、今日は、手を繋いで帰ろう。
私は彼の左手を取ると、そのまま中央線のホームへと向かった。