第十八話 ワンピース

夜の新宿で待ち合わせた。あの日と同じ、霧雨だった。

東口のアルタ前で春色のワンピースを着て、歩きやすいようにヒールの低めのパンプスを履いて、緑色の傘をさして立っていた。

カバンには、先日彼が残した一枚のメモ帳が入っている。ラブレターみたいで、嬉しかった。

行き交う人々。きっと、いや絶対、みんなにそれぞれドラマがあって、だから生きることは時に苦しくてもきっと、とても楽しいことなのだ。

腕時計をちらっと見てから、私は彼があの日吐き出した言葉を思い出していた。

「愛がすべてをおかしくする」。

その通り、かもしれない。彼は愛に怯えているのだ。そんな彼に愛を捧ぐ私は、もしかしたらとんだサディストか?

スマホが震えて、彼からのラインを報せる。

「もうすぐ着くから、濡れない場所で待ってて」

随分と、彼も丸くなった……なんて言ったら上から目線だけれど、ずっと一緒だからこそわかることもあるのだ。

私はアルタのビル内で彼を待つことにした。一階には化粧品やらランジェリーやらスカートやら、きらびやかな商品が並んでいる。しかし、こういったものに恐らく彼は惹かれない。

事実、私はナチュラルメイクだし、レースのヒラヒラしたスカートなんて持っていないし、きっと似合わないだろうから。リズリサのワンピースなんて、とてもじゃないけど試着すらできない。こういうのは、細くて可愛くて若い子が着るべきなのだ。私はどの資格も満たしていない。

ショーウィンドウに映った自分を見た。無難な春色のワンピース。低めのヒールの靴。ノーブランドのバッグ。何より、ナチュラルメイク……という名の、弱気な化粧顔。

(あー、なんだかな)

すれ違った女子大生とおぼしき二人組は、本当にキラキラして見えた。それに比べて……。

いや、ナンセンスだ。誰かと何かを比べられるものさしなんて、どこにもないんだから。
頭でそうわかっていても、どこかで、ただすれ違っただけの人を羨む自分がいる。

なんだろう、自分を好きになるのって、誰かを愛するのと同じくらい難しい。

私は無意識のうちにリズリサの店頭にいるマネキンのワンピースの裾に触れていた。

「そういうの、好みなの?」

背後から聞き慣れた声で話しかけられて、私は思わず「わっ」と声を出してしまった。振り返ると、彼がいた。

「なんだ、驚かせないでよ」
「そんなつもりはなかったよ」
「そう」

彼はリズリサのマネキンを一瞥すると、「着てみたら?」などと言い出した。

「え、別に、いいよ」
「試着くらいいいじゃない」
「……似合わないよ」
「着てみなきゃわからないでしょ」
「……」

それを逃さないのが、ショップの店員さんだ。さすがはプロ、満面の笑みで近寄ってきた。

「ご試着だけでもどうぞ」
「そ、そうですか……」

あれよあれよという間に、試着室へ通される私。彼はその外で待っているらしい。私はおそるおそるヒラヒラのワンピースの袖に腕を通した。

(なんだろう、今、彼のことしか考えられない)

「よくお似合いですよ!」

試着室のカーテンを開けた私をショップの店員さんがこれでもかと褒め称えて、手を叩く。私は気恥ずかしくなって、すぐにカーテンを閉めようとした。しかし、それを彼の手が制する。

「似合ってるよ」

そんな。

「これ、ください。着て帰ります」

彼がそう言うものだから、私はいよいよ慌てた。

「待って、私今日、手持ちがなくて」
「カードで。はい、一回払いで」

(ええっ!?)

彼がどんどん話を進めてしまう。私がわたわたしている間に、ワンピースから商品タグが切り離されてしまった。

(わー!)

そうして、私はフリフリのワンピースを身にまとって、新宿三丁目にあるカフェの一角に体を沈めているのである。

クラシックのBGMが耳に心地よい。だが、着慣れない服のせいか気持ちは全然落ち着かない。

汗をかいたアイスコーヒーを二つ挟んで、しばらく二人とも黙っていた。BGMがオルゴールの曲に切り替わった頃、私から口を開いた。

「あの、ありがとう、ワンピース」
「……お礼なんて、言わなくていいよ」
「えっ」
「本当によく似合ってる。かわいいと思うけど」

そう言われて、私の顔はユデダコになる。彼は深呼吸して、自分のビジネスバッグの中から小さな箱を取り出した。

あ。これって。この展開って。

彼は意を決したような表情をして、ハッキリとした口調でこう言った。

「これを、受け取ってほしい。ただ……」

開けられた小箱の中には、確かに、キラリと光る指輪。

「その前に、この僕と、決着をつけてほしいんだ」

……わかっていたよ。君は、そういう人間だから。

こうして、新宿のカフェの片隅で、最終決戦の火蓋が切って落とされたのだった。

最終話 花飾り へつづく