彼はまるで宣言するように言った。
「本当は僕には、人を愛する資格なんてないのかもしれない」
「どうしてそう思うの?」
私がストレートにそう問うと、彼は一瞬だけ口ごもってから、
「……笑わない?」
私は真剣に頷いた。
「笑ったりしないよ、君が何を言っても」
「……」
彼の傍らで、指輪がきらりと光る。彼はやや目を伏せてこう言った。
「僕は、ずっと死にたかった」
途端に私はハッとした。「死にたい」という言葉が「過去形」だったからだ。しかし、ここで油断してはいけない。彼はぽつぽつと続ける。
「僕は、おそらく愛されて育った。それがどうにも、怖かった。愛は抑圧を産む。気づいたときには僕はがんじがらめで、愛という鎖から逃れる術を知らなかった」
彼の表情は、表面上は穏やかだが、その目は張り詰めているようにみえた。
「だから僕は、今まで、愛を否定してきた。鎖を断ち切るためには、死ぬしかないと思ってきた。でも——」
ここで彼は、私の顔をまっすぐに見てきた。
「君が、違う選択肢を、示してくれた」
「私が?」
彼は小さく頷いた。
「生きていても、いいのかな。そう思えたんだ」
「……」
私が、彼との勝負に勝ち続けてきたこと。それが、彼の「生きる選択」を導いたというのだろうか。しかし、私はそんな恩着せがましいことはとても言えない。
「でもね」
ここで彼は逆接を使ってきた。口調は急に雄弁になる。
「あの日、つけた傷は一生消えないと思うんだ」
「あの日?」
「一生、消えない。誰にも癒せない。言わずもがな君にもね」
「それって……」
「17歳の誕生日、僕は自分の首を絞めてそのまま気絶した」
「……!」
「無様なものだったよ。死にたくても死ねなかった。でも、あの日確かに僕の中で何かが死んだ。そう、死んだんだ」
これだ。こういう刃を、彼は私に向けてくる。しかし、だからこそ私は、刃ではなく、心を羽のように軽くして応じる必要があるのだ。刃では、舞い上がる羽は断ち切れないから。
彼は罪を告白するように続ける。
「誰にもわかってもらえなくてもいい。わかってもらえるはずがない。たとえ君でも、僕の鎖、愛を解体することなんてできないんだ」
「うん、できないね」
私の応答が意外だったのか、彼は2、3回まばたきをした。ここからは私のターンだ。
「君の傷をわかることなんてできない。ましてや癒すことなんてできない。ううん、しちゃいけない。その傷や鎖は、君のものだからね。それを奪うことは、私にはできないよ」
彼はぎこちない動きでアイスコーヒーを一口飲む。私は泰然としてさらに続けた。
「死にたがり、上等じゃない。人はいつかは必ず死ぬ。死んで土に還る。地球の一部になる。そうでしょう。生きるってきっと刹那だよ。そのひとときくらい、君は私といても、いいんじゃないかな」
「……」
彼は苦しげな表情を浮かべている。怖いのだろう、これまでの自分を許されるのが。しかし、私は容赦しない。手加減なんて、してあげない。
これは勝負だ。私と彼との、かけがえない勝負だ。本気にならずにいられるわけがない。
「僕は……」
彼は片手で頭を抱えて、何度も横に振った。
「僕は、君を縛り付けることになるのが怖くて……」
「違う」
「なんで違うなんて言えるの」
彼は少し噛みつくような口調で言う。それに対し、
「君を愛してるからだよ」
私は大鉈でもって彼を一刀両断した。
「愛ってたぶん、鎖じゃない。鎖だったらそれは愛じゃない。愛は花の首飾りみたいなもので、大切なものを編んでそっと相手にかけてあげる、そういうことに似ていると思う。少なくとも私はそう思ってる」
つまり、愛するとは心を傾けること、体温を分け合うこと、手間ひまをかけること、色々だけれど、定義はこの際もうどうでもよくて、私は、君のそばで、いつまでも花飾りを編みたい。
「君も私も、死ぬまで自由になんてなれない。だって、これからずっと、一緒なんだから」
私はそう言って、ニッコリと微笑んだ。
彼を拘束する鎖は解けないかもしれない。負った傷は、一生消えないのかもしれない。それでも、鎖や傷とともに生きていくために必要なのは、愛なのだ。
彼は、今度こそ指輪の箱を私に向けて、はっきりとした声でこう告げた。
「僕に、花飾りの編み方を教えてください」
私が左手を差し出すと、彼は緊張した手つきで私の薬指に指輪をはめてくれた。そして私の手をぎゅっと握って、そのまましとしとと泣き出した。私も、つられて、泣いた。
君が引きずってきた影に、これからは私の影を添えられるんだ。そのことがとても嬉しかった。
そして泣き続けていたら、途中からなんだか可笑しくなってきて、二人して笑った。
ああ、こうやってともに泣き笑いしていくんだろうな、それこそ死ぬまで、ずっと。
素直に、幸せだと感じる。彼が幸せでいてくれることが、なによりの私にとっての、幸せだ。
新宿のカフェの片隅で、確かに、花飾りが編み始められた瞬間だった。
二人駆け出す新宿の街を今宵、優しく霧雨が包んでいる。いつかまた、スタバでキャラメルフラペチーノを頼んでみよう。今度こそ、中野ブロードウェイにも行きたいな。映画もたくさん観よう。旅行にも行こう。君としたいことが、こんなにもたくさんあるんだよ。
死にたがりな彼と、それを阻止する私の勝負は、これにておしまい。私の完全勝利で幕を下ろした舞台の上には、一輪のセバスチャン・クライブの花。これも編んでみようかな。
いつまでも手を繋いで歩こう。影を重ねて暮らそう。たまにはケンカ(勝負?)もしよう。不器用でも不恰好でもいい、私たちらしく、生きていこうね。
「デート」おしまい。