初出勤をなんとか終えてくたくたになった真弓は、アパートに帰るやいなや、そのままベッドに突っ伏した。
(なんだろ、あの人)
急にいなくなった「イケメン落丁青年」のことだ。カフェでの初バイトは、とても楽しかった。マスターもいい人で、お客さんたちも親切だった。
でも、あの青年のことが、美しい絵画に穿たれた画鋲の穴のように、真弓の中で引っかかってしまったのだ。
(また、会わなきゃなのかな)
あの態度、あの目つき。正直、いい印象は持てなかった。せっかくのステキなカフェアルバイトライフを邪魔される気さえした。だから、真弓は少しだけユーウツになってしまったのだ。
緊張からの疲れもあってか、突っ伏したまま、メイクもロクに落とさずに、真弓はそのまま寝入ってしまった。
そして翌日、見事に1限を寝坊した真弓は、食事もそこそこに自転車を走らせた。その途中で「アリスの栞」の前を通るのだが、ふと気になって、真弓は自転車を止めた。先を急いでいるにもかかわらず、である。
外観は古民家を改装した本屋なのでおとなしい印象。本屋の営業は11時からなのでまだ開いていないはずだが、店の中から何やら音がする。楽器の音だ。音楽でもかけているのだろうか。真弓がそっと窓を覗きこむと、そこにはウッドベースを弾く中野の姿があった。
「……!」
中野は、楽譜と思しき数枚の紙を見ている。表情は真剣そのものだ。真弓は思わず息を飲んだ。
「何してるの?」
突然、背後から声をかけられ、真弓は驚いて振り返った。するとそこには、ギターケースをかかえた若い女性が立っていた。
「『アリスの栞』に何か用?」
「スミマセン。私、ここでバイトしてて……それで……」
するとその女性は両手をポンと叩いて、明るい口調で頷いた。
「あ、そっかそっか。じゃあ、新しいボーカルの子!」
「へ?」
「そういうことなら大歓迎! さ、早く中へ」
「あ、いえ、私、授業が……」
「早く!」
「はいっ」
気圧された真弓は、勢いでそう返事してしまった。
ドアが開いて真弓の姿が見えると、中野はベースを弾く手を止めた。
「おや、大学は?」
「その……」
真弓の後に入ってきた女性が、「おっはよーう! マスター!」と元気よく挨拶する。
「あ、ハルコちゃん」
ハルコと呼ばれた女性は、店内を見まわした。
「あれ、彰は?」
ハルコの問いに、中野はため息をついた。
「絶不調……とまではいかないけど、気まぐれもあそこまで行けば、才能だよ」
「そっか……しっかりやらないと塩まくよ、まったく」
「ちょっとちょっと、縁起でもないこと言わないでよ」
「『縁起』ねぇ~」
ハルコの言葉に笑いあう二人。真弓は完全に置いてけぼりだ。
「涼介はまだ来てないみたいだね。じゃあ、それまで一息つかせて」
「わかった。カフェラテでよかった?」
「うん」
ハルコは軽やかに二階へ上がっていった。中野はカフェラテを準備しながら、真弓を気遣うように声をかけた。
「真弓ちゃん、授業はいいの?」
「えっと……」
大学の授業よりも中野のウッドベースが気になってしまった真弓は、ヘラっと笑ってみせた。
「大丈夫、です」
「そう。それならいいんだけど」
「あの」
真弓は壁に立てかけられたウッドベースを指さした。
「マスター、ミュージシャンなんですか」
ストレートにそう問うと、中野は朗らかに笑った。
「『ワンダーワールドメーカー』って、聞いたことない?」
「へ?」
「略してWWM。伝説のアコースティックユニット」
聞いたことがない。真弓は正直に「知りません、スミマセン」と伝えるが、中野がそれを気にしている様子はない。
「別に謝ることじゃないさ。伝説とはいえかなりマニアックなユニットだったからね」
「そうなんですか」
「僕たちはそのWWM好きが高じてコピーユニットを組んでる。さっきのはニイヤマハルコってギタリストの子。普段は美容師さんなんだよ」
「へぇ……!」
真弓は感嘆の声をあげた。二足の草鞋を履くって、とてもカッコイイじゃないか、と。
中野は続ける。
「もう一人、パーカッションがいるんだ。古谷涼介っていう、僕の高校時代の同級生で、旭町の商店街で自転車店をやってる」
全然、知らなかった。この街に来てまだ数週間なので無理もないが、全てが真弓にはキラキラしているように感じられた。仕事の傍ら、バンド活動。めちゃくちゃクールじゃないか。
「あ、じゃあ、いつも二階にいるあの方がボーカルですか?」
その問いには中野は直接答えず、
「これ、悪いけどハルコちゃんに運んでくれる?」
と真弓にカフェラテを差し出した。
「はい、わかりました」
「時間給つけるから」
「いえ、授業サボりの代償だと思うことにします」
エヘヘ、と笑って素直に応じる真弓。中野は真弓のこういうところを気に入ったようだ。
「お待たせしましたー」
そうして二階に上がった真弓の目には、少し驚くべき光景が飛び込んできた。
ハルコの流麗な指さばき。爪弾かれる、優しいメロディー。真剣なハルコの表情。真弓はすっかり魅入っていた。
真弓の姿に気づいたハルコが、パッと笑った。
「あ、カフェラテ? ありがとーっ」
真弓はカフェラテをテーブルに置くと、思い切って声をかけた。
「あの、ニイヤマさん」
「ハルコでいいよ」
「じゃあ、ハルコさん。今の、めっちゃかっこよかったです」
その言葉に、ハルコは少し照れながら、
「やだなぁ、ただの練習だよ。でも、嬉しい」
ギターをぎゅっと抱きしめて照れてみせた。
「彰にも聞かせてやりたかったな、今の言葉。いっつも私の演奏にダメ出ししかしないから」
「彰さんって、もしかしていつもここにいる方ですか?」
「そうそう。でも、こういう時に限って、出てきやしないんだから」
ハルコの言葉に、何か不自然なものを感じた真弓は、率直に問うた。
「『出る』?」
「え、言わない?」
「へ、何がですか?」
「幽霊のこと、『出る』って言わない?」
「はぁ、まぁ、言いますよね……」
真弓がその言葉の意味に気づくまで、数秒とかからなかった。
「っえええええっ!?」
第五話 素直 に続く