たんぽぽ

落ち葉がつむじ風に踊っているのを見ると、たんぽぽのことを思い出す。たんぽぽといっても植物のそれではなく、たんぽぽという名の女の子のことだ。もちろんそれはあだ名で、本名は知らない。出会ってすぐ、好きな花はと訊かれ、僕が特にないと答えると、「あたし、たんぽぽ」と答えたのが所以である。

たんぽぽはいつもチュニックにチェック柄のジャージを合わせていた。チェック柄のジャージなんて珍しいですね、と話しかけるとたんぽぽは嬉しそうにはにかんでいた。

僕はナースステーションから泣いて出てくるたんぽぽを見かけたことがあった。何があったか尋ねるのも憚れるほどのひどい泣きようだった。近くにいた看護師が「静かにしなさい」と『指導』したのだが、たんぽぽはそんな声を耳に入れることなく泣き続けていた。ちょうど、僕宛に一通の郵便が看護師から手渡された日のことだった。封を開けると、そこには簡素というよりもそっけなく一文、こう書かれていた。

『合議体による審査の結果、貴方の現在の入院形態の継続が妥当であると判断されました』

期待などしていなかった。だから、落ち込むことはなかった。落ち込むことはなかったけれど、それでも虚しさが胸に居残った。

「なんで落ち込んでんの」

泣き顔のたんぽぽにそう話しかけられて、僕は返す言葉に窮した。たんぽぽの言葉で、はじめて僕は自分がひどく鬱いでいたことに気づいたのだ。

「そらさんも、誰かとおやつを交換しちゃったの?」
「えっ」
「あたしは、宮部さんと。お煎餅とクッキーを交換したら、看護師に見つかって、今度やったら保護室が待ってるぞって脅されたの。あたし、とっても怖くて、それで」
「……そう」

病棟にも四季は巡るらしい。誰かがここを箱庭だと呼んだらしいが、さながら僕たちは箱庭に閉じ込められ、誰からも忘れ去られた人形だ。壊れかけのジオラマにしか居場所がない、同情すらされない、人のかたちをしているだけの存在だ。

夏がなんの挨拶もなくカットアウトした。「寒いですね」「寒いですね」と、たんぽぽは病棟のデイルーム内で過ごす患者たちに次々に話しかけている。部屋の隅でうずくまるようにして座り込んでいた初老の男性にたんぽぽが「寒いですね」と話しかけると、その男性は「うるさい!」と怒鳴った。

「今、お祈りの時間なんだ。邪魔しないでくれ」

たんぽぽは素直に「ごめんなさい」と頭を下げた。その姿を、看護師たちがクスクスと笑っていていたので、思わず僕は咳払いをしてから、

「楽しそうですね」

と言ってやった。すると看護師のうちの一人は気まずそうに去っていき、もう一人は僕に向かって

「ご自分の身分、わかってらっしゃる?」

と言い捨てて、やはりナースステーションに去っていった。僕は肩をすくめるしかできなかった。

日が落ちるのも早くなった。プラタナスの落ち葉がカサカサと心地よい音を立てて病棟の壁を撫でていく。たんぽぽは首を伸ばして、窓の外を見ていた。

「落ち葉のダンス」

そう言われて、僕も外に視線をやった。つむじ風が生まれて、落ち葉をくるくると踊らせている。ついこの間まで窓辺は暑くて刺すような日差しがあったと思ったのに、いつのまにか冷たい空気が箱庭を支配していた。たんぽぽはとても楽しそうにつむじ風を眺めていた。たんぽぽの横顔を見て、僕は彼女のまつ毛がとても長いと知った。

そのまつ毛が涙に濡れるのを見ていて、心揺さぶられないわけがなかった。

規則正しい生活は、僕たち患者のためというのは建前で、医療スタッフが管理しやすいようシステム化されているのである。夜九時の消灯を迎えて、睡眠薬を飲んでもすんなりと眠れるわけがない。僕は追加の眠剤をもらおうとベッドから起き上がり、ナースステーションへ向かった。

ほんのりと灯りのついているほうを目指して歩くと、突然耳をつんざくような叫び声が聞こえてきた。やめて! と聞こえた。甲高いその悲鳴は、間違いなくたんぽぽのものだった。僕の胸が嫌な昂りを覚えた。やめて、やめてよ! とたんぽぽは泣き叫ぶ。その声の間隙を縫うようにして、僕のよく知らない専門用語が飛び交う。

僕は呆然と立ち尽くしていた。僕の視界がとらえたのは、臀部に注射をされるたんぽぽの、苦しみに歪みきった表情だった。

病棟からたんぽぽが消えた。窓辺にも、デイルームにも、作業療法の部屋にも、どこにもいなかった。もしかしなくても、保護室にいるのだと理解した。

「そらさん」

話しかけられて、僕はハッとした。見るとたんぽぽと仲良くしていた宮部さんが落ち込んだ顔を見せていた。宮部さんは過去に自殺に失敗して、両脚の自由を失っている。そのため、手動車いすに乗っていた。ホイールをキュッ、キュッと言わせながら、宮部さんは声を震わせた。

「私のせいなの」
「……なにがですか」
「夜9時になんて、眠れるわけないじゃない。私は眠れなくて、いろいろ思い出して泣いてた。死ねなかった日のこともね。きっと耳障りだったろうに、あの子は『じゃああたしが代わりに追加眠剤をもらってきてあげる』って。優しい子なのよ。本当に、純粋な子なの。なのに、なのに……」

宮部の代わりに眠剤をもらいにいったたんぽぽを、夜勤の看護師は取り合わなかった。おやつの交換さえ禁止されている病棟で、誰かの代わりに薬をもらうことなど許可されるわけがなかった。おそらく邪険に扱われたのだろう。たんぽぽが立腹するなんて、よほどの暴言を浴びせられたに違いない。

抗議したたんぽぽは『暴れた』と判断されてしまった。そうして強烈な鎮静効果のあるデポ剤(注射)を、あの小さな体に食らってしまったのである。

「私のせいなのよ」

宮部さんは心底悔やんでいる様子だった。親切が仇になるのなら、誰もかれも知らぬ存ぜぬを通せというのか。

ここは、誰のための、なんのための場所なのだろう。

今ごろ、覇気を失った瞳を庇うようにあの長いまつ毛が凍りついていることを想像するだけで、僕はめまいに襲われた。それはすぐに頭痛に化けて、僕の心身を侵食した。見上げれば白い天井。白いテーブルに座り心地の悪い椅子たち。チャンネル争いの起こるテレビ台の下の、誰も遊ばないオセロの潰れた箱。何もかもが、たんぽぽを否定しているように感じられた。

「どうして……」
「そらさん?」

僕の咽喉を、ドロリとした感情が下っていった。

頭の奥に鈍い痛みが残っている。右腕を特に強く掴まれたのだろう、まだ新しいあざが見るからに痛々しかった。鍵のかかった扉に、はめ殺しの小さな窓からかろうじて外の様子が見える。落ち葉がやはりくるくると舞っていた。僕は自分がどこにいるのかを認識すると、重だるい体をどうにか起こして、壁に強く耳を押し当てた。

かすかに聞こえてきたのは、泣き声でも悲鳴でもなく、歌声だった。あのたんぽぽの、しかし非常に空虚な歌声だった。歌っていたのは僕でも知っている、平成時分に流行したアイドルソングだった。そのサビの部分だけを、たんぽぽはずっと繰り返していた。

未来は そんな悪くないよ

僕は両目からぼろぼろと涙が溢れるのを止めることができなかった。理屈抜きで予感してしまったのだ、もう二度と僕はたんぽぽに会うことは叶わないと。

僕がデイルームへの復帰を許されたあと、テーブルの上に、誰かが作業療法で制作したらしいペットボトル製の花瓶が、折り紙でできたたんぽぽの花を添えて飾られていた。宮部さんはもう、あの子について話すことはなかった。

つけっぱなしのテレビから、だれかの演説が聞こえてくる。僕は外がよく見える窓辺の特等席に腰掛けると、あのアイドルソングを鼻歌で歌った。プラタナスの枯葉が舞う。くるくると。

未来は そんな悪くないよ

それがたんぽぽの願いなら、僕は生きていくしかない。生きていくしか。