吉田美咲の日課は、三毛猫のマグに朝ごはんをやることから始まる。準備を整えて待っていると、店の奥から澄まし顔でマグがやってくる。冬の足音が聞こえだした街の一角にある、小さな喫茶店の朝だ。
「マグ、おはよう」
当然ながら返事はないが、マグが元気にごはんを食べ始めるのを見て、美咲は今日も一日がんばろう、と心の中でつぶやく。
次は店内の掃除だ。小さな喫茶店なので美咲一人でも十分なのだが、たまに近所の女の子が手伝いに来てくれる。ただしその子が朝、起きられたらの話だ。手伝いに来てくれる時には八時半にはスマホに連絡がくるので、今日は来ないと判断し、美咲は掃除を始めた。
九時半を過ぎ、ガトーショコラの仕込みに入ろうとした頃、店の扉が開いて、壮年の男性が入ってきた。
「美咲ちゃん、おはよう」
「マスター、おはようございます」
この喫茶店のマスターは片手に紙袋いっぱいのコーヒー豆を持っている。彼はフェアトレードのものしか買わないこだわりを持つ。注文を受けてから一杯ずつ丁寧にハンドドリップするコーヒーと、甘さ控えめのガトーショコラがこの喫茶店「しんりん」の自慢だ。
他にはナポリタンやピラフ、サンドイッチなどが安定して人気のメニューで、昔はしょっちゅう注文されていたメロンソーダは、もう滅多に出ることはない。喫茶店が若者の憧れだったのはすっかり昔のことで、チェーン店のコーヒーショップやこじゃれたカフェが主流となった今にあっては、しんりんは逆にレトロな雰囲気がウリ、という評判になっている。あえてそれを目当てに来る若い客層もあるが、常連客の多くは昭和に青春時代を過ごした人々だ。
「ここに来ると落ち着くんだよ」
しんりんにサンドイッチ用のパンを卸している近所のパン屋の主人、飯岡宏はパンを納品するたびにマスターの淹れるコーヒーを飲んでいく。開店前に飲めるのは、提携業者の特権だ。
「マスター、ここのところ体調はどうなの」
飯岡はマンデリンをすすりながら、マスターに話しかけた。
「すこぶるとは言わないけど、そこそこ順調だよ」
「それは何より」
次に、ピラフに付け合わせのポテトサラダを作っている美咲に、
「美咲ちゃん、相変わらずカワイイね」
と軽口を叩くものだから、美咲はあきれて、
「一歩間違えればセクハラですからね」
言い返してやった。飯岡はアハハ、と笑って
「じゃあまた」
と去っていく。いつものことだ。マスターはその姿を見送ると、コーヒーミルを手入れしながら、
「とてもじゃないけど、元スター選手には見えないよねぇ」
と苦笑した。美咲もそれに応じ、
「まったくです。ただのチャラいおっさんですよ」
そう呟いた。
「まぁでも、パンに罪は無いからね」
マスターはパンを手にし、その香りを楽しむ。焼きたてのパンの香りはどんな人も幸せな感覚にいざなってくれる、そんな気がするのだという。
マグが窓辺で鳴いた。散歩の合図だ。マスターが窓を開けてやると、マグは軽やかに駆けだした。その後ろ姿に美咲は、
「いってらっしゃい」
と声をかけた。
マグが道を歩けば、通りすがりの子どもが「ねこちゃん!」と追いかけてきたり、ベンチに鎮座すれば近所のお年寄りが頭を撫でてきたりと、彼はちょっとした人気者だ。そんなマグはとても気まぐれな性格で、エサにはほとんどなびかない。そんなマグが、ふと歩を止めた。
公園の隅に生えているクヌギの樹の下、人間の視界からちょうど死角になっている場所に、青年が一人立っていた。青年は、両手にロープを持っていた。というよりも、握りしめていた。中空を見つめながら、ずっとぶつぶつと呟いている。マグが至近距離に近づいても気づく様子がない。
マグはたったか軽やかにクヌギの枝に登ると、青年がロープを自分の首にかけたタイミングで、彼の腕の中に飛び降りた。
驚いた青年は尻もちをついて、
「わ!」
短く悲鳴を上げた。
気づけば、凛々しい顔をした三毛猫の顔が眼前にある。
「な、なんだよ、お前……」
マグは澄ました顔で、すらりと青年の腕から離れた。そしてひと鳴きして、青年の落としたロープの上に乗ると、そのまま座り込んでしまった。
「おい……」
青年は力なく声をかける。マグは構うことなく、顔を洗い始めた。
(……なんてことだ。三毛猫なんかに邪魔されて、自分は死ぬこともできないのか)
青年がうずくまると、マグは尻尾をふりふりしながらアクビをした。そして、青年を見ながら、その顔をちょこっと傾げた。そうして、まるで青年を導くように、もうひと鳴きすると軽快に歩き出した。
「……」
青年は、考えるより先にマグの後を追いかけはじめていた。
しんりんの開店とほぼ同時にやってくるのは、近所に住む金城朋子という少女だ。マスターは「いつものでいいかい?」と朋子に尋ねると、朋子はぺこりと頷いた。朋子はブレザーを着ている。
「今朝は起きられなくて、本当にごめんなさい」
平謝りする朋子に、マスターは穏やかな口調で応える。
「気にしないで。気が向いたらでいいんだから」
それに続けて美咲が水を運びながら、
「またわからないトコがあったら、いつでも言ってね」
と声をかける。朋子は恐縮した様子で、何度も頭を下げてしまうが、それを咎めるようなことは、マスターも美咲もしない。そういう子なのだと心得ているからだ。美咲は、
「あ、でも数学以外でお願い。算数までならなんとかなったけど、数学はもう手がつけられなかったの、私」
そう苦笑する。朋子は小さく返事して、参考書を数冊取り出しテーブルに広げた。
朋子はいわゆる不登校生徒だ。中学校に入ってすぐ、クラスメイトたちによる言葉や態度による陰湿ないじめに遭い、二年生の五月から、もう半年近く学校へ行っていない。朋子の両親は何度も学校へ相談したらしいが、学校側は「からかいや悪ふざけの延長にすぎない」
「自意識過剰なのでは」、果てには「証拠がない」と一向に取り合ってくれなかった。
ついに、「あんたの思い込みじゃないの」と母親にも切り捨てられてしまった。家庭にも学校にも居場所がなかった朋子は、昼間ずっと公園のベンチで過ごすことが多くなった。
そんなある日、マグが朋子の隣に現れた。当たり前だが言葉を交わしたわけではない。しかし、ベンチで一人と一匹、同じ空間で同じ景色を共有する、不思議で緩やかな関係になった。雨の日も風の日も、マグは必ずその公園のベンチに現れた。だから、朋子も頑張って朝起きて、制服に着替えて、公園のベンチに向かった。
残暑の日差しがまだ厳しい頃に、偶然通りかかったのが買い物帰りの美咲だった。ヒグラシの大合唱の中、マグと一緒にぐったりとしているところを発見されたのだ。驚いた美咲は、自分の持っていたスポーツドリンクを朋子に与え、マグを抱き上げて喫茶店まで走った。
軽い熱中症だったらしい。マグは水を舐めさせたらすぐに元気になったが、体の熱が治まっても、朋子が笑顔を見せることはなかった。
マスターは詳しい事情は一切聞かなかった。ただ、
「暑い日にはアイスを食べにおいで。毎日でもいい」
とだけ、朋子に伝えた。
その日以来、朋子はしんりんで勉強をするようになった。それから少しずつ、朋子は自分に起きた出来事を話すようになった。
空気を必死に読まねばならないらしい。ヒエラルキーの下に落ちないように、誰かを犠牲にしなければならないらしい。歩調を合わせて愛想よくいなければならないらしい。学校とは、今やそういう監獄のような場所で、だから似たような顔つきをした人間たちが順番に巣立っていくという。
「いつから、そんなつまんない場所になったんだろうね」
美咲が憤慨したことがあったが、朋子はあきらめ顔で、
「いいんです。私には、ここがあるから」
そう漏らすだけだった。
ドアに設えられたベルがカランコロンと鳴って、来客を知らせる。
「いらっしゃいませ」
マスターがそう言うと、客より先にマグが入ってきた。
「おや、マグ。おかえり」
マグはたったかと自分用のソファに走ると、そのままリラックスした様子で身を沈めた。
「どうぞ、お入りください。店は開いていますよ」
マスターがドア越しに声をかけると、人影がためらいがちに揺れる。美咲はいぶかしがって、そちらへと近寄り、声をかけた。
「あの、よかったらどうぞ」
「すみません……」
現れたのは、公園でマグと出会った青年だった。十一月だというのに、上半身はTシャツしか着ておらず、とても疲れきった表情をしていた。
彼の目を見たマスターは、少しだけ思案してから、青年に声をかけた。
「まぁ、休んでいってよ」
青年は遠慮がちにカウンター席に着く。水を持ってきた美咲が、
「寒くないですか? ひざ掛けしかありませんが、どうぞ」
青年に、ひざ掛けを手渡した。
「ランチもありますから」
「すみません」
青年は繰り返した。美咲は、
「おススメはナポリタンですが」
と前置きし、
「まずはコーヒー、飲んでください。きっと気に入ると思いますよ」
とウィンクした。青年が戸惑ってマグを見ると、彼はすっかりソファの中で寝息を立てている。
「初めて見たでしょう」
マスターが青年に話しかける。
「マグっていうの。マグロが好きだから、マグ。見ての通り三毛猫なんだけど、この子はオスなんだ」
「……?」
そこへ美咲が解説を始める。
「三毛猫の基本性別は、メスなんです。だから、オスってとても珍しくて、だから『幸運を招く』とか『災いから守ってくれる』とか、そういう言い伝えもあるんですよ」
「この猫が?」
青年は思わず声を出す。マスターはやはり静かな口調で、
「そう。そのおかげで、この子も苦労してるんだ」
そんなことを言うものだから、青年はどう返答していいかわからず、ますます困ってしまう。
隣のテーブルで勉強していた朋子が、ふと手を挙げた。
「美咲さん、教えてください。この『what』は、どうして疑問形じゃないんですか?」
「あ、それね。私も昔、苦戦したよ。この場合は、『こと』とか『もの』を指す意味で……」
美咲が朋子にティーチングを始めてしまったので、青年はとりあえずメニューを開いて、コーヒーを注文した。
「モカマタリ、ください」
マスターは穏やかに頷いて、豆を挽き始めた。青年は信じられなかった。先刻まで死ぬことばかり考えていたのに、今、喫茶店でコーヒーを待っているこの時間が、今までの自分の人生の中で、いい意味で浮いているようにすら感じられた。コーヒー豆の香りに、心がふうわりと落ち着く。
青年は、根掘り葉掘り訊かれても仕方ないと思っていた。なのに、マスターは何も介入しないし、ホールの女性は少女に英語を教えているし、三毛猫は寝ている。ここでは時間の流れ方が外と違うのだろうか、柱時計の秒針の音さえ青年には心地よく感じられる。
青年は目を閉じた。そして、深呼吸した時に青年はようやく、空腹を感じている自分に気付いた。そのキュルキュル音を聞いた美咲がぱっと振り返って、
「モカマタリはフルーティーだから、ガトーショコラによく合います! いかがですか、ナポリタンもつけますよ」
「いえ、えっと」
青年は首を横に振った。
「そんなに、手持ちがないんで」
その言葉に、美咲は青年以上に首をぶんぶん横に振った。
「じゃあ、ツケってことで。いいですよね? マスター」
マスターは背を向けたまま、
「もちろん。いつかちゃんと返してくれれば、それでいいよ」
そう応じた。
青年の前に、モカマタリが運ばれてくる。一口飲んで、青年は
「おいしい……」
思わずそう零していた。美咲は嬉しそうに、
「でしょ、でしょう。ウチのコーヒーは絶品なんです。ね、マスター」
そう褒められて、思わず照れるマスターの人柄がそのまま表されたような、素朴なナポリタンもまた、美味だった。青年はよほど腹が空いていたのだろう、あっという間に完食した。
美咲がガトーショコラを準備するためにキッチンに戻ったところで、朋子が青年に話しかけてきた。
「あの、すみません。もしわかったら教えて下さい」
「え?」
「ここの『受動態』って、なんで『be動詞』と『過去形』なんですか」
「えっと……」
青年が朋子の隣に座って、中学英語の手ほどきをする。
柱時計が一時を指して、一回だけポーン、と鐘を鳴らした。
「お待たせしましたー!」
ガトーショコラをミントであしらったデザートディッシュを美咲がテーブルに二つ置いた。
「朋子ちゃんの分もあるよ」
朋子が驚いて、
「いいんですか?」
と問うと、美咲はいたずらっぽく笑った。
「その代わり、感想を聞かせてね」
朋子は少し表情を明るくし、美咲に礼を言うとガトーショコラをつつき始めた。青年は思いつめた表情のままだ。
「あっ」
美咲はポン、と手を打って、
「そうだ! まだ、お名前も聞いていませんでしたね。私、吉田美咲です」
ころころ笑った。しかし、青年はやや間を置いてから、
「……名乗らなきゃ、ダメですか」
そう重たく言った。
青年の表情はどんどん曇っていく。マスターはコーヒーカップを磨きながら、
「話したいことは話せばいいし、話したくないことは何も話す必要はないと思うよ。だってここ、ただの喫茶店だし」
青年に向かって言った。美咲はうんうん、と頷いた。
「身の上相談でも、井戸端会議でも、勉強でも、作詞作曲でも、なんでもアリなんですよね。だってここ、ただの喫茶店だし」
「かぶせてきたね」
「はい」
マスターと美咲が笑いあうが、その声を制止するように、
「お願いです」
青年が言葉を挟んできた。
「俺のこと、誰にも言わないでください」
「え?」
美咲がキョトンとするが、なおも青年は続ける。
「見つかったら、終わりなんです」
「どういうこと?」
青年の様子に、朋子も圧倒されてガトーショコラを食べる手を止めた。マスターは美咲を「まぁまぁ」となだめて、
「それよりも、ガトーショコラの感想を聞かせて。美咲ちゃんの自信作だから」
と提案した。
ぎくしゃくした空気の中で、それでもガトーショコラを一口食べれば、その程よい甘みとショコラの香りに、その場の雰囲気も少しずつほどけてゆく。
「とても美味しいです」
最初に感想を述べたのは朋子だ。
「合わせてある生クリームも、ちょうどいい感じに甘くて。粉砂糖が雪みたいにキレイで」
「ありがとう。朋子ちゃん、食レポうまいね」
美咲がそう言うと朋子は赤面した。
「ご、ごめんなさい、偉そうでしたか……?」
「そんなことないよ。嬉しかったの」
笑顔の美咲に、ホッとした表情の朋子。一方の青年は、黙ったままフォークを口に運んでいる。それを見た美咲は、
「お口に、合いませんか」
不安になって話しかけた。しかし、青年は首を横に振って、
「違う。……違うんです」
そうポツリと言って、うなだれてしまった。美咲はますます心配になって、青年の顔を覗き込むように問いかけた。
「あの、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃありません」
即答する青年。
「大丈夫じゃ……ありません……」
力なく繰り返す彼に、マスターが寄って、肩に手を添えた。
「感想、言ってあげて。美咲ちゃん、もうすぐ試験なんだ」
菓子製造技能士二級。パティシエを目指す美咲が合格を目指している資格だ。普通科高校卒の美咲には二年以上の実務経験が必要だが、この十一月でようやくその要件を満たすことができるのだ。
美咲自身も甘いものが大好きで、食べるといつも笑顔になる。だから、自分の作ったお菓子で人を笑顔にするパティシエになりたい。そんな夢を美咲は持っている。その話を聞いた青年は、うつむきながら、
「夢があって、いいですね。羨ましいです」
「やだなぁ。それじゃあなたには、夢がないみたいじゃないですか」
「ありません」
彼はそう断言した。
「夢を持つ資格なんて、俺にはないんです」
「それはどういう――」
美咲が訊きかけた時、喫茶店の入り口のドアが勢いよく開いた。入ってきたのはパン屋の主人の飯岡だ。
「マスター! 聞いた? ニュースにもなってるよ」
突然の飯岡の発言に、マスターは首をひねった。
「飯岡さん、何の話?」
「八刑から脱獄犯だってさ。今どき信じられないよね」
青年の表情がみるみる凍り付いていく。
八刑とは八王子にある、全国に四か所しかない医療刑務所の略称だ。医療刑務所とは、原則として精神または身体に疾病や障害のある受刑者を収容している場所である。
青年はフォークを握りしめたまま、視線を床に落とした。その手が徐々に震えていく。
「警察が情報を集めてるらしい。何かわかったら、町内会長まで知らせってさ」
「そう」
マスターは至って冷静だ。グラスに水を注ぎ、飯岡に差し出す。
「ちょうどいい。飯岡さん、ちょっと昔話をしてってよ」
「はい?」
マスターは飯岡を指しながら、青年と朋子に問うた。
「この人、知ってる?」
「パン屋さん、ですよね」
素直な朋子の回答に、美咲はふき出した。
「そうだよねぇ。『今は』、だけどね」
それを聞いた飯岡は「ハハハ」と快活に笑った。
「朋子ちゃんくらい若かったら、もう俺の現役時代なんて知らないだろうなぁ」
名鉄シャークスの四番ファーストの飯岡宏といえば、知る人ぞ知る、往年のスター選手だ。かつてはメジャーリーグも嘱望されたが、選手時代の後半はケガに泣かされ、最後の数年間は二軍で調整し続けるも、そのままフェードアウトするように引退した。
現役引退後は地元に帰り、実家のパン屋を継いで現在に至る。
「年俸一億円から大幅ダウンしたもんだから、金銭感覚を立て直すのが大変だったけどね。諭吉なんて湧いて出るものだと思ってた人間が、一個百円のパンを朝四時に起きて焼くようになるんだから、人生、どこで何がどうなるか、本当にわからないよね」
朋子はびっくりした様子で口を開けている。いつも見かけるパン屋のおじさんが、そんな過去を持っていたとは。
「でもね、今、とても楽しいんだ。毎日、焼き立てのパンを焼くと、その匂いで子どもたちがおなかを空かせて起きてくる。『おはよう』の一言がある。そんな、なんてことないことが、とても幸せだと感じるんだよ。こんなに楽しい日々が送れるなんて、正直、昔は思ってもみなかったからね」
飯岡の表情はいたって晴れやかだ。言葉の通り、幸せなのだろう。
「それじゃ、よろしくね」
と言い残して去っていった。
そんな飯岡と対照的な表情を見せているのは、青年である。
マスターは促すように声をかけた。
「ガトーショコラ、食べきっちゃえば?」
「……」
青年は不安と恐怖を両目にたたえて、硬直していた。そんな彼を安心させるために、
「何度も言うようだけど、ここはただの喫茶店だよ。そこに座っている限り、あなたは大切な当店のお客さんだ」
「……ごめんなさい」
「どうして謝るんだい――」
マスターが言い終えるより早く、青年は突如、席を立って朋子の背後にまわると、彼女を羽交い締めにして手に持ったフォークを彼女の首筋にあてがった。
突然の出来事に、朋子は悲鳴も上げられない。
「何するの!」
美咲が叫ぶが、それをマスターは制した。
「大声は出さないで」
「だって朋子ちゃんが……」
美咲は憤るが、マスターは至って落ち着いた様子で、
「話をしよう」
と青年に持ちかけた。しかし青年は、獣が呻くような声だ。
「もう何もかも手遅れなんだよ。俺はとっくに終わってるんだ。消えてなくなった方がいいんだ。俺なんて……このまま死んだ方がいいんだ」
「そんなこと言わないで。どうか朋子ちゃんを解放してほしい」
青年は目を剥き、吐き捨てるように、
「そうしたらどうなる? 警察を呼ぶんだろ、どうせ」
「朋子ちゃんを放してくれ」
「あんな場所に戻されるくらいなら、この娘を殺して俺も死ぬ!」
「やめなさい!」
マスターの言葉にも青年は応じる気配がない。美咲は恐怖のあまり竦んでしまっている。
青年の表情が完全にこわばり、鬼のような目つきになる。その場にいた誰もが最悪の展開を予感した、その刹那。
ソファで眠っていたはずのマグが、青年がフォークを持っている手に飛びかかった。フォークが床に音を立てて落ちる。朋子が隙を見て逃げ出した。美咲が駆け寄り、抱きしめてあげる。
「大丈夫だよ」
と声をかけられると、朋子は彼女の腕の中で、ホッとしたせいか泣き出してしまった。
青年は右手を押さえ、その場に力なく座りこんだ。そうして、
「どうして……」
マグがひと鳴きする。
「またお前かよ……」
青年はマグに向かってぼやいた。マグは何事もなかったかのように顔を洗っている。
「マグに感謝することだよ」
マスターは静かに、しかし確かな怒りを青年にぶつける。
「マグがいなかったら、君はさらに罪を重ねるところだったんだから」
「……」
青年はマグを見た。マグは青年と目を合わせると、愛らしい声でまた鳴いた。
「自分から命を手放すほど、悲しいことはないよ。命は、どんな理由があっても、奪われちゃいけないんだ」
マスターは青年に言い聞かせるように言う。
「君にどんな事情があったとしても、それは君が自分や人を傷つける正当な理由にはなりえない。何より、ここでは君は大切な客として、くつろがなきゃならないんだよ。だってここは、喫茶店なんだから」
青年は、力なくポツリとこぼした。
「俺には、そんな資格なんか……」
「資格なんかじゃない」
マスターの口調は泰然としている。
「しんりんに来たのに、くつろいでもらえないなんて、店のプライドに関わる問題だ」
「え?」
ポカンとする青年。ここで朋子が、
「あの」
と声を発した。
「マスター。私が言うのもおかしいかもしれませんが、その人のこと、どうか怒らないでください」
「朋子ちゃん?」
美咲が驚く。
「その人、手が、手がね。とっても震えてたんです。きっと、自分でも怖かったんだと思います」
その言葉に、青年はおし黙ってしまう。
「私は何もされていないし、何も見ていない。だってここ、喫茶店でしょ。みんなここで、くつろいだり、夢を語ったり、羽を休めるんでしょ。しんりんは、そういう場所なんでしょ」
「朋子ちゃん……」
「疲れたら、休めばいい。歩き続けるためには、たまにここへ来てくつろげばいい。そう教えてくれたのは、マスターじゃないですか」
マスターは、朋子の頭にポン、と手を置いた。
「朋子ちゃんに免じて、ここは見逃してあげよう。なんてったって、君には果たすべき重要な約束があるからね」
そう言って、マスターは伝票を一枚、青年の前に置いた。
「モカマタリ六百円、ナポリタン七百円、ガトーショコラのプレート四百円が二つ。全部で二千百円。これ、ツケておくから、いつか必ず返しに来なさい」
ちゃっかり、朋子の分のガトーショコラも請求している。
「それまで、待っているから。君がきっとまたここに来てくれると信じて」
マスターのその言葉に、青年は息を詰まらせるようにして泣き出した。美咲がマグに引っ掻かれた傷痕のためにそっと消毒液と絆創膏を持ってくると、青年は何度も頭を下げた。
「すみません」
「こちらこそ、ごめんなさい。マグのこと、嫌いにならないでくださいね」
「はい……」
青年の頬を、幾筋もの涙が伝っている。
「すみません……すみません……」
「そういう時はね」
マスターはニコリと笑った。
「『ありがとう』のほうが似合うと思うよ」
当のマグといえば、アクビをして毛づくろいをしていた。
「ツケ払い」という名の、「約束」。それが、青年の心の中に、コーヒーミルクのようにゆっくりと溶けこんでゆく。
青年はいつか必ず再び、しんりんへ来るだろう。ツケを払って、またあの美味しいコーヒーを飲む。ガトーショコラを食べる。ナポリタンもつける。そんな「約束」。
どんな過去があろうと、あやまちがあろうと、青年には、今と未来へ果たすべき「約束」がある。そのことがもう、どうしようもなく、あたたかく感じられた。
パトカーに乗り込んだ青年の表情は、その場にいた警察官が不思議がるほどに晴れ晴れとしていた。
「マグ、おはよう」
いつものように、ごはんを与えに美咲がやってくる朝。今日は朋子が手伝いに来てくれた。掃除が終わる頃にやってくるマスター。これもいつもの風景だ。
いつもの日常がいつもの通りにやってくる、そんな当たり前を愛しいと思えるこんな日々は、きっととても幸せなのだろうと、美咲は最近、特に強く感じている。
「今日も一日、がんばろう。ね、朋子ちゃん」
「はい。ひとつずつ、一歩ずつ、ですね」
「うん、いいコト言うねぇ」
「そ、そうですか?」
赤面する朋子をちらりと見て、マグがひと鳴きした。
いつか、彼が約束を果たしに来てくれる日にも、「しんりん」は変わらず、少し賑やかな街の隅っこに、そっと佇んでいる。
雨の日も風の日も、どんな嵐の日も、物静かなマスターと優しいパティシエ見習い、そして気まぐれな三毛猫が、人生にちょっぴり疲れた人々のご来店を、心よりお待ちしております。
おしまい