「普遍的価値のある事象だけに意味があるだなんて、随分と陳腐な考えだね。別に、それが悪いとはいわない。ただ、神が何ゆえ、僕らに『痛み』を与えたかについて考えたことはあるかい? それは、僕らが生きているということを、他ならぬ僕たち自身に忘れさせないためだ。もしも僕らの心身に痛みが存在しなければ、僕らにあらゆる執着は生まれなかっただろう。執着がなければ、生きることを容易く手放しただろう。そうさせないための、痛みはいわば楔なんだ。僕らが僕らたりえるには、痛みが必要なんだよ。
痛みを悪しきものとして遠ざけようと腐心する、その過程をしばしば人々は『道』だとか『人生』だとか呼ぶ。同時に、人々は過ちをひどく恐れる。過ちに『罪』と名をつけて糾弾しさえする。しかしどうだろう、道を、人生を、一切違わない人に、僕は出会ったことがない。ミラーボールから逃れられる人がいないようにね。
苦しみの根源が執着であることは、確かにかなり膾炙されているけれど、そもそも、人々は痛みと苦しみを混同しがちなんだ。痛みは、人が命を尊ぶための楔。苦しみは、その楔を腐らせるもの。痛みとはイコール苦しみではなく、むしろ二律背反的に捉えるべきだ。
驚かないで聞いてほしいのだけれど、痛みがなければ慈しみも生まれない。ましてや『愛』だって存在し得ない。苦しみとは慈しみや愛を独善的に手に入れようとする『罪』に対する『罰』だ。痛みは、あらゆる事象に意味を与える——ドラムンベースのBPMが159しかないダンスホールで、それでも人々が踊り続けられるのと同じように。
わかるかい、痛みとは、なければならないんだ。僕たちは痛みと苦しみの狭間で生存することを、強制でも渇望でもなく、粛々と続ける。そしてさらに重要なのは、普遍的価値があらゆる取りこぼしを発生させる点だ。ほら、ここからでも聞こえるだろう、取りこぼされた人々の苦しみゆえの悲鳴が。見えるだろう、それでも生きようとする、痛みゆえの意志の強い眼差しが。
『普遍的価値』の外側にこそ、僕らの痛みの意味が棲んでいる。痛みがあるからこそ、僕たちはこうして『ここ』で生き延びることができるんだ。神はそのことを全てを知っていながら、またダンスホールに降臨するだろう。だから僕はこれからも踊り続けるんだ。BPMの足りないドラムンベースに乗って」
(では、人間にとって痛みとは『恩恵』だとでも?)
「もちろん」