生ぬるい春に整うパズル

言葉より先に、花はそこに咲いていた。私は貴方が貴方自身を望む以上に、貴方のことを想っているの。


沸騰を知らせる甲高い音で、俺はうたた寝から強制的に現実へと引き戻された。緩慢に椅子から立ち上がり、コンロの火を止める。加工され尽くした粉に湯を注げば、口当たりのいいコーンポタージュの完成だ。

時計は間もなく正午を指すところだった。俺は安アパートの一隅に置かれた植木鉢に目をやった。春の生ぬるい日差しを受けても、一向に芽を出す気配がない。そもそも、何が植わっているのかも知らないのだ。それでも、日に一度は水やりをしている。

元はと言えば、死んだ母親が遺していったものだった。すぐに捨てられれば良かったのだろうけれど、思い出まで捨ててしまう気がして、どうしてもできなかった。

ぼうっと植木鉢を眺めていたら、呼び鈴が鳴った。家賃ならきちんと払っているので、来客に心当たりはない。俺は首を傾げて、ドアをそっと開けた。すると、そこには年端も行かないロングヘアの少女が、水色のワンピースに白のスプリングコートという出で立ちで佇んでいた。

「……どちら様?」
「やっとお会いできました」
「はい?」
三田明彦みたあきひこ

名前を言い当てられて、俺は驚きのあまりドアを勢いよく閉めてしまった。それに動じる様子もなく、少女は言葉を続ける。

「お会いできて嬉しいです。貴方こそが、私の声を聴くに相応しい存在だから」

新手の勧誘の類だろうか。それにしても、俺の名前を知っているとは、どういうことなんだ。

俺は眉をひそめつつ、再びドアを開けた。すると、当たり前のように少女はするりと部屋に上がりこんで、自然な動作で植木鉢を抱きしめた。

「私の名は、アルラウネ。人々は『絞首台の小人』とも呼びます」
「いや、あの……」
「さあ、行きましょう」
「行くって、どこに?」
「巡るのです。貴方が失くしたものを取り戻すために」
「……はぁ」

どうせこんな狭い部屋に一人でいても、退屈なだけだ。転職活動もいまいちうまくいかないし、これといってするべきこともない。俺は暇つぶしがてら、この少女の戯言に付き合ってやることにした。

サコッシュにスマートフォンと財布、ポケットティッシュにハンカチを適当に詰め込むと、俺は自分でも驚くほどあっけなく旅立ちを決めた。その軽さは、まるで自分の価値そのもののような気がした。


アルラウネはどこへ行くにも、植木鉢を離さなかった。JR構内の喫茶店でソフトクリームを買ってやると美味しそうに食べていたし、ホームで特急列車が通過するときの轟音には、目をまんまるにして驚いていた。その様子は、まるで無邪気な子どもそのもので、俺はまるで突然年齢の離れた妹ができたようで、不思議な心地がしていた。

飛行機代までは捻出できなかったので、新幹線で北を目指すことにした。東京駅で駅弁を二つ買い、「はやぶさ」で新函館北斗駅まで乗ることにした。オフシーズンだったのですぐに指定席が買えたおかげで、ゆったりと移動することができた。窓際に植木鉢を置いたアルラウネは、興味深そうに車窓からの景色を眺めていた。

駅からバスを乗り継いでやがて辿り着いた小さな町は、遅い春をじっと待っているかのごとく、根雪に道を覆われていた。かつて通った小学校は、昨今の少子化や市町村合併の影響で、数年前に廃校になったと風の噂で聞いていたが、いざそれを目の当たりにすると、胃袋が縮こまるような不快感を覚えた。

現在ではコミュニティーセンターの一種として、地域住民に開放されているらしく、古びた校舎の一室では、高齢者向けのカルチャースクールが開講されていた。

「ねぇ明彦。『はじめてのすまほきょうしつ』って何ですか?」
「俺には関係のないもの」
「ふーん」

次に、町の中心地ともいえる商店街に足を運んだ。わかっていたことだが、ほとんどがシャッターを下ろしていて、隅っこでひっそりと営業していた古びた喫茶店に、暖を求めてアルラウネと入った。

水を置いて注文を取りに来た店員の女性が、ハッとした表情でこちらを凝視してくるのに気づいて、俺は首を傾げた。

「……何か?」
「もしかして、三田くん?」
「え?」

年のころなら俺と同じ、三十路手前と思しきショートカットの小柄な女性が、確かに俺の名を呼んだ。

「やっぱり、三田くんだ! わぁ、どうしたの。帰ってきたの? 作家になるんじゃなかったの? うわー、ほんと久しぶり。そちらは、お子さん?」
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
「元気そうでなにより。てっきり東京でバリバリ活躍してるのかと思ってた。で、ご注文は?」
「……ブレンドひとつ」
「私はこの『ハルノクリームソーダ』にします!」

アルラウネが元気にそう伝えると、その女性は嬉しそうに笑った。俺は厨房へ去っていく女性の背中を見てから、改めて喫茶店の屋号を確認した。喫茶ミヤハラ。……宮原?

そうだ。間違いない、俺の初恋の人だ。

やがて運ばれてきた「ハルノクリームソーダ」には、緑ではなくピンクのソーダにバニラアイスとホイップクリームが載っており、頂点にはさくらんぼではなく桜の花弁が添えられていた。

「去年咲いた桜を、塩漬けにして使ってるの。塩気がアクセントになって美味しいから、さあどうぞ」
「わーい」

アルラウネが細長いスプーンでバニラアイスをつっついている。俺はブレンドを一口飲んでから、その女性にこう切り出した。

「もしかしなくても、宮原だろ? 緑原小学校の宮原和江かずえ
「あらら、フルネームで覚えててくれたんだね。なんだか嬉しい」
「継いだんだな、店」
「まぁね。小さな町でしょう。たまに来る観光客のインスタ映え狙いで、そんなクリームソーダを開発したのはいいけど、注文するのはSNSに縁のなさそうな客層ばっか。三田くんみたいに上京したくなる気持ち、痛いほどわかるなー」
「ん……」
「でもね、なんだかんだで私、この町が嫌いになれないんだ」
「そう」
「ところで、その植木鉢は何が芽吹いているの?」
「えっ」

俺は慌ててアルラウネの脇の植木鉢に視線をやった。すると、なんともう何年も音沙汰のなかった土の表面に、ぷっくりとした芽が出ていたのだ。

「あ、これは、その――」

俺がまごついていると、宮原は「そういえば」と話題を変えてくれた。

「もう行ったの? その……実家には」
「いや、これから」
「そう。何年も経ってるからね、町としてもそのままにはできないらしくて、売地になってるって、役場の人が言ってた」
「そっか」

宮原が明らかに気を遣って言葉を選んでくれていることが、やけに沁みた。俺はブレンドを飲み終えると、礼を述べて喫茶店を後にした。

商店街を抜けると、町はますます閑散とした表情を見せた。空き家を何軒も目にしたし、錆朽ちた看板を何枚も見かけた。その並びに、ぽかんと空き地が出現した。中央には「売地」の文字。

俺は、堪えきれずに膝から崩れ落ちた。アルラウネはそんな俺の様子に、しかし動揺することもなく、むしろ静謐な雰囲気さえ纏って話しはじめた。

「――言葉より先に、花はそこに咲いていた。明彦、貴方は現実から逃避することで、辛うじて存在を許されている。けれど、それは私の望みではないのです。私の願いは、貴方が再び現実に足をつけて生きてくれること。だから、私は貴方に声を聴かせなければならない」
「何を、言って……」
「貴方が失ったのは、貴方自身」

アルラウネが差し出した植木鉢には、いつの間にか青々とした葉が生い茂っていた。

「引き抜かれる時に悲鳴を上げる、それがアルラウネ。その叫びを耳にした者は発狂してしまう」

アルラウネは、俺の目の前に植木鉢を差し出した。

「では、既に狂っている者が、私の叫びを聞いたら?」
「……え?」
「明彦。貴方の母親は、何故死んだの」
「それは」

問われて、俺は絶句した。わからない。……わからないのだ。父を早くに亡くし、母に育てられた。けれども、その母の死因が、どうしても思い出せない。俺は高校を卒業後、東京にある大学の文学部へ進学した。作家になるのが夢だった。しかし、どうしても目標に手が届かず、才能の無さに絶望する日々を送った。やがて、才能を与えてくれなかったと、親に理不尽な恨みを募らせるようになった。アパートに引きこもりがちになり、寝食もいい加減になり、それで、それで、えっと、北海道からわざわざ母親が、心配して訪ねてきて、まるで子どもをあやすような口調で、こう言ったんだ——

「私は貴方が貴方自身を望む以上に、貴方のことを想っているの」

そこから先の記憶がない。そもそも記憶がないことに、たった今気づいた。いや、気づいてしまった。

見れば、植木鉢では赤黒い花弁が、生ぬるい春先の風に揺れている。その色彩は、あの日撒き散らしたものを想起させた。つまり、そういうことなのだ。いや、そうなのか? いや違う。違わない。なんなんだ、なんなんだよ。アルラウネ、お前は俺を、裁きにでも来たのか。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな、

「ふざけるなぁぁぁ!!」

俺は一片の躊躇いもなく、植木鉢の花を力任せに引き抜いた。土にまみれて姿を現したのは、人間の形をしたおぞましい形の根。それが視界に入ってくるなり、アルラウネが俺の首元に掴みかかり、この世のものとは思えない、あまりにも透き通った悲鳴を上げた。

——バラバラになっていた認識のパズルが、するすると整頓されていく。固く目を閉じ、次にまぶたを開いたとき、そこにアルラウネの姿はなかった。

言葉より先に、花は此処に咲いていた。俺はこれから、この無様な現実に、強烈な罪悪感を携え生きていかなければならない。それが何よりの罰なのだろう。

砕け散った植木鉢の破片を拾って、俺はただ咽び泣くしかなかった。