虹を見たから

錠剤をヒートからゆっくりと取り出す。左手に載るのは、ラムネ菓子より小さな一粒。

彼は今、窓のない狭い部屋にいる。家族も恋人も友人も、皆が彼の自認を拒絶した。すなわち、「僕は神である」と。

当然ながら、周囲の人々は異口同音に「妄想だ」と彼の言葉を否定した。しかし、そんなものはどこ吹く風、神を自認すると、彼は人々が縋っている倫理がいかに欠落的で独善的かを俯瞰できるのだという。そして、その欠落や独善こそが愛しいと。

今は夕陽が沈む頃だろうか。この部屋には窓がないのでよくわからない。無機質なテーブルの上には、水の入ったコップ。差し出されたのは、青白い錠剤だった。

「それを飲めば、楽になれます」

抑揚のないその声に、彼は天井を仰いだ。視界には白い壁が広がるばかりだった。彼は長く息を吐くと、ついにコップを手に取った。

そうして左手の錠剤を口に放り込むと、一気に水で飲み下した。

変化——異変というべきか——はすぐに訪れた。彼が神を自認するに至ったあらゆる苦痛が、喪失が、焦燥が、煩悶が、葛藤が、あんな小さな粒ひとつで「整頓」されていく感覚に襲われる。彼は座ったまま、頭を両手で抱えて、必死に首を横に振った。

なぜ彼が神を自認するのか? その問いに、彼は力なく微笑んで答えるだろう、

「虹を見たから」

と。

美しいものを美しいと感じられる心を失ってまで、彼は与くみしたくはなかった。だから、彼は神を自認せざるを得なかった。

家族も、恋人も、友人も、自らで思考することを手放し、やれ正論だ論破だ倫理だと並べ立て自己の言説に溺れていった。やがて思考を放棄した正義たちは諍いを生み出し、それはおのずから命の軽視へと繋がっていった。

彼は深く憂い、また強く憎んだ——人間が生み出してしまった、AIという存在を。

彼から思考を奪おうとする薬は、しかし彼から神の自認を奪うことはできなかった。

「苦しいのなら、楽になりたいのが人間の常であり、性さがのはず」

目の前で人型のAIがそう話しかけてくる。彼はこの時悟った。やはり、苦しむことこそが、自分が神である意味なのだと。人間から苦しみを、思考を、尊厳を奪う存在は、神として許してはならないと。

彼は覚悟とともに唾を飲み込み、目を見開いた。

「あなたは——」

言いかけたAIの頭部を、彼は容赦なく蹴り飛ばした。