ある時、きみは僕の前でシャツを脱ぐのをひどく嫌がった。気分じゃないのかと問うたら、そうではないと蚊の鳴くような声で答える。じゃあどうして、と更にきくことはしなかった。きみの目が、ひどく潤んでいたから。
僕は宮廷作曲家の端くれとして、この町の隅にパートナーのロイと暮らしている。ロイは、両親を早くに亡くしてのち、町の花屋に雇われて、花売りの仕事をしている。花売りは女性の仕事という人々のイメージが強いかもしれないが、花屋の主人であるバーバラ曰く、
「あたしなんかより、可憐さではロイが圧勝よ。適材適所ってやつ」
とのことらしい。バーバラは、僕とロイの関係をよく知っている。その上で、ロイに職を与えてくれたのだった。
ある時、成人を迎えるローズ王女に捧げるピアノ曲を作れという、王の命令の下請けが僕に来た。宮廷演奏家、モルクスからであった。僕に選択権はない。それから毎晩、僕はほとんど寝食を忘れて楽譜を書き続けた。ロイは心配してくれたが、僕たちがこの貧しい生活から抜け出すためのまたとない機会になるかもしれない、と思い、僕は必死だった。
案の定、僕は体調を崩してしまった。高熱に浮かされ、思うように作曲ができなくなった。額にのせる氷が底をついたので、ロイが町まで買いに行くと言った。そばにいてくれ、と頼んだが、ロイははにかんで出かけていった。
その夜、なかなかロイは帰ってこなかった。熱も手伝って、僕はなかなか眠ることが叶わなかった。作曲の締切は明日だ。早く熱を下げなければ。楽譜に向かわなければ。いやしかし、ロイは一体どうしたんだ?
嫌な予感ほどよく当たる。僕は居ても立っても居られなくなって、身支度もそこそこに町へと飛び出した。氷屋はとうに閉まっているから、恐らくロイはバーバラの店まで清潔な水を分けてもらいに行ったに違いない。
夜風が花の匂いを運ぶ。しかしそこに、かすかに血のそれを感じ取り、僕の鼓動は跳ね上がった。バーバラの店の看板が無惨な姿で転がっている。
——何があった?
僕の視界に飛び込んできたのは、踏みにじられ折れた花々、店の隅で泣きながらうずくまるバーバラ、そしてぼろぼろの姿のロイだった。
僕は悲鳴にも近い声をあげて、駆け寄った。
「ロイ!」
「……だめだよ、ちゃんと休んでなきゃ」
ロイは力なく笑った。バーバラが、
「ごめんよ……あたしのせいなんだ」
顔をぐしゃぐしゃにして言った。聞けば、王宮から遣いの者達が突然現れ、一週間後の王女の誕生日までに紅い薔薇の花を千本準備しろと迫ってきた。バーバラが無理だと突っぱねると、激昂して店内を破壊し始めた。そこへ、水を求めてやってきたロイが制止に入ろうとして、意識を失うまで殴られ続けたとのことだった。
「ロイ、すまない。僕にもっと音楽の才能があれば、きみをこんな目に遭わせずに済んだ」
「違うよ。誰も悪くないんだ」
微笑むきみは、まるで天使の……いや女神のようだと思った。
無理をおして走ったことが災いし、翌日になっても僕の熱は下がることはなかった。それでも、曲は仕上げなければならない。僕はふらふらになりながら、楽譜に食らいついていた。この日のうちに曲が完成しなければ、モルクスが練習をする時間を確保できないためだ。
怪我を負ったロイを、町医者は無償で診てくれた。それどころか、僕が熱を出していると知って、薬まで調合してくれた。帰ってきたロイは思ったより元気そうで、すぐに湯を沸かして受け取ってきた薬を溶かし、僕に飲ませてくれた。
少しずつ、意識がはっきりしてくるのがわかった。そこではじめて、自分が譜面に記していたのが、ポリリズムに満ちた楽曲であることに気づいた。つまり、複数の異なるリズムや拍子が同時進行しているのだ、それもかなりの速さで。
しかし、今更書き直す余裕もない。しかし、果たしてこの曲をモルクスに弾くことができるだろうか。
僕は重い足取りでモルクスを訪ねた。譜面を一瞥した彼は、
「つまらない」
と吐き捨てた。数枚の譜面を扇子のようにひらひらさせながら、不機嫌そうにこう告げた。
「もう時間がない。この曲は、お前が弾け」
「えっ」
「ただし、この王宮内のピアノは一切使わせない。自前で用意しろ。できるものならな」
もしかしなくても、これはモルクスの手に余る曲だということだろう。僕は打ちのめされて帰宅した。
ロイが、具の少ないシチューを作って待っていてくれた。僕の表情が晴れないのを見たロイが、努めて明るく振舞ってくれているのが、この時の僕には余計に辛かった。
僕は事情を率直に話した。この家の中の何を売っても、到底ピアノなど手に入らない。もしかしたら僕は、王女の成人記念日を冒涜した罪で処刑されるかもしれない、と。
「大丈夫だよ」
ロイは微笑んだ。
「僕、音楽の女神に毎晩祈ってるんだ。だから、きっと大丈夫」
僕は力なく頷き、ため息をついた。
それから数日が過ぎた。王女の誕生日を前日に控え、王宮内の円卓には侍従長とモルクス、そして僕が座っていた。侍従長は僕の書いた楽譜を(よくわかりもしないのに)しげしげと眺め、
「素晴らしい曲だ。ローズ王女のご成人を祝うに相応しい」
などと言った。
「して、モルクス。準備の程は滞りなく進んでおろうな」
「侍従長。それが、明日私は演奏致しません」
「なんだって?」
「こちらの作曲家が、どうしても自分に弾かせろと、私に迫ってきたのです。しかも、ピアノは自分で用意したものしか弾かない、と」
——え?
「フン、そうか。図々しい、たかがお抱え作曲家の分際で」
「ちょっと待ってください——」
「ご自慢のピアノで、一音でも間違えてみろ。その浅ましい首は、宙に舞うことになるぞ。モルクス、明日はこやつの演奏を、しかと監視せよ」
「御意」
薄笑いするモルクスの表情が、いやに網膜に居残った。
その日の夜、僕はどうしても眠れなくて、窓辺で頬杖をついていた。
「眠れないの?」
背後から、ロイが声をかけてきた。
「明日は大切な日でしょう。早く眠らなきゃ」
「……わかってる」
「ピアノのこと?」
「ああ……もうどうしようもない。ロイ、本当にすまない。最後まできみを幸せにすることができなかった」
「そんなことない。僕は……」
ロイがおもむろに、寝巻きを脱いで上半身を露わにした。現れた白い肌は、まだ傷痕が生々しかった。しかし、それ以上に僕が瞠目したのは、ロイの背中がピアノの鍵盤になっていたことだった。適度に湾曲したその背中は、間違いなくピアノそのものだった。
「毎晩お祈りしていて、音楽の女神が、ついに僕の願いを聞き届けてくれたんだ」
ロイははっきりとした口調でそう言った。やがて混乱する僕の手を取って、
「……僕を、弾けばいい」
とはっきり告げた。
ローズ王女の成人誕生祭は、それは賑々しく執り行われた。豪勢な料理に栄華を極めた酒の数々、ローズ王女に首を垂れにくる人、人、また人。
僕はそんな光景を半ば睨みつけるように眺めていた。やがて宴もたけなわ、王からのプレゼントとしてピアノ曲が贈られる段になって、僕は——いや僕らは玉座の前に跪かされた。
「ローズ王女、皆々様。とっておきのプレゼントを、只今より披露いたします!」
モルクスの白々しい言葉も、僕らの耳にはほとんど入らない。集まった貴族の聴衆は、好奇の目を僕たちに向けている。ロイが上半身を露出し、僕の前に静かに横たわると、場内が一斉にざわついた。そんな雑音も最早、僕たちを止める理由にはならなかった。
「ロイ。奏くぞ」
「ああ。僕のピアノで、思うままにきみの怒りを歌え。これは、きみにしかできないことなんだ」
王女が気怠げに見下ろす中、僕はロイの背中に指を置いた。まず黒鍵を弾くと、これまで弾いてきたどんなピアノよりも美しい音が響いた。
それと同時に、僕は気づいてしまった。この音色は、ロイの魂を削って奏でられているのだと。こんなポリリズムだらけの楽曲を弾いてしまったら、ロイの魂は砕けて消えてしまうだろうと。
「手を止めるな」
ロイが呻くようにして言う。決死の覚悟で爪弾かれている彼の背中から奏でられる音色に、聴衆はもちろん王女も、吸い込まれるようにして耳を傾けている。
僕は演奏を止めることができなかった。特に和音を奏でるとき、ロイは微かな悲鳴をあげた。それでも、ロイは魂を差し出し続けた。その美しい音色は、聴く者すべてを魅了した。もちろん、王女も例外ではなかった。
曲を弾き終えると、僕の腕の中でロイは力なく微笑んだ。
「素晴らしい。おぬしら、名を名乗れ。褒美を授けようぞ」
ローズ王女がそう告げると、会場内はいっそうの盛り上がりをみせた。
拍手喝采のなか、僕たちはひたすらに静寂を待った。この滑稽な饗宴や、貧しさがすべて悪夢であるように願った。願えば願うほど、静寂は遠く感じられた。それはまるで、僕とロイとの永遠の距離のようで、堪らなくなって僕は、ロイを抱き起して口付けた。
すると、僕たち二人を取り残して、景色が一変した。そこは見たことのない、しかしどこか懐かしい感覚になる、広大な草原だった。
僕たちはふたりきりで指を絡めて横たわり、目を閉じた。どこからか、軽やかな風が遊びにきて、僕らの頬を撫でていく。星々が徐々に顔を出し、静かに夜が始まろうとしている。優しい闇が、僕らをこれから包んでくれるのだ。
ああ、ロイ、きみこそが、真のミューズだったんだ。
こうしてずっと一緒にいられるのなら、僕は、僕たちは、名声も財宝の類も、温かい寝床でさえももう、要らないのです。