プロローグ ある日の風景

彼はリビングで丁寧な手つきでマフラーを編んでいる。毛糸と毛糸とを編み針で絡ませながら、私に明日の出来事を語ってくれる。にこりと微笑んだ彼の、「あした、ばいばいだね」

などといってみせるその姿は、決して狂人の物まねではない。

彼はとうに狂っている。

正確に表現すれば、彼は正常の範疇からの逸脱を、望まずして体験した存在だ。

その昔「その瞬間」、彼の脳裏をそれはおぞましく美しい炎の光景が支配したという。

けれども、私はそれ以上のことは問わない。一体なぜここでマフラーを編んでいるのか。なぜ笑顔で「ばいばい」を予言するのか。

唯一変わらないのは、私が彼を愛しているということと、これからもずっと愛していくということだ。

指輪をつけた私の左の薬指が疼く。

「おやつのじかんだ」

彼がつぶやいたので時計を見ると、ちょうど夜の九時をさしていた。いつだって逆回転で、鏡の向こうに居場所がある。それが彼にはちょうどいいらしい。

 

私はきみを愛している。

それ以上の言葉は必要だろうか。

 

赤く猛る炎が優しかった時間と白い空間を飲み込み、それよりも深い紅の雫を湛えた銀色の刃を握ったままの彼に、しかし復讐を達成した感慨などは微塵もなく、燃え朽ちていくその家屋をじっと見つめたまま、彼は静かに涙を流していた。

私は、それでも問わない。それが何のため、誰のための凶行であったかを。彼が、なぜその瞬間を迎えるに至ったのかを。いったい、何が悲しくて私の前で今、編み物に興じているのかを。

 

私は、彼を愛している。その厳然たる事実が、私の涙腺から頬を伝う。

 

そういうわけで、私は……私たちは、しあわせなのです。

 

これは、ときどき泣き虫になってしまう彼女と、ときどき派手に壊れてしまう彼の、穏やかな生活の風景画。

(いつかの夏の日) へつづく