「美奈子ちゃん、そろそろ帰っていいよ。このところ残業続きでしょう」
美奈子にそう声をかけたのは、社長の小瀬戸恵一という壮年の男性だ。社長といっても小瀬戸の経営するのは、本の街・神保町の街はずれの一角にある小さな出版社である。
ここは自宅も兼ねており、副社長兼経理を務める小瀬戸の妻の芳子が、平屋建ての最奥にある台所で夕飯の支度をしている。今日の献立は、カボチャサラダとイワシの煮物だ。芳子も美奈子に声をかけた。
「そうね、あまり遅くなると電車のラッシュも激しくなるし。そうだ、もし負担じゃなかったら料理、少し持っていってくれないかな?」
すると、初稿ゲラに赤いペンで校正作業を加えていた美奈子が、ぱぁっと明るい表情で顔を上げた。
「やった! 芳子さんの料理、ほんと美味しいから」
イワシの煮物には生姜が欠かせない。臭みを取り、香味を加えるためだ。芳子は「良かった」とほほ笑むと、生姜を針状に刻み始めた。
「ごめんね、この作家先生、とてもいい文章を書くんだけど締切破り常習犯だから」
小瀬戸がそう謝るが、美奈子はいいえ、と首を横に振った。
「本当に、繊細で優しい文章だと思います。それに赤を入れるなんて畏れ多い気もしますが、何より世界で初めてこれを読めるなんて、私はしあわせものです」
「そう言ってくれると助かるよ」
神保町から都営新宿線で新宿まで行き、京王線の特急列車で終点まで乗る。そこから十数分歩けば美奈子の暮らす賃貸マンションにたどり着く。
自宅の扉を開けようとして、美奈子はハッとした。鍵がかかっていなかったのだ。
「ただいま」
美奈子がリビングに入ると案の定、彼はフローリングに寝転がりチラシ裏面にクレヨンで絵を描いていた。美奈子に気づくと、弾けんばかりの笑顔で、彼は美奈子に飛びついた。
「ねぇ、みてみて!」
彼が見せてきたのは黄色い体に黒い瞳をしたネズミのようなイラストだった。
「ピカチュウ?」
「違うよ、ピチューだよ」
「そっか」
美奈子は微笑む。それを見た彼もまた、嬉しそうに笑う。美奈子が頭を撫でてあげると、彼は落ち着いた表情で目を閉じた。
美奈子は彼の描いたピチューとやらに視線を落とす。絵のタッチは五歳児のそれで、改めて美奈子は彼に対する愛しさを募らせるのだった。
「ただいま」
もう一度美奈子がそう彼に告げると、彼女の腕の中で彼はうっすらと目を開いた。
「……おかえり」
先ほどまでと打って変わり落ち着いた口調で、青年――裕明が返すと、腕を伸ばしてそのまま美奈子にキスをせがんだ。
「ご飯、食べたらね。芳子さんがおかずを分けてくれたの」
「うん」
これが、二人にとっての日常なのだ。