(三)
「えーっと、カタハタさん」
「高畑です」
「そう。別にどっちでもいいんだけど、俺の原稿、来週以降になるから」
「え!?」
「ん、なんか文句ある?」
「……いえ」
売れに売れている作家の新規連載をもぎとったのはいいけれど、毎月毎月、原稿催促という名のご機嫌取り。今日は小瀬戸に言われて神楽坂の龝吉堂のまんじゅうを携えていった。それでもこの結果、このありさまだ。
神保町までの帰途、美奈子は疲労感から息を長く吐き出した。
締切を全然守ってくれない大人気作家先生は、とんだ気分屋だ。美奈子はこういうとき、素直にがっかりする。
それでも、こんな結果を会社に持ち帰ったとしても、小瀬戸や芳子が怒ったり嫌味をぶつけたりすることが決してないこともよく知っている美奈子だったから、余計に申し訳なくなるのだった。
美奈子は六季社に勤めはじめて二年になる。高校中退、つまり中卒という学歴は不問で、美奈子の文学への造詣の深さにほれ込んだ小瀬戸が、よく面倒を見てくれている。美奈子は六季社で、営業・編集・校正を担当している。つまり、経理など金銭に係る作業以外の一切を背負っているのだ。
美奈子が意気消沈して事務所のドアを開けると、応接スペースに淹れたての緑茶と和菓子を用意して、芳子が待っていてくれた。
「おかえり。龝吉堂はおまんじゅうも美味しいけど、今時期なら水ようかんや登り鮎が逸品なのよ」
思わず芳子に駆け寄って「ごめんなさい」を連呼する美奈子。そんな彼女の頭を芳子は優しく撫ぜる。
「さ、手を洗っておいで。一息も、二息も入れましょう」
芳子はまるで母親のように美奈子に微笑みかけた。美奈子は一度大きく頷き、「ありがとうございます」と笑顔を取り戻した。
「そうそう。美奈子ちゃんには笑顔のほうが似合うよ」
印刷所との電話を終えた小瀬戸がそういうと、「あ、でも笑顔は芳子さんには敵わないけどね」と付け加えた。それを耳にした芳子は耳たぶまで真っ赤にして、「もう」とまんざらでもない表情である。
いいな、と美奈子は心から思う。自分も、裕明といつまでもこんな風に仲良くいられたら、と。
「それでさ、美奈子ちゃん」
「はい」
龝吉堂の水ようかんは、さすが小瀬戸が認めるだけあって絶妙な甘さだ。芳子が仕入れた知覧茶との相性も抜群で、つまようじの手が止まらない。
「『ツマビク』の一部が落ちるでしょう」
ツマビクとは、六季社が季刊で刊行している文芸誌の名称である。美奈子が取り損ねた人気作家のプチエッセイコーナーは、広告などで埋め草をするしか手はないと、美奈子は考えていた。しかし、小瀬戸は焦った様子を見せないどころか、こんな提案をしてきた。
「美奈子ちゃん、書いてみない?」
「えっ」
「ほんの六百字程度だから、そんなに気張らなくていいから」
「でも、何を書けばいいんですか」
「気張らなくていいし、気取らなくていい。例えば」
小瀬戸は優しいまなざしを美奈子に向けた。
「美奈子ちゃんと裕明くんの、なんてことない日常風景を日記風に書き留めるとか、どう?」
美奈子はしばし思案した。しかしながら、自分の力不足で原稿に穴をあけたことには変わりないので、実質自分には選択肢などないこともわかってはいた。
「あの、拙いとは思いますが」
「もちろん構わないよ。洗練されたものだけがいいものだとは限らないから」
美奈子は左手に登り鮎をしっかりと持ったまま、こうべを垂れた。
「ありがとうございます」