(一)
解離性同一性障害の状態像は、その奇異さばかりが取り沙汰されがちである。他の医師や看護師らは、少年の――彼が殺害された江口医師の息子という点を抜きにしても――担当を受けもつのをひどく敬遠した。
彼はいつもひとりで個室ベッドの部屋にこもり、笑ったり泣いたり沈黙したり、また紙とペンを与えれば白い面にびっしりと「たすけて」と書いたり、数百種類いるというポケモンの名前をすべて暗唱したりしていた。その姿は確かに「奇妙」ではあったが、それ以上に「孤独」であった。
そんな少年に寄り添った数少ない医療者が木内と、当時交際関係にあった岸井であった。
「お父さんもお母さんも、元気そうでよかったね」
帰宅後、美奈子はパソコンに向かいながら原稿の推敲にとりかかっていた。裕明はたまった洗濯物を干しながら、微笑んで首肯する。真夏へと駆けてゆく季節が、夕方を過ぎてもまだ太陽を西の空にとどめさせていた。
美奈子は作業机に向かい「むー」と頭をかく。原稿はおおかた完成しているのだが、なんとなくしっくりと納得がいかないのだ。「てにをは」がいかに大事かは、編集者という仕事を通じて知っていたつもりだったが、それ以上にいざ自分の文責が雑誌に載るとなると、味わったことのないプレッシャーを感じているのも事実だった。
「だめだ、つみそう」
焦りのにじんだ美奈子の口調に、洗濯物干しを終えた裕明がこういった。
「紅茶でも淹れようか」
その言葉に、美奈子の表情がひまわりの花が開くように明るくなった。
「アイスで、といいたいくらい暑いけど、おなか冷えるからホットのアールグレイでお願いします」
裕明は黙ってうなずき、ダイニングとキッチンを兼ねた空間に置かれた木製の戸棚から茶葉を取り出した。
ほどなくして二人の食卓テーブルには、あつあつのアールグレイが入ったマグカップが置かれた。推敲の手を止め、いったん机を離れた美奈子は紅茶を一口飲んで、思わず感嘆の声をあげた。
「裕明、また腕を上げたね」
「まあね。学ぶ、は『真似』が語源らしいから。少し前にね、占いの依頼者におごってもらったアールグレイが、すごく美味しかったんだ」
「……ふーん」
とたんに、少し不機嫌になる美奈子。それを見逃す裕明ではない。
「店名、なんだったっけな。香りも濃さも絶妙でさ。内装もカップもおしゃれだったんだよね」
「そう」
「そうだ、高田馬場の『カフェ・ラ・クレール』だった。いい店だったなあ」
「そう」
美奈子はご機嫌ナナメでマグカップをテーブルに置いた。
「そりゃ、よござんしたね」
「うん。よかったよ。美奈子も今度一緒に行こうよ」
「やだ」
完全に拗ねた美奈子に、裕明は思わずふきだして笑った。
「かわいいね、美奈子」
「全然嬉しくない」
美奈子はティースプーンでフレッシュミルクをひとすくいして、ずっとぐるぐるかき混ぜていた。
「いいんだもん。その『ラ・ナントカ』に行って、どうぞご自由に美味しい紅茶を飲んでくればいいじゃん」
「美奈子、落ち着いて」
「どんな素敵な御方とご一緒したかは知りませんけど、『美味しい』っていう言葉は、私の淹れた一杯を飲んでから使っていただきたい」
美奈子は鼻息荒く、すっくと立ちあがりキッチンへ向かったかと思いきや、やかんでお湯を沸かしだした。
「新鮮な水道水で必ずぐらぐら沸騰した湯を注ぎましょう。湯の対流で茶葉がポットのなかでよく動き、おいしい紅茶をいれることができます」
わざとらしく丁寧な口調でティーサーバーとティーコージをあやつり、手際良く準備を進める美奈子。そんな彼女の様子を、裕明は微笑みながら眺めている。
茶葉に湯が注がれて砂時計の砂が落ちきった二分後のことだ。
「さあ、飲みたまえ」
目の前に湯気を立てたおそろいのマグカップが並ぶ。ゆったりとした動作で、彼は紅茶を口に運んだ。
「すごく美味しいよ」
「お世辞はいらない」
「お世辞じゃないって。ラ・クレールよりずっと美味しい」
「あたりまえ! 相手を想って淹れる一杯より美味しいお茶なんて、この世に存在しないんだよ」
「そうだね」
裕明に手招かれて、美奈子は、照れながら頬を彼に近づけた。もちろん、お礼のキスだ。
「わかりやすいよね、美奈子は」
「それ、褒めてる?」
「うん」
「じゃあ、ありがとう」
テーブルの上にはマグカップが4つ。二人はそれぞれ好きなマグカップに口をつける。美奈子は自分の淹れた紅茶を飲んだが、我ながら会心の出来だと感じた。
「それで、どんな美人さんだったの、依頼主は」
「気にしてるの?」
「それはもう」
裕明は笑いながら左手をひらひらとさせた。
「五十歳過ぎたおじさんだよ」
「へ?」
「かなりの額もらえたんだ。今度、通帳に記帳しておくよ」
「わ、それは吉報!」
文字通り現金な美奈子は、一気に機嫌を真っすぐに戻して笑顔になった。しかしながら、そんな美奈子とは反対に裕明は真剣な表情となる。ゆっくりと美奈子に言い聞かせるように伝えた。
「あのね、落ち着いてきいてほしいんだけど、実は別の依頼があってね」
「おー売れっ子じゃんか」
美奈子の茶化しに、それでも裕明は神妙な表情を崩さない。
「それが、かなり厄介なんだ」
「厄介?」
「もしかしたら、また『落ちる』かもしれない」
「……そっか」
美奈子はティースプーンでティーハニーを紅茶に混ぜ入れ、それがゆらゆらと紅茶に溶けていくのを見届けてから、小さく深呼吸した。
「大丈夫だよ。落っこちてもまた、戻ってくればいいじゃない」
「信じてくれるの?」
「もちろん」
美奈子の破顔は、初めて裕明に心を開かせた時のそれと、少しも変わっていない。「かわいい」という形容詞は、まるで彼女の笑顔のためにあるようだ。
裕明は美奈子の左手を自分の両手で強く握りしめた。
「美奈子」
裕明は自分の決意を伝えようと、かたく目を閉じた。
「戻ってくるから、必ず。だから、待っててね」
美奈子は、彼の想いを確かに受け取った。
「……うん。ずっとずっと、待ってるよ」
なんてことない夕方が、静かに過ぎていく。二人の時間も、穏やかに過ぎていく。心地よいベルガモットが部屋を優しく支配している。もしかしたらこれは、しあわせの香りなのかもしれない。