第五話 決意と覚悟

そのあと二人は眠りについた。美奈子の頑固な不眠症は、裕明の腕の中でときどきその手を緩めてくれる。ぬくもりに包まれて、昼過ぎまで眠ってしまった。

先に彼が目を覚ましていたようで、美奈子がベッドから起き上がると物憂げな表情の裕明が窓辺で頬杖をついて流れる雲を眺めていた。

「ねぇ、美奈子」
「うん?」
「僕は、一生懸命にきみを愛せているだろうか」

唐突な裕明の質問に、しかし美奈子は即答した。

「ちゃんと伝わってるよ」
「そっか」

最近ではクマゼミも東京でみかけるようになった。シャワーの流水音のような鳴き声が、二人の耳に流れ込んでくる。

「そっか」

裕明はもう一度そういうと、「麦茶、飲もうか」とキッチンへと向かった。

美奈子にはわかっていた。見守ることしか、見送ることしか、自分はできないと。

この土日は、静かな週末になりそうだ。

美奈子は裕明の愛用ギターの真ん中あたりのフレットにそっと触れてから、彼の後を追うようにキッチンに向かった。

「決めた。スフレケーキを焼くよ」
「ん?」
「さっききみが見てたあの雲みたいな、ふわふわもこもこのやつを作ってあげる」

美奈子の笑顔に、思わず口元のほころぶ裕明。こんな穏やかな休日が、二人にはどこまでも優しく感じられた。


日曜日には二人とも同じくらいの時間に目を覚まして、前日に焼いたスフレケーキと冷やしておいたトマトをスライスしたものにアイスコーヒーをつけてブランチにした。

その日は家から出ることなく、私は「ツマビク」の企画書の練り直しや次回以降の原稿のチェックをして過ごした。自宅に仕事を持ち込むことは少しためらわれたが、締切の迫った大事な時期に二日間も休みをもらったせめてものあがないのつもりだった。

彼は読書をしたりタブレットで気ままにネットサーフィンをしたりしていたのだが、ふと気になって「真実追求系ジャーナリスト・ナオキのブログ」にアクセスした。だが、白い画面に「お探しのページは見つかりませんでした」と表示されただけだった。

日が暮れて夕飯まですませたあと、彼はおもむろにリビングでマフラーを編みはじめた。毛糸と毛糸とを編み針で絡ませながら、私に明日の出来事を語ってくれる。

にこりと微笑んだ彼の、「あした、ばいばいだね」などといってみせるその姿は、決して狂人の物まねではない。彼はとうに狂っている。

正確に表現すれば、彼は正常の範疇からの逸脱を、望まずして体験した存在だ。

その昔、「その瞬間」、彼の脳裏をそれはおぞましく美しい炎の光景が支配した。

けれども、私はそれ以上のことは問わない。

一体なぜここでマフラーを編んでいるのか。なぜ笑顔で「ばいばい」を予言するのか。

唯一変わらないのは、私が彼を愛しているということと、これからもずっと愛していくということだ。

指輪をつけた私の左の薬指が疼く。

「おやつのじかんだ」

彼がそうつぶやいたので時計を見ると、ちょうど夜の九時をさしていた。

いつだって逆回転、鏡の向こう。それが彼にはちょうどいいらしい。

「スフレ、最後のひとかけらがあるよ。食べる?」
「いらない」
「そっか」

私はきみを愛している。

その厳然たる事実が、涙腺から頬を伝う。