(四)
寝息を立てている美奈子の横に、人影がさす。現れたその人物は、すやすやと寝ている美奈子の首元に両手で触れると、そのまま白い付け根から上をゆっくりと絞めはじめた。
「ダメなんだ……」
(――僕は、しあわせになんてなっちゃ、いけないんだ。)
彼の頬をとめどなく涙が伝う。美奈子はかすかに呻くだけで反応を示さない。重い不眠症の彼女は睡眠薬と鎮静薬を併用しているために、眠りが深いのだ。このまま彼が手を緩めなければ、確実に彼女は息絶えてしまうだろう。
「……ごめんね……」
怖いんだ、自分がしあわせを感じることが。
このままじゃいけないんだ。
自分はしあわせになんてなれないはずだし、なってはならないのだから。
わかってくれとはいわない。わかってもらえるとも思っていない。
自分は、どこまでも孤独であるべきなのだ。
だからその孤独を、きみに侵害されてはならないのだ。
「美奈子……」
そういえば、まだ一緒にディズニーに行っていない。お金を貯めていつか行こうと約束していたのに。二人の暮らす街にもまだまだ、行ったことのない名店が多いはずだ。きみは「街のカフェを制覇する!」なんて宣言していたっけ。
彼の手に、美奈子の首筋が震えるのが伝わってきた。それは生の搾取に対する、精一杯の反抗だったのだろうか。その感覚に驚いた彼は、一瞬だけ美奈子の首にかけていた力を緩めてしまった。
すると、突如として彼の手を美奈子が信じられないほどの力で掴んで、己の首から強引に引きはがした。
「えっ」
激しく咳きこむ美奈子に、反射的に彼はこう声をかけた。
「大丈夫!?」
自分で首を絞めておきながら「大丈夫」もなにもあったものではない。美奈子は苦しげにのろのろと体を起こした。
「苦しいに決まっているでしょ、佐久間さん」
「いや、僕だよ、裕明」
それを聞いた美奈子は、首を絞められて起こされたばかりとは思えない勢いでぴしゃりといった。
「きみはどうしてそうなんだ」
「『そう』って……?」
「そりゃあ、私に不満はあるかもしれない。家事はあまりしないし、朝は低血圧で機嫌が悪いし、スレンダーじゃないし、わがままだし。あと何かあったら教えてよ」
「不満だなんてそんな。むしろ逆だよ」
訥々と裕明は答える。
「でも僕、やっぱり『あの日』からもう、しあわせになっちゃいけないって――」
そう言い終える前に、美奈子の平手打ちが裕明の頬に炸裂した。驚き何度もまばたきする裕明。
「しあわせになっちゃいけないって、誰が決めるの? じゃあ、そもそも『しあわせ』ってなに? 『なる』ものなの? 『感じる』ものじゃないの?」
美奈子の勢いに、呆然とする裕明。「あの日」とはいうまでもなく、裕明の一家が殺された忌まわしい日のことだ。裕明はなお、あの日の光景に囚われている。
だが、美奈子は思うのだ。いや、信じているのだ。なにがどうあれ、過去がどうあれ、それを理由に未来を否定などできないと。大切なのは、「今とこれから」だと。
「わからずやには、お仕置きだよ」
鬼のような形相で裕明を睨む美奈子。
「ご、ごめ――」
またしても言い終える前に、今度は美奈子のおでこが裕明のおでこにごっつんこ。
「いいですか?」
至近距離で美奈子が告げる。
「私と一緒にいる限り、きみはしあわせじゃなきゃダメなの。他の誰でもなくて、裕明のしあわせは、裕明が自分で決めるの……って、いいたいところだけど」
「えっ」
戸惑う裕明に、美奈子はにやりと笑ってみせた。
「きみの生殺与奪と幸不幸の決定権は、この私にあるんだからね」
はたから聞いたら、とんでもない宣告だ。しかし、裕明の心には深く沁みる、美奈子の不器用なこの優しさに、裕明の目から涙がとめどなくあふれる。
美奈子はそんな裕明の肩を抱いた。
「困ったねえ、きみはもう、私なしではしあわせじゃないんだもん」
「美奈子」
裕明は涙を指でぬぐいながら、
「許してくれるの」
というが、美奈子は首を横にふった。
「ううん、許さないよ。許さないから、絶対に忘れない。忘れないから、想い続けられるんだ」
押し寄せる深い愛しさに導かれるように、裕明は美奈子を抱きしめた。
「ありがとう……ありがとう」
そしてそのまま、抱きしめていたはずの彼の手がぼとりと地面に落下した。
「えっ」
「一緒に逝こう」
そう言い遺し、彼は頭から砂塵となって一気に崩れ落ちた。