最終話 きみはともだち

皐月は鉄道員の帽子をかぶったピカチュウのぬいぐるみを右脇に抱えて中央線に揺られていた。ピカチュウのかわいらしさは、黒いロングワンピース姿の皐月にはどう見ても不釣り合いだ。

しかしその傍で手すりにもたれながら立ち、過ぎゆく風景を睨みつけている彼にはもっとふさわしくないだろう。

(秀一くんなら喜んでくれるのに)

中央線の下りは、始発の東京駅からなら余裕で着席できる。皐月はぬいぐるみの細長い耳をつまむと、(これは、ネズミなのかしら)などとどうでもいいことに思考を馳せて、どうにか憂さに心を支配されまいと努めていた。

一方、彼は時折車両が揺れたときにつり革に手をかけるが、ほとんどは腕組みをして主には空に視線を向けていた。白くわいた雲たちがはしゃぐように流れてゆく。盛夏はすぐそこだ。

少女が5人も惨殺されたものと同じとは思えない空の下、彼は、生きている。その手に3人を手にかけた時の感触を「彼」が思い出しかけたものだから、智行はそれを制するために頭を横に一度だけ揺らした。

高尾行き中央特快の列車が吉祥寺駅に停車しようとして突然、急ブレーキをかけた。鈍く生ぬるい衝撃音がして、車内にいた乗客が一斉に自分のスマートフォンを取り出す。皐月は憂いを湛えた黒い瞳を、ピカチュウのビニール製のまんまるい目玉に注ぐしかしなかった。

ほどなくして、彼と皐月の乗る列車が人身事故を起こしたとのアナウンスが流れた。

「なお、運転再開見込みは不明です。お急ぎのところお客様には大変ご迷惑をおかけし……」

彼もまた、黙って窓の外から入りかけたホームとその上に居座る入道雲を見ていた。ホームにいる何人かはスマートフォンのカメラアプリを起動させ、何度も事故現場に向けシャッターボタンを押していた。

「吉祥寺でぐもったなう」

「目の前で飛び込まれた件」

「授業遅刻単位オワタ」

「どうせ死ぬなら人様に迷惑かけんな」

「wwwwwww」

SNSに踊り荒れる、「しょせんは他人事」。彼はひどくつまらなそうに、事故現場に群れる黒山の人だかりに蔑みの視線を送ると「ねぇ、皐月さん」と声をかけた。

「人が目の前で死んだのに、なんでみんな楽しそうなんだろうな」
「え?」
「俺は、悲しくてしかたないんだけど」
「……」

皐月は返答に窮した。車内アナウンスでこの車両が吉祥寺駅までひとまず移動することが伝えられると、智行は腕組みして手すりに寄りかかり、皐月に聞こえないよう小さく舌打ちをした。ゆっくりと巨大な鉄の塊が軋みをあげて動きだす。命だったものを轢きながら、命たちをホームへと運んでいく。

スマートフォンに着電があったのは、皐月と智行が電車の復旧までの時間つぶしのために井の頭公園近くの喫茶店でアイスコーヒーをオーダーした直後だった。

「美奈子から?」
「ええ」

皐月が電話に出ると、その向こうから凛とした美奈子の決意の言葉が聞こえてきた。皐月はそれらを丁寧に掬いとるように何度もうなずいた。

「それなら、これから吉祥寺に来られる? 半蔵門線で渋谷まで出て、そこから井の頭線で。うん、大丈夫、こっちは全然。公園通り沿いの『リムウト』って喫茶店にいるから」

電話を切った皐月に、智行は気だるげにアイスコーヒーを一口飲んでから「来るの?」と問うた。皐月がそうだと答えると、智行は肩をすくめた。

「来たところで、『会える』わけじゃないのにな」