最終話 きみはともだち

(二)

美奈子は小瀬戸と芳子に何度も礼を述べ、一路吉祥寺へと向かっていた。小瀬戸は深い事情をただすことはなかったし、芳子はよく冷えた麦茶を小ぶりの水筒に入れて持たせてくれた。

蒸すようなアスファルトをスニーカーで踏みしめると、地球の一部になれた気がして少しだけ気持ちが強くなれるのだ。

中央線は運転を見合わせていたので皐月から教わったルートで吉祥寺に向かうことにした。乗り換えの渋谷駅は、平日の昼間でもたいへんな賑わいで、乗換えに利用するだけでも美奈子を疲弊させた。

それでも、井の頭線に乗ったとたんに客層が赤ちゃん連れの若いママたちや高齢の夫婦が目立つようになり、美奈子は座席に腰をおろすとようやく一息つくことができた。

しかしながら、動悸を治めることはかなわない。それの原因は渋谷の人混みではないからだ。なんとか落ち着こうと、美奈子は目を閉じて列車の揺らぎに身を委ねることとした。


思い出す。私ときみが初めて会ったのも、夏の日だった。奥多摩は蝉時雨がすごかったのだけれど、決して激しくはなくて、やわらかく注ぐ子守唄みたいだった。

きみはあのクリニックの、いちばん奥の部屋に人目を避けるように暮らしていたね。

そうだ、あの日は木内先生が診察をすっぽかしてソフトボール大会に行っちゃったんだっけ。正しくは、私に休診のことを伝え忘れてたんだった。岸井さんったら、準優勝して帰ってきた木内先生にこってりお説教してたな。

準優勝といっても小学校の運動会よろしく要は負けたってことなんだけど、私へのお詫びにって景品の紅茶の茶葉缶をくれたんだった。カレルチャペックの茶葉だったからとても嬉しかったし、岸井さんがそのあと淹れてくれた一杯は最高だった。そうそう、私は岸井さんから美味しい紅茶の淹れかたを教わったんだった。

煮沸してから凍らせた透明な氷の入ったアールグレイ。華やかな香りも、透き通る琥珀色の加減も、私にはまだ再現することができない。

クリニックが休診だったから、きみは油断をしたのかな? 岸井さんが庭のダリアに水やりに出たあと、ベルガモットの香りに誘われるように、誰もいないと思っていたダイニングにきみはひょっこりとやってきた。私と目が合うなりこういったよね。

「……誰?」
「え?」

それはこちらのセリフです、と思わず言い返しかけたよ。きみは切りそびれているらしい長い前髪をそよ風に揺らしながら、その隙間から怯えた目を私に向けていたよね。

「もしかして、きみもここで暮らすの?」
「え、なんですかそれ」
「……違うんだ」
「違います」

私がそう答えたら、きみはその場から逃げ出したじゃない。だから私も、反射的に追いかけてしまった。走り去ろうとするきみを追いかけて初めて、クリニックの奥に小さな部屋があることを知った。

きみは、長いことそこで暮らしていたんだね。儚く美しい薔薇からすべてのとげを抜き去ってくれるような、優しい人たちだけに守られて。

私たちの出会い。それは木内先生が大のソフトボール好きじゃなかったら、岸井さんが美味しい紅茶を淹れてくれていなかったら、それにきみが思わず部屋を出ていなかったら、とにかくあらゆる「もしもこうではなかったら」を乗り越えて偶然に訪れた、ある意味ではハプニングだった。そしてそのハプニングのおかげで、私たちは出会うことができたのだから、どう転んでも人生はきっと、「面白い」んだ。