最終話 きみはともだち

電車が終点の吉祥寺駅に着く。時間通りにしかも安全に人々を運ぶ交通機関には、いったいどれだけの人々の汗が流されているのだろう。ホームに降り立った運転士に、美奈子は軽く会釈をした。

改札を抜けるとすぐに、まとわりつくような熱気が美奈子を包んだ。日陰を選んで、芳子がもたせてくれた水筒の麦茶を飲む。

布袋の中に小さな和紙の小袋がついていたのに気づいた。開けてみると中には、塩レモンキャンディが2個入っていた。こういうさりげない気遣いが、今の美奈子の心には深くじんわりと沁みた。

思わず泣きそうになるが、まだ今は気を緩めてはならないと、美奈子は自分の頬を両手で軽く叩き、吉祥寺の街を歩きだした。

腕時計を見ると午後二時を過ぎていた。ちょうどカフェタイムのはじまりなので、スタバなどのコーヒーショップはかなり混雑していた。

皐月から伝え聞いた「リムウト」は公園通り沿いの地下にあった。入口部分の下り階段からクーラーの冷気が伝わってくる。間接照明だけの店内は、外の喧騒から隔絶されたような静謐さに満ちていた。

美奈子が「待ち合わせです」とマスターに告げて、喫茶店の中を見回す。するとステンドグラスでできたランプの設えられた一番奥の席で、皐月が軽く手を振っていた。

「お待たせしました」
「ありがとう、暑かったでしょ」
「はい。あ、でもすぐに場所がわかったから大丈夫です」

美奈子が皐月の隣に着席すると、その正面にいる彼は嬉しそうに東京駅限定ピカチュウのぬいぐるみを美奈子に見せびらかした。

「みて! これ、ずっとほしかったの」

美奈子が頭をなでると秀一は嬉しそうに笑う。美奈子はマスターが置いていった水を一口飲んでから、秀一の顔を真正面から見た。

「秀一くん」
「うん」

美奈子は真剣な表情で秀一を見つめた。じっと見られて、秀一は思わず首をかしげる。

「なあに?」
「なにがあったのか教えてくれるかな」
「ん?」

にこにこ笑う秀一の目に嘘はない。しかし、その無垢さが却って美奈子の焦燥を助長させた。

「私は知りたいの。きみに、裕明に、何があったのか」

しかし秀一が「よくわかんない」というので、美奈子は隣で文庫本を読んでいる皐月に助け舟を求めた。

「皐月さん、お願いです。教えてください」

しかし皐月は首を横にふった。

「それは『本人』からきくべきじゃないかしら」

そういわれた美奈子は、グラスの水を一気に飲み干した。

「ご注文は」

マスターがオーダーを取りにきたので、アイスレモンティーを注文した。それが運ばれてくる間、美奈子は秀一からずっとピカチュウの技について教えられていた。ピチューが進化してピカチュウになること、ピカチュウがさらに進化するとライチュウになるけれどそれはあまり好きではないこと、必殺技に「じゅうまんボルト」があること。

美奈子はそんな秀一の話に辛抱強く耳を傾けていた。皐月はそんな二人の呼吸を邪魔しないよう空気に徹している。

「それでね、おほしさま。ハート。クローバー。なみだ。ねこちゃん!」

突如として、秀一が単語を並べた。

「えっ」

それらはいうまでもなく、八王子連続少女殺害事件の被害者の致命傷でかたどられたモチーフたちである。

「みんなあのこのすきなものだったの。でも、いじめっこたちにとられちゃった」

美奈子は背筋に悪寒が走るのを感じた。

「あのひとは、とりかえしただけ。ねえ、わるいひとをころすのって、わるいことなの?」

皐月が咳払いをしたのは、クーラーの効きすぎのせいだけではない。

美奈子はまさに今、決断を迫られているのだ。すなわち、落ちてしまった彼を許すのか許さないのか、見捨てるか受け入れるか、愛さないのか愛するのか。まさにその分水嶺に、二人は立たされている。

「……あの事件に、また関係したんだね」

膝の上でこぶしを震わせる美奈子に、それでも皐月がフォローをいれることはなかった。しかも、皐月は財布から千円札を三枚取り出してテーブルの上に置き、「これで間にあうと思う」と席を外したのだ。

「待って皐月さん。どこへ行くんですか」
「井の頭公園を散歩でもしてるわ。私がいないほうがいいって、占い師の勘が言ってる」
「そんな」
「美奈子ちゃん」

皐月は美奈子のうるみかけている瞳をまっすぐに見た。

「愛するっていうのはきっと、『なにがあっても赦し受けいれる』ことにとても似ているわ」

黒いワンピースと赤のエナメルハイヒールを着こなした姿が、あっという間に去っていく。美奈子が困り果てて再び彼のほうに向きなおったとき、すでに彼は秀一ではなかった。

「裕明?」
「つまんねえな」

前髪をかきあげるその仕草は、智行の癖である。

「これでも頑張ったんだぜ、ご褒美がほしいくらいだ」
「智行さん。あなた何を知っているの」

智行がステンドグラスの組み合わせでできたランプを指ではじくと、灯がほのかに揺らめいた。

「知っているも何も。俺はいつもはずれくじを引いてきたから、今回も引き受けてやったのさ、汚い部分をな」