(四)
智行から一部始終をきいた美奈子は、思わず智行の手をとった。
「怖かったでしょう。なのに、引き受けてくれてありがとう」
「別に礼を言われるようなことじゃない。ただ、目はつけられたかもな、権力者サイドに」
「上等じゃない」
美奈子がそんなことをいうものだから、智行はニヤリと笑った。
「さすが俺が認めるパートナーなだけある」
「まあね」
美奈子は「リムウト」のメニューを手に取り、自分の頼んだアイスレモンティーの文字を指でなぞった。
「レモンティーのレモンってさ、舐めてもいいのかな」
「そんなの好みだろ」
「そっか」
美奈子はそれで思い出して、かばんをあさって芳子がもたせてくれた塩レモンキャンディをひとつ取り出し、智行に差し出した。
「はい、熱中症対策」
しかし、智行から返事はない。
「智行さん?」
「この世界に滲んでいる悲しみは、すべて私の一部」
今まで聞いたことのない口調でそう述べる人格の唐突な出現に、美奈子はハッとした。
彼の長めのさらさらした前髪が、無風の空間でなぜかふわりと揺れた。その隙間からちらりと視認できる彼の目は、落ちくぼんだ空洞のように虚ろであった。
おそるおそる、美奈子は問いかける。
「あなたは、誰?」
しかし、彼はかすれた声で、ゆっくりとこう零しただけだった。
「私に名前はない。失ったから」
「そう」
重苦しい沈黙が落ちたのと時を同じくして、美奈子のオーダーしたアイスレモンティーが運ばれてきた。大ぶりの氷がからころと楽しげにグラスの中で回転している。
ステンドグラスで出来たランプの灯が彼の表情をほのかに浮かび上がらせていた。
「あ、そうだ」
美奈子は精一杯の強がりとともに唇の端を上げた。
「皐月さんが三千円もくれたから、何か甘いもの頼んじゃおうか?」
「嫌」
「どうして?」
「食べる、という行為は私には恐怖でしかないから」
その言葉で、美奈子にはある予感が生まれた。「私はバニラアイス頼むね」と追加オーダーをして、それからしばらく美奈子は言葉を探していた。すなわち、いま目の前にいる人にかけるべき、最適解を。
やがてアイスティーのグラスが玉のような汗をかいても美奈子とその人物はずっと黙り込んでいた。柱時計の針が三時をさして三回鐘を鳴らし終えたころ、ようやく美奈子が口を開いた。
「バニラアイス、きっとウェハースとチェリーがついてくると思うけど、それはどう?」
「いらない」
その人格は即答した。それで、美奈子の予感は確信に変わった。
「食べ物なんて必要ない。私は否定されるべき存在だから」
そういって、指先を組んでなにかを編むような仕草をする。
「いずれ消える運命なのに、名前なんて意味がないでしょう」
「消えるなんて、そんな悲しいこといわないで」
美奈子の心底悲しそうな表情を見て、彼はハッとした。自分が相手を悲しませていることに気づいてしまったのだ。
彼は少しの間ののちに「……ごめんなさい」と消え入りそうな声で発した。
「謝らなくていいよ」
「でもね、マフラーはあんなことのために編んだんじゃないの。いつか願いが叶って、あの人に渡せるときが来るのを待っていただけなの」
間違いない。いま裕明の肉体を支配しているのは、女性の人格だ。美奈子の確信が外れていなければ、彼女にも間違いなく名前はある。
「私は待っていた。待っていたのに、だめだった」
「彼女」の両目から、どっと涙があふれだした。
「ひどいよね、ひどかったよね、私。本当にごめんなさい」
美奈子は取り乱しかける彼女の手をそっと包んだ。
「あなた、佐久間さんを待っていたんだね」
「私たち、いつも一緒だった。作業療法の時間も自由時間もいつも、ずっと一緒だった。いつも、いつだって一緒だったのに」
たとえそこが、精神科病院の中であったとしても、これは佐久間康之と彼女――有馬雪が出逢い、こころを寄せあった時間と空間だった。それぞれに深く傷ついていた二人はすぐに惹かれあい、お互いの傷をほどきあうごとく愛をはぐくんだ。
「あんなことにマフラーを使うなんて。私、自分を許せない」
「『あんなこと』って?」
「私はあの人を待てずに、自分で編んだマフラーで『約束の樹』から首を吊った」
「えっ」
「ねぇ、病気になったらいけないの? 罰を受けなきゃならないの? 恋の一つも実らせることもできないの? ねえ、私あの人に逢いたい」