最終話 きみはともだち

(五)

それは確かに、二人にとっては優しい時間だった。不自由と抑圧を絵に描いたような場所であっても二人は、その空気に抗するように、不器用ながらも真剣に心を育てあった。

少女——雪は、ちらりと目が合うだけで、顔を赤らめてしまうような純真な少女だった。佐久間もまた、そんな雪の様子に視線のやり場を困らせ、いつも頬を人差し指でぽりぽりとかくのが癖のような純朴な青年だった。

晴れた日には昼食後の服薬時間から夕食前のわずかなに自由の許された隙間に、男性病棟と女性病棟からそれぞれやってきて、中庭へ向かい、二人そろってすずかけの木陰に腰掛けた。多くの言葉を交わさずとも、ゆっくりと移りゆく中庭の季節の草花を一緒に見るだけで、二人は十分に幸せだった。

他の患者たちが散歩をし、ソフトバレーなどのレクリエーションに興じている姿から一線を画すように、いつも二人は隣り合って座っていた。何を話すでもなく、ただ「一緒に」いた。それだけで、お互いの気持ちは満たされていた。

もしも出会う場所が違ったならと、二人は何度も思った。午後5時半になったら鍵を掛けられるような精神科の病棟の中庭ではなく、もしここが、街中の公園だったなら。

この日も佐久間と雪は手も繋げずに逢瀬を終えた。それでも二人を包む風ばかりは優しかった。

それだけでよかった。いや、それだけがよかった。二人の間には確かに、優しい時間が流れていたから。

風向きが変わり、二人の間に不穏な空気が顔を出し始めたのは、夏の始まりの頃だった。

突然、青年の退院が決まったのである。息子の大学への復学を焦った彼の両親が、主治医にむりやり詰め寄るような形で、彼本人になんの相談もなく、退院を決定してしまったのだ。

彼の父親は弁護士で、「これ以上息子を閉じ込めるのなら、法的手段も辞さない」と病院を脅してきのだという。

入院から90日以上が経過しており、彼から算定される診療報酬の点数が激減したことで、病院側もこれ以上彼を入院させておくことはデメリットにしかならないと判断したらしかった。

病院は彼が退院すれば、新規入院患者の受け入れによって高い点数の診療報酬を得ることができるからだ。

そんな身勝手な事情に振り回される形で、二人は引き裂かれた。

追い出されるような形で退院させられた彼は、すがるような思いで担当ナースに一通の手紙を託した。そこに彼は、自分の自宅の住所と携帯電話番号を記していた。約束の一つも、したくてもできなかった、せめてもの罪滅ぼしとして。

泣くのは、絶対に違うんだと、そう強く自分に言い聞かせた。だって次に逢える時は、きっと街中の公園のベンチや、きみの好きなオルゴールのBGMが流れる喫茶店に違いないのだから。

これは、いずれ再び出逢うための「いっときの別れ」にすぎないのだから。佐久間はそう信じて疑わなかった。

ナースからその手紙を渡された彼の主治医――江口医師は、「確認」と称して中身を検閲した。蔑みに満ちた冷たい視線で内容をさっとなぞると、「有馬雪の治療に支障をきたす」と判断し、看護助手にそれをシュレッダーにかけるよう命じた。

そのような事情を全く知らない雪は、その日も晴天であることを病室の窓から確認すると、作業療法でマフラーとあわせて編んでいるリリアンを二重に手首に巻いて、ほんの少し頬を赤らめて中庭に向かった。

いつもなら、中庭と廊下の境目あたりで彼に出逢うことができた。背が高くて、よくジーパンを好んで履いて、紺のスニーカーがよく似合う。トップスはTシャツが多いけれど、時々おかしなプリントのされたデザインを着てきては、私を笑わせてくれる。でも本当はシンプルなポロシャツが好きなことを知っている。今日は、どんなファッションの彼に逢えるだろうか。

しかし、どんなに待っても彼が現れることはなかった。もしかしたら、調子が悪いのだろうかと、どんなに心配をしても彼に何もできない自分が、雪はどこまでももどかしかった。

すずかけの木にしがみつくミンミンゼミの声が雪の鼓膜に打ちつけるように響く。まるで自分の無力さを責められているようだった。他の患者たちも、いつもと違ってひとりぼっちで木陰に座る雪を気にかけている様子だった。

雪はひたすらに待った。その日も、次の日も、またその次の日も、雪は男性病棟のほうにかすかな、でも確かな気持ちを、暑さと孤独に耐えて送り続けた。

雪の目の前に、果てた蝉の遺骸が落ちて転がった。その夏はあまりにも暑すぎた。少女のささやかな祈りなど容易く溶かしてしまうほどに。

拒食症のために骨が露出せんばかりに痩せ細った腕を、雪は空へと伸ばして天を仰ごうとした。見上げたそこには、彼女の腕よりよほどたくましいすずかけの枝が伸びており、ふさふさとした葉が彼女を厳しい陽光から守らんと、悲しげに揺れていた。

何も悟らないはずの蝉達が、その命を燃やすように壮絶に鳴き上げては次々とすずかけの木からぽろりと落ちて、うつし世に別れを告げていた。その光景は、誰にも届かないという意味で、ひたすらに寂しい映画の予告編のようであった。