エピローグ しあわせのかたち

翌朝、美奈子が目を覚ますとリビングの方から香ばしい匂いがした。これは間違いなく淹れたてのマンデリンだ。

寝ぼけ眼をこすると、まぶたが腫れぼったくなっていた。昨日、さんざん泣いたせいだろう。

「美奈子、おはよう」

リビングから裕明の声がする。美奈子は伸びをしてベッドから起きあがり、リビングへ移動した。

「あっ」

テーブルの上には、コーヒーと並んでまんじゅうが置かれている。

「昨日、何も食べてなかったから、うまく眠れなくて、目覚ましにコーヒーでも淹れようと思って。これは龝吉堂の名物」
「やった!」

瞳を輝かせる美奈子に、裕明も嬉しそうな表情を浮かべる。

「でも、おまんじゅうなら緑茶のほうがよかったなあ」
「緑茶はいま切らしてたんだ。今度の週末、まとめて買い物に行こう。ほかにも欲しいものがあるし」
「そうだね、ティシュとか、日用品系を買わなきゃね」

そういって美奈子は朝食代わりのおまんじゅうをあっというまに平らげ、仕上げに淹れたてのコーヒーをあっという間に飲み干した。

「ああもう、美味しい」

ほっぺたに手をあてて、表情がすっかりとろけている美奈子を、嬉しそうに裕明は眺めた。

「美奈子は紅茶派じゃなかったの?」
「美味しいものならなんでもいいの」

裕明は美奈子の髪をくしゃりと撫ぜた。


その週の日曜日の午後、皐月の提案で「プレイ・オブ・ローズ」の店内のギャラリースペースで裕明がアコースティックライブを披露することになった。ここのところ臨時休業続きだったので常連客をもてなしたいとの皐月の意向だった。

カフェに集ったのは常連客だけではない。神保町から小瀬戸夫妻が、奥多摩からは木内と岸井が駆けつけてくれた。

「いよっ、裕明っ」

いかにも昭和の香りのする声援を木内が送ると、カフェの中は笑いに包まれた。

「『明日に架ける橋』『イエスタデイ』『セロリ』、あと何がいいですか?」

裕明がギターをチューニングしながらリクエストを募ると、「オリジナルが聴きたい!」という声があがった。

「じゃあ、美奈子が歌います」

指名されて、顔を真っ赤にする美奈子。だがまんざらでもないようで、いつも着ないようなフリルのついたキャミソールを着て、準備は万端である。

美奈子はぺこりとおじぎすると、集った人々の拍手に包まれて深呼吸をした。

空に虹が掛かるのはきみが泣いたから

雨が降らなきゃ虹は見えないね

見上げなきゃ虹を見ることはできない

虹はお天道様の舌だって

ひねくれた詩人が言ってたっけ

どうでもいいさ

ぜんぶオッケーなんだ

曇らなきゃ雨は降らない

雨が降らなきゃ芽は吹かない

芽吹かなきゃ花は咲かない

たくさんの悲しみの後にはきっと

大きな虹が架かるよ

空に虹がかかるとき

きみが笑ってくれるのさ

空に虹がかかるとき

きみが笑ってくれるのさ

しあわせのかたち。そんなものはどこにもないし、それでいて実はどこにでもある。

二人には、二人だけのかたちがあるのだ。

裕明は別人格と共存して生きる道を選んだ。美奈子は、そんな彼に一生寄り添うことを誓った。それでいいし、それがいいと心からそう思える日がきたこと。それこそが二人にとってのしあわせなのだ。

二人で作った歌を、オーラスにみんなで合唱した。

真っ青な空には消えかけの飛行機雲。地面にはいつ消えるかしれない陽炎。それらと同じくいつかは終わる、しあわせのかたち。だからこそ、私は、私たちは、今この瞬間とこれからを、どこまでも大切にしたいんだ。

隣にきみがいてくれるなら、それ以上なにを望むというのだろう。

そういうわけで、私は……私たちは、しあわせなのです。

夏の太陽が、これからも続くであろう二人のながい道のりを明るく導くかのように、さんさんとひかりを注いでいた。


虹をみよう 高畑美奈子

虹をみたいと思ったときに虹がそこにあったなら、きっと人は虹をみたいと思わなくなる。

誰かに逢いたいと思ったときそこにその人がいつもいたら、わざわざ「逢いたい」なんて思わなくなる。

ほしいときにほしいものが手に入ってしまったら、きっと人はとても大切なものを失う。

それは、ほしいものを慈しみ、大切に想う気持ちだ。

それが失われてしまったら、「ほしいもの」は色あせてその人の中で意味をしおれさせてしまう。

当たり前、という言葉がある。私はこの言葉が苦手だ。

こうして当たり前、ああしてもらって当たり前、そういった考えは「有難い」が語源の「ありがとう」からはとても遠いもののように思う。

見たいと思ったときに虹はそこにはない。逢いたいと思ったときに、きみはそこにいない。

だから私は、いつだってきみに逢いたいのだ。できれば笑顔のきみに逢いたい。渇望が私をうごかす理由になるのなら、寂しさだって私の一部なんだから、ちゃんと愛してあげたい。

虹はせっかく見えても、すぐに姿を消してしまう。やっと出会えても、きみはまたどこかへいってしまう。

けれど、それだからこそ、「今この瞬間」が、私にはどこまでも愛おしい。

きみと一緒に、虹をみたい。雨の日には同じ傘にはいろう。風の日には前髪を預けよう。

やがて嵐がおさまったら、そのときにはきっと隣にいよう。そうして手をつないで、きみと一緒に青空に架かる虹をみよう。

END