季節、という概念が消え去ってどのくらい経っただろう。困ることといえば、その日の気候や温度の振れ幅非常に広いため、着る服に毎日注意を払わなければならないことだ。
かつては気象を予測可能な情報、つまり予報として伝える職業もあったが、今この世界においてそれは不可能だし意味のないことでもあった。
その日の昼、ノイが瑠璃色のくちばしにそれの一部と見紛うほど美しい蒼色の小さな実のようなものをくわえて帰ってきた。
「おかえり」
アオが扇風機の前を陣取ったままノイに声をかけると、ノイは一声鳴いてアオの肩にとまった。
「なんだかんだで、ノイはアオが好きなんだな」
「さあ」
ノイがアオのてのひらにその蒼色をのせる。僕がそれを指先でつまむと、少しだけ弾力はあるがやや乾いていて、触感はまるでレーズンのようだった。
「なんか、それ怖いんだけど」
アオがニコリともせずつぶやく。僕は首を傾げると、それを乳白色のココットに容れてラップをかけた。
「どうするの?」
「水につけて、戻してみよう」
しばらくして、体軀の大きな雄鹿を引きずるように携えたゼロイチが姿を見せたので、僕は
「おかえり」
というがそれに対する返答はない。アオが雄鹿の角を欲しがったので、ゼロイチは相変わらず不機嫌そうな表情で角をもぎり取ると、アオの眼前に放り投げた。無残な姿をさらすそれは、けれどもどこかかつての隆盛をどこか誇りたがっているかのようだった。
「なにに使うの」
「これから考える」
「ふーん」
アオとゼロイチの会話はいつもこうだ。必要最低限のことしか言葉を交わさない。この殺伐さに潤いを与えるのが、「ノーイ」とのんきに鳴くノイであることは間違いない。
「これ、今日の夕飯に使って」
ゼロイチが仕留めた鹿を僕のほうに持ってこようとして、ふと歩を止めた。
「なにをしているの」
「え?」
「それ」
ゼロイチの示したのは、僕が持っていた乳白色のココットだった。ラップの中身に気づいたらしい。
「なにをしているの」
ゼロイチはなぜか語気を強める。突然勢いよく歩み寄ると、強引に僕からココットを奪い取った。
「ゼロイチ、どうしたの」
「あんたたち、やっぱ最低」
「え?」
「私たちをなんだと思ってるの」
「食材」
答えたのはアオだ。ゼロイチの背の白い羽がピクンと反応をみせる。
「食材が食材を調達してきたから、自分は食べられなくて済む」
「アオ、言い過ぎだ」
僕の制止に対し、しかしゼロイチは大きく舌打ちして
「当たってる。その通り。正し過ぎて吐き気がしそう」
と言い捨てた。アオはつまらなそうに鹿の角をもてあそび、その先端にノイをとまらせた。
僕はハッとしてゼロイチに奪われたココットの中を覗き込んだ。水分を吸った蒼の実のようなものは、少しずつかつての姿を取り戻しつつあった。
「まさか……」
僕に走った悪寒を見透かしたかのように、ゼロイチはこちらを全力で睨みつけると、大鹿を片手でまるごと、力いっぱい床に叩きつけた。
「人間は、神の欲した素数。天使は、神のなりそこない。しかも今じゃ人間からしたらただの食材」
「ゼロイチ」
「食材には何も与えられない? 朽ちてまでこんな目に遭うの?」
僕は息を飲んだ。ノイが拾ってきて僕が水を与えたそれは、ゼロイチと同型の「天使」の干からびた眼球だったのだ。
いびつな形で弾力を取り戻した「それ」をゼロイチは少しの躊躇もせずつかむと、窓を乱暴に開けて遠く遠くへと放り投げてしまった。
「せめて、土に還れ……!」
乾ききった音を立てて、鹿の角の先端がアオの手で折られる。僕はとてもゼロイチの表情を確認することなどできなかった。
オルゴールのようなノイの、少し怯えた低めの声だけが、部屋にじんじんと疼くように響いていた。
3 紅茶 へつづく