僕の異変にいち早く気づいたのはアオだった。
「ケムリ、どうしたの。なんだか苦しそう」
拍動がひどく速くなり、僕は激しいめまいを覚えていた。招かれざる客——ミズの姿が歪んで見える。
キボウの消滅。それは、正真正銘の人類の滅亡を意味している。
科学技術の進歩は、生老病死のあらゆる葛藤や苦しみから人々を解放した。
まず人類は「死」を忘れた。死へと向かう老いや病のすべてを消し去ることに成功してしまった。
するとなにが起きたか。人々は惰性のまま生きることを自身らに許し、やがて「より良く生きる」という価値観を失い、欲望のままにこの地球の資源を食い尽くした。
そうして彼らがたどり着いた結論は、「この星を捨てること」。
キボウと名付けられた方舟——宇宙船に乗り込んだ人々は、活路、いや新たな欲求の吐き出し先を別の星に求めたのだ。
もちろん、人類のすべてがそれに賛成していたわけではない。キボウ計画に反対し続けた科学者も少数ではあるが存在した——僕のように。
ミズは僕の憔悴に一定程度の理解を示した。アオは頬杖をつき退屈そうにミズの身の上話を聞いていたようだが、途中で飽きて読書を始めてしまった。
聞くところによれば、ミズはキボウの中で繰り広げられていた果てのない、あられもない、品のない宴席に嫌気がさしたのだという。
「神様ゲーム」と名付けられた命への侮辱を看過できなかったミズは、同乗者たちによって「落伍者」の烙印を捺されてキボウを追放された。
キボウはどこまでも遠くを目指していたらしい。宇宙空間に放り出されたミズは一瞬にして蒸発をしたが、肉体を形成していた細胞の核のひとつが奇跡的に地球に帰還し、成層圏を経ても燃え尽きることなく、この地へ戻ってきたのだという。
そうしてたった一つの細胞から、再び彼女という肉体を取り戻した。進んではならない領域にまで、僕たちの技術は進んでしまったことを、僕は改めて痛感した。
「私は確かに見た。消え去る直前に、キボウがブラックホールに飲まれたのを」
「わかった」
ここでアオが突然席を立った。
「ちょっと待ってて」
そうして、なにがしかが書かれた紙片をミズに渡した。訝しげな表情のミズは、アオの顔を初めてまじまじと見た。あどけなさの残るアオの茶色く透き通る目を視認したミズは、ハッと息を飲んだ。
「あなた、もしかして、人間?」
「ご注文は」
「えっ?」
「何になさいますか」
紙片にはたどたどしい文字で「シチュー」「オムレツ」「唐揚げ」など料理のメニューが書かれている。
「本に書いてあった。こういうときは、手料理を食べるといいって」
僕はたまらなくなってその場にうずくまった。冷や汗がぽとりと床に落ち続ける。
「馬鹿みたい」
そう発したのはゼロイチだ。
「アオ、あんたに料理なんてできるの?」
「シェフは僕じゃない。ケムリに決まってるでしょ」
「なにそれ」
「なにが?」
僕は胸に手をやって鼓動をどうにか抑えながら、アオとゼロイチが無碍に言い争うのを聞き流していた。
少しののち、ようやく僕の鼓動が治まってきた頃である。突如テーブルが強く叩かれたものだから、二人はびっくりしてケンカを止めた。音の主はミズだ。
「……オムレツをいただくわ」
「は」
思わず僕は声を上げた。
「本気ですか」
「本気もなにも。そっちがきいてきたんでしょ」
「どうして」
「お腹がすいたから。それ以外の理由がある?」
「は……」
僕は反射的に顔をくしゃくしゃにして笑った。声を出して笑ってやった。だって、神を自称していたはずの存在が、空腹を訴えているのだから。
キボウという名の絶望の消滅。
それは、人類の本当の終わりと、僕らの新しい日々の幕開けを示した。
すなわち、世界の終わりのそのあとに、おんぼろの小さなキッチンで、僕らはレストランを始めることにした。
決してやってこないお客様のために、いつかの誰かを待ちわびながら。
6 コロッケ へつづく