きみは、何色が好き?

森には、異界へと繋がる門が存在する。そこではどんな豪奢な服も煌びやかな宝石も磨き上げた剣も、まるで意味を持たない。あどけない門番は、辿り着いた者へこう問いかけるだろう。

「きみは、何色が好き?」

その先に在るのは「自由」であり、「混沌」であり、また「解放」だ。真に求める者にのみ、その門は開かれる。

俺は、逃げなければならない。とにかく逃げなければならないのだ。何から? 税金の督促、公共料金の支払い、滞納を続ける家賃……それらで構成される、無彩色の現実から。

最低料金の切符を買い、ひたすら西へ向かった。行けるところまで行きたかった。とにかく逃げなければという焦燥と衝動に突き動かされていたのだ。俺は車両の貫通路付近に息を潜め続けていた。

やがて列車は終点の無人駅へと到着した。どうやら、乗ってきたのは終電らしかった。盛夏に隆盛を迎えた草木が発する青いにおいに、俺は身震いした。

改札口にゲートはなく、切符回収用の木箱が、柱に錆びたワイヤーで括りつけられているだけだった。駅前に目ぼしい飲食店は見当たらず、駅舎の隅に自動販売機が一台、ぽつんと置かれているばかり。それでも喉の渇きを癒すにはじゅうぶんだろうと、俺はピスポケットから財布を取り出した。

ところが、設置された蛍光灯のほとんどが切れかけており、自動販売機の照明も頼りなく、手元が暗いために思うように小銭が探せない。欲しいものほど届きかけた途端、するりと逃げてしまう。この有り様はまるで、俺の人生だった。

「飲む?」

俺の視界にペットボトルのコーラが顔を出した。驚いて顔を上げると、眼前に着崩した黒のロングTシャツにデニム、スニーカーというラフな格好の青年が気怠げに壁に寄りかかっていた。

「え、え?」
「コレ、間違えちゃったんだ。隣のレモンソーダがほしかったんだけど」
「あ、どうも」
「じゃあ行くよ」
「はい?」

こちらの了承を待つことなく、その青年は早足で歩き出した。どうせ行くあてもないのだ。ここは従ったほうが賢明だと判断し、もらったコーラを一口飲んでから、俺は青年の背後について、駅前から緩やかに続く森へと足を踏み入れた。

ほんの十数歩奥に進んだだけで、森の空気が一変した。まるで全体が静かに呼吸をしているようで、そのリズムに合わせて呼吸すると、自分もその一部になったような心地よさがあった。連日報道される都会の灼熱が嘘のように、深夜の森には穏やかな冷気が漂っている。

身体の疲労にもかかわらず、不思議と俺の足取りは軽かった。青年は一度もこちらを振り返ることなくどんどん歩いていく。青年の背中を見失いそうになると、宵闇から溶け出してきたようなクロアゲハが一匹現れて、ふわりと俺を導いてくれるのだった。

やがて、ほのかな灯りをたたえる洋燈ランプの並ぶ小径が現れた。そしてその最奥に、煉瓦造りの一軒家がぼんやりと姿を見せた。

青年は道案内をしてくれたクロアゲハを素手で捕まえたかと思いきや、一切の躊躇いなく真っ二つに引き裂いた。呆気にとられる俺のことなど全く気にしてない様子で、青年はクロアゲハだったあわれな欠片を口に含み、数回咀嚼し、あまつさえ飲み下してしまったのだった。

「なんてことをするんだ」
「なにが?」
「なにがって……」
「ダメだよ、シン。客人が驚いてるでしょう」

いつの間に扉が開いていたのだろう。白いローブに身を包んだ少年が、青年をたしなめた。少年は俺の前までゆっくりと歩を進め、微笑みを浮かべた。

「ようこそ。さあ、どうぞ中へ」

ここはどこでお前は誰なんだ、とは訊ねなかった。なぜなら、俺はそれを自分が既に知っていると自覚したからだ。

部屋は木製の調度品で揃えられており、間接照明により穏やかな色調に包まれている。少年に促されて円卓につくと、シンと呼ばれた青年が俺の隣に腰掛けた。それからおもむろに両手で頭を抱え、何かを呟きはじめた。その声は呪詛というより、歌や祈りの類に聞こえるのだった。

少年は、ちょこっと首を横に傾げた。

「客人を迎えるのが久しぶりだから、とても嬉しいんだ」
「ん……」
「私の名はカイロス。もうずっとこの森に暮らしている。こっちはシン。家事全般が得意。シンもかつて、きみと同じ旅人だった。『門』の向こう——異界へ旅に出て、自らの意志で帰還し、己の真の望みのために生きると決断した者。あ、そうそう。シンのレパートリーでは特に、だし巻き卵が私のお気に入りで」
「『真の望み』?」
「やだなぁ、もう感じてるくせに」

少年の瞳に宿る鋭利な金色こんじきに、思わず俺は俯いてしまう。

「無理になにか話そうとしなくてもいいよ。取り繕った言葉は、心にモザイクをかけてしまうから」

少年は指先でシンのつむじをつついた。シンはずっと頭を抱えていて、ゆっくりと上半身を左右に揺らしている。そのリズムに乗ってシンの髪の毛を指先に絡ませながら、少年が俺に言った。

「何かに夢中で、時が経つのがあっという間に感じることがあるでしょう」
「……キャンバスに向かっていると、あっという間に日が暮れたし、寝食も忘れた」
「それはきっと、シンが蝶を愛でるときに似ているんだろうね」
「ん……。きっと俺は、幸せだったのかも」

その言葉に、シンが勢いよく顔を上げて俺を睨みつけてきた。

「なぜ過去形なんだ。幸せ『だった』って」
「だって、過去のことだから」

するとシンは、こわばった表情で訥々と、だが確信を持った口調で語りだした。

「過去・現在・未来を切り分けたがるのは、クロノスの隷属者の思考だ。森の外にごろごろいる奴らのね。数字や法則が真実や愛を担保すると妄信し、定量的な事象にしか価値を置けず、幸不幸にさえ優劣や条件があるという勘違いから抜け出せない。僕が、そんな奴らを愛せるわけがない」

俺は悲しくなった。シンの言葉に、理性ではなく、本能に近い領域で共感してしまうからだ。

「僕は蝶たちを愛している。それがいつからだとか、なぜなのかとか、そんなことは重要じゃない。かなしさの前には、どんな分析も文脈も評価も意味を持たないから」
「シン、といったね。シンは、幸せなのか」
「愚問だ。そもそも、幸せだった過去があるのなら、思い出せばいいじゃないか。意志で時を感受して『それ』を受け入れられたのなら」
「ん……」

シンと俺のやりとりをニコニコ見守っていた少年が、戸棚から天秤を取り出し、片側の皿を俺に向けた。

「人々が『狂気』などと呼びたがるそれは、結果ではなく、あくまでプロセス。きみはもう、それをよくわかっているはず」

核心を言い当てられて、俺の鼓動は跳ね上がった。堪らずにその場で目を強く瞑る。その直後に眼裏に蘇ったのは、色とりどりの愛しさだった。そのふくよかな記憶が奔流となって、俺の中に容赦なく流れ込んでくる。

——たとえ世間から認められなくても、自分は画家でありたかった。生活のために描きたくもない代物もたくさん描いたし、使い捨て同然にこき使われるような仕事だってした。食べていくためには神経を削らねばならないのだと、ずっと自分へ言い聞かせてきた。いつかきっと、道が拓けるときはくるはずだから。

だから、キャンバスにのせたあらゆる色彩が一斉に生命を得て蠢きだし、アパートに差した鳥の飛影が不規則に膨張して膜となり、透き通った優しい笑い声とともに俺のすべてを包み込んでくれたとき、俺は歓喜に満ち溢れて『それ』に心身を委ねた。

それなのに、人々はよってたかって俺を否定した。お前はおかしいと。おかしいのだから、治療して矯正しなければならないと。それが俺のためなのだと。

——違う。俺はようやく、手に入れただけなんだ。なのに、どうしてそれを奪うんだ。どうして。

気づいたら、病院の冷たいベッドにうずくまっていた。朝昼晩とよくわからない錠剤を飲まされ、そのたびに思考は鈍った。あのとき感じたはずの強烈な歓喜は、霧のように実体をなくしていった。このままでは俺は、大切なものを永遠に喪ってしまうかもしれない。

だから——逃げなければ。俺は、逃げなければならないのだ。

「ん……」
「私は決して、肩書きや装飾品で人を判じたりはしない。そういうものがその人のほんとうを表すことは、まずないから。私が知りたいのは、ただ一つ」

少年は、底の見えない慈愛に満ちた表情で、こう問うた。

「きみは、何色が好き?」

そう訊かれることを、俺はいつから知っていたのだろう。理由や理屈、理論その他一切の理性的な事象が支配する世から弾き出され、失うものすら失った者が苦悩の果てに辿り着く場所。俺はまさに今、そこにいるのだ。

『歓喜』の先にあるものを、この手で描きたい。——それが俺の、真の望み。

色という色が、俺の認識を自由奔放に支配していく。全身に迸る鮮烈な感情のままに、俺は答えた。

「俺は、すべての色彩を愛している」

少年の掲げていた天秤がゆっくりと円卓に傾き、コトンと音を立てた。

「おめでとう。異界への門は開かれた——きみだけのために」


カイロスは門の向こうへと旅立った客人を見届けると、シンの背中を天秤の先端でつついた。

「お腹すいたー、喉渇いたー」

シンは「はいはい」と、カイロスの柔らかな癖のある前髪を撫ぜた。ふと客人のいた席を見ると、飲みかけのコーラのペットボトルが置きっぱなしになっている。

「仕方ない奴だな。我が主人カイロス、これ飲む?」
「私は炭酸が苦手だって知ってるくせに」
「じゃあ捨てるか」
「いや、取っておこう。彼がいつか帰還する日のために」
「炭酸が抜けちゃうと思うけど」
「そしたら、私に飲めるようになるね」
「まぁ、それでもいいなら……」

fin.