カテゴリー: アリスの栞

第八話 軽率

「幽霊? なんの話かな」

そう言ったのは、他ならなぬ中野だ。真弓は「え?」と目をキョトンとさせた。

「あの、例のイケメンさんの件なんですけど……」

「まぁ、こんな古民家じゃ、幽霊の一人や二人、出てもおかしくないかもしれないけど」

(え? どういうこと?)

真弓が戸惑っていると、香織がこんなことを言いだした。

「そうですよね。私、真弓から聞いたとき、すぐにわかりましたよ、『ネタ』だって」

香織はふきだして笑う。中野は少しホッとした様子で、

「そっかそっか。なんだかごめんね」

と誤魔化すが、香織はさして気にしていないようだ。

「でも、来て良かったぁ。面白そうな本がたくさんですね。これ、買って上で読めるんですか?」

「ああ、あっちのコーナーにはブックカバーも売っているから、よかったら併せてどうぞ」

「急に営業モードですね」

ツッコミを入れて笑う香織。完全に置いて行かれている真弓は、状況がよく解せなかったが、ひとまず彰のことには触れないようにした。

「ごちそうさまでした。スコーン、美味しかったです」

「マスター、またWWMの話したいです!」

香織と市川は、すっかり上機嫌だ。

「じゃ、真弓、また大学でね~」

二人は手を繋ぎながら帰っていった。

真弓はどこか居心地の悪さを終始感じていた。マスターの態度に違和感を覚えていたからだ。客の入りが一段落したところで、思い切って声をかけてみた。

「あの……」

真弓が口ごもっていると、中野からこう切り出してきた。

「真弓ちゃん。頼むよ」

「へ?」

「彰のことなんだけど」

「はい」

中野はどこか神妙な面持ちで、コーヒーを淹れながら続ける。

「まさかあんなに簡単にバラされるとは思わなったよ」

「へっ?」

「トップシークレット、とまでは言わないよ。でも、彼のことは僕たちの大切な秘密なんだ。幸いだったのは、真弓ちゃんの友達が彰の存在を一切信じなかったことだよ。どこまでどう話したのかは知らないけど、これからは気をつけてね」

中野の表情は、いつもより引き締まっているように真弓には見えた。

「スミマセン……」

真弓はただ、謝ることしかできない。誰かの大切な秘密をたやすく口にするなんて、自分はなんて軽率なんだろう、と。

完全に『自分を責めるモード』に入ってしまった真弓に、中野はすかさず、

「ところで、相談なんだけどさ」

口調をガラッと切り替えた。

「この前、ハルコが言ってたみたいだね。真弓ちゃんのこと、『新しいボーカル』って」

「へ?」

「僕たちのバンド……『bookmarker』っていうんだけど。WWMのコピーだけじゃなくて、オリジナルも少しあってね」

「そうなんですか」

「ちなみに彰が作詞してる」

「そうなんですか⁉」

驚く真弓。あの明治時代のイケメンさんには、そんな役割があったのか。

「ボーカルが今、いなくて。真弓ちゃん、やらない?」

「へっ⁉」

真弓は首を何度も横に振った。

「無理、無理無理。無理です。私、カラオケくらいしか歌ったことないですし」

「ボイストレーニングならできるから」

「そういう問題じゃなくて……」

「じゃあ、どういう問題?」

真弓は困り顔で、

「いきなり、そんなこと言われても……」

そう言葉をすぼめた。中野はニコッと笑って、

「即答はしなくていい。考えておいてよ、前向きに」

そう言ってBGMのレコードを取り替えに店の奥へ行ってしまった。

突然のオファーに、ただただ戸惑うばかりの真弓であった。

***

次の木曜の、アルバイトの日。

その日は客の入りもそこそこだったので、中野の提案で早めに閉店した。中野が店先の灯りを消してクローズドの札をドアに掲げると、それを合図にしたかのようにカフェスペースの隅に彰が現れた。テーブルを拭いていた真弓がそれに気づき、

「こんばんは」

と挨拶するが、彰は憮然とした表情だ。

「俺は別に認めてないからな」

「へ?」

「浅慮かつ軽率、加えて平凡。どこにもbookmarkerのボーカルに相応しい要素がない」

唐突にそんなことを言われて、真弓は驚くよりも怒りを感じた。だから、ふきんを握りしめたまま、抗議の声を上げた。

「別に、私から志望したわけじゃないです」

それを聞いて彰は肩をすくめた。

「じゃあ、断るんだな」

「それは、そうです。いきなりあんなことを頼まれても……」

「つまらない!」

彰が急に大声を出したので、真弓は驚いて身を一瞬縮こませる。

「そういうところが、つまらないんだ。平凡といよりはむしろ陋劣と言うべきかな」

彰の主張の理由に、自分自身にも心当たりがあるので、真弓はぐっと言葉を飲み込んだ。

「人生に刺激が欲しいと言いつつ、自分から踏み出さない人種が増えたとハルコが嘆いていたけれど、君の青春が無味無臭なのは、自分から踏み出す勇気が決定的に欠けているからじゃないのかな」

そうなのだ。香織を妬む一方で、踏み出せた彼女のことを羨みこそするが、自分からは何もしない。受け身で何かを待っている。そんなことでは、いたずらに若さを費やすだけなのだ。それは、真弓自身もどこかでわかっていた。

「自分を変えたくて、ここに来たんじゃないのか」

彰の問いに、ぎくりとする真弓。まさか「古民家カフェで働きたい!」というミーハーな考え一つで応募したとは言えず、

「そう、です。そうですよ。あなたのおっしゃる通りです。私は、私を変えたいんですっ」

思わず、そうこたえてしまった。

第九話 落下

第七話 ポスター

とある雨の夜、営業の終わったカフェの店内の薄明かりの中に、ぼぉっと彰が現れた。

「やぁ、こんばんは」

マグカップを磨きながら中野が挨拶する。だが、彰はそれに応えない。

「どういうつもりだよ」

「何が?」

彰は剣呑な表情で、中野を睨んだ。

「まさか、あの詩をあの娘に教えるわけじゃないだろうな」

「……どうだろうね」

飄々とした中野の受け答えに、彰は感情を露わにした。

「おかしいと思ったんだ。あれだけアルバイトなんて雇うのを拒否してた人間が、急にあんな」

彰の言葉が一瞬つまる。

「……あんな、平々凡々な娘を雇うだなんて」

中野は、彰の眼光など何処吹く風で、次のマグカップに手を伸ばした。

「理由なら、彰。君が一番わかってるんじゃないかな」

「………」

街灯の明かりが、雨で滲んで窓に映る。風も少し出てきたようだ。

「明日から、寒さがぶり返すらしい。桜はすっかり散ってしまったからいいけど、この頃は春らしい春が来ない気がしないか」

彰は尚も食い下がる。

「あれは、あの詩は、あんなぽっと出の娘には教えないでくれ。秋子が悲しむ」

中野はふー、と長く息を吐いた。タバコを吸っていた頃の名残だ。

「『風は吹けども涙は去らぬ』か……」

中野がそう呟くと、彰は鬼のような形相で、「やめろ。そんな易々と口にするな」と語気を強めた。しかし、中野は首を少し傾げるばかりだ。

「だったら、俺を呪い殺せばいいのに」

「そんな器用なことができれば、とうに遂行しているさ」

「君を裁ける法律や事物は、残念ながら今の日本にはない。たぶん、この先も未来永劫、そんなものはできない」

「……」

中野は、彰をたしなめるように言葉をかける。

「なぁ、『諦め』と『赦し』は似てると思わないかい」

「――全く思わない」

言い捨てた彰は、そのまま姿を消した。

***

4月も下旬になったというのに、その日はコートが手放せない陽気となった。香織は実家暮らしなので、電車で大学の最寄り駅までやってくる。改札で手を挙げた真弓は、

「おーい、こっちこっち」

と声をかけた。すると、近づいていた人影は二つ。香織と、それから、

「えっと……」

見たことのない男性が、一緒にやってきたのだ。どちらさま? と香織に目配せすると、香織はえへへ、と笑った。

「市川先輩。同じ軽音楽サークルのひと」

「え、まさか……」

真弓が思わず市川を指さすと、香織は頷いた。

「か・れ・し」

「えーマジか、マジかぁー!」

頭を抱える真弓に向かって、
「聞いてるよ。真弓ちゃんは香織と同じ文学部なんだよね。俺は社会学専攻。よろしくね」

市川が爽やかに挨拶する。真弓はぎこちなく「どうも……」と返すのが精いっぱいだった。

(ダメだ……さっそく友人に先を越された……。私の10代は、リアルに無味無臭のまま過ぎるんじゃないだろうか……)

意気消沈して自転車を押しながら歩く真弓、対照的に明るい表情の香織と市川。

(なんだろう。なんだろうか、この感じは!?)

モヤモヤが凶悪化してイガイガに化けたような、喉の奥の引っかかり。これは恐らく、いや100%、嫉妬だ。こんな感情を抱いてしまう自分が、真弓はとても嫌だった。

「ここだよ」

棒読みで、『アリスの栞』へ着いたことを真弓は二人に伝えた。

「わー。落ち着いた感じで素敵だね」

「だね」

微笑みあう香織と市川をよそ目に、真弓はドアを開けた。

「こんにちは」

本屋スペースには立ち読み客が数人いたが、カフェタイムが始まって間もなくだったので、そちらには先客はいなかった。中野が笑顔で出迎える。

「いらっしゃい。今日はお友達と一緒なんだね」

「はい、大学の友人です」

真弓が香織と市川を紹介しようとしたが、市川は店内に貼ってあった、とあるポスターにくぎ付けになっていた。

「すげぇ……!」

「どうしたの?」

香織が声をかけるも、市川は食い入るようにポスターを見ている。

「WWMの初期のやつだ。めっちゃ貴重じゃん……!」

中野が「へぇ」と感心する。

「ワンダーワールドメーカーを知っているのかい?」

その問いに、市川は顔を紅潮させて、興奮気味になった。

「知ってるなんてもんじゃないです。WWMがいなかったら、俺、音楽やっていないです」

「そうなんだ。若いのに珍しいね」

「父の影響で。ビートルズとWWMとで俺の血はできてます」

「そりゃ、すごいね。まぁ俺も似たようなものか」

「このポスターはほんと初期、デビューの頃のやつですよね」

「そうそう。まさに知る人ぞ知る、だよね」

笑いあう中野と市川。どうやら意気投合したようだ。

店内を見まわしていた香織だったが、気になってしょうがなかったのか、真弓にねだるように言った。

「ねぇ、この前真弓が話してた幽霊って、どこにいるの?」

香織のその言葉を耳にした中野の表情が、一気に硬くなったことに、この時、真弓はまったく気づいていなかった。

第八話 軽率

第六話 そういうこと

空腹で目が覚めた。朝食をロクに取っていなかったから無理もない。コーヒーのいい香りが真弓の鼻腔をつく。

「おはよう」

一階から様子を見に来た中野が声をかけた。

「あ、スミマセン、私、つい寝ちゃった」

慌てて立ち上がる真弓に、ハルコは親指をびしっと立てた。

「それだけ、あたしの演奏にα波が出てるって証拠だね」

「そんなわけないだろう」

すかさず言葉を挟んでくるのはもちろん彰だ。ハルコは手をひらひらさせて

「負け惜しみにしか聞こえませーん」

と言い返す。

「別に負けてない」

「勝ってもないでしょうよ」

「へりくつだな。受けてきた教育の質を疑う」

「やかましい! 音楽はハートなの、ソウルなの。理屈こねてるあんたには想像が及ばないだろうけど」

「ふうん。それは楽しそうだな。よかったよかった」

「馬鹿にしてんの?」

「察しろ」

「なんですって!」

この二人はいつもこのような感じなのだろうか。すっかり驚いている真弓のために、中野は二人を制した。

「はいはい、落ち着いて。真弓ちゃんが引いてるでしょ」

ハッとしたハルコが、キョトンとしている真弓のほうを向いた。

「ごめん。いつものことだから、気にしないで」

真弓はどう答えていいかわからず、「いいえ」と前置きしてから、こう口を滑らせた。

「仲、いいんですね」

「「どこが!?」」

反射的にリエゾンする二人。さらに異議を唱えたのは彰だ。

「平成生まれの軽薄な娘と、明治生まれの由緒ある文学青年の仲など、どこをどうひねっても良好になるわけないだろう」

「自分で『由緒ある』とか言うなよ。あと、別にあたしは軽くない」

そのやりとりを見て、真弓はころころと笑った。

「ほら、やっぱり。喧嘩するほど仲がいいっていいますもんね」

真弓が笑ったのをみて、中野はホッとした。

「良かった。彰のこと、どのタイミングで話そうかって思ってたから」

自分で淹れたコーヒーを一口飲んで、中野は真弓に問うた。

「率直に聞くけどさ、真弓ちゃん。怖くないの?」

「へ? 何がですか?」

「いや、だから幽霊とか、そういうの怖くないの?」

その問いに、真弓はふるふると首を横に振った。

「どちらかというと、幽霊であることよりも、目つきと言葉遣いが怖いです」

それを聞いて爆笑するハルコ。それをチラッと見てから彰は、

「別に、好きに言えばいい。『表現の自由』ってやつだ」

と不機嫌そうに言い捨てたので、真弓は慌てて頭を下げた。

「あの、スミマセン。他意はなかったんです」

そう言ってそっと顔を上げると、忽然と彰はいなくなっていた。

「あれ……?」

「あーぁ、拗ねたね、あいつ」

ニヤッと笑うハルコは、真弓の肩をポンと叩いた。

「そういうことだから、これからよろしくね。真弓ちゃん」

何が『そういうこと』なのかはイマイチわかりかねた真弓だったが、ハルコに歓迎されていることだけは理解できたので、

「はいっ、よろしくお願いします!」

元気に返事する。その様子を見て、中野は胸をなでおろした。

***
その日の4限目からようやく大学に顔を出した真弓は、香織に「出席票、書いといたよ。筆跡変えるの大変だったんだからね」と小言を食らってしまった。

「ごめんごめん。ありがと。5限終わったら香織はサークル見学だっけ?」

「うん。軽音楽かジャズ研にしようと思ってる」

香織は小さいころからピアノを習っていたらしく、高校時代も軽音楽部でキーボードを担当していたという。真弓はそれを純粋に羨んだ。

真弓の高校時代までといえば、帰宅部でしかもアルバイト禁止、たまに友達と地元のショッピングモールやゲームセンターやカラオケで遊ぶ程度の、なんとも平凡、いや無味乾燥な時間だった。青春らしい青春も謳歌していないし、その結果彼氏などもおらず、「なんとなく」のうちに過ぎてしまっている。

だから真弓には、大学に行ったらやりたいことがあった。それが、本屋兼カフェ「アリスの栞」でのアルバイトだった。真弓がその存在を知ったのは、地元の古本屋にあった「今行きたい! 素敵すぎる古民家カフェ10選」というムック本がきっかけだった。自分の志望する大学と同じ街に、『明治時代に建築された貴重な古民家をおしゃれに改装した、本も読めちゃう癒しの空間』があると知り、彼女は「アリスの栞」のドアを叩いたのである。

(「フツー」ねんて、もう、こりごり)

そんな想いが真弓の中にはあった。

だから尚更、アリスの栞に出る幽霊のことは、まるで真弓の青春にバラの花を一輪添えるように心に映えた。古民家カフェに文学青年の幽霊とは、それだけ真弓にとって、秀逸な組み合わせだった。しかも、結構なイケメンさん。申し分ない……ことは、ハルコとのやりとりを見れば全然ないのだけれど、性格に少々難があっても、もう大歓迎だ。

特段、口止めもされていなかったので、店の宣伝もかねてと思い、真弓は香織に『アリスの栞』に住みつく幽霊のことを話した。

てっきり笑われるかと思いきや、

「へー! すごいじゃない。私も遊びに行くよ」

意外にもノリのいい反応を香織は返してくれた。真弓は得意満面だ。

「じゃあさ、今度遊びに来てよ。サークルが休みの日でいいから」

「予定がわかったらラインするね」

「うん」

『非日常』が、大きな口を開けて自分を待っている。このことが、真弓にはもうどうしようもなく、嬉しいことだった。そう、彼女は、この時の自分の言動の軽率さが何を招くかなど、微塵も知る由はなかったのだった。

第七話 ポスター

第十話 義務

学生の本分は勉強だというが、授業を受けても、レポートを書いていても、あの日以来、真弓はどこかうわの空で過ごしていた。この日も昼休みに学食でラーメンを食べていたのだが、すっかり麺がのびてしまっている。

「大丈夫? 風邪でも引いたんじゃない?」

香織が声をかけるが、真弓は「うーん」と返すだけだ。香織は心配そうに、

「疲れてるんじゃない、バイトもほどほどにしたら?」

と声をかけるが、やはり真弓は「うーん」と唸る。

「悩みなら、言語化がいいって心理学の斉藤先生が言ってたじゃん。私で良かったら話してよ」

それを聞いても、真弓の食指は動かない。

しばらく黙っていると、しびれを切らした香織が、こう切り出した。

「経済学部の佐々木くんって知ってる?」

「……知らない」

「まぁいいや。サークル見学の時にチラッと会ったんだけど、覚えてないよね?」

「うん」

「ジャズ研の一年。そこそこかっこいいよ」

香織の言わんとすることがいまいち解せず、真弓は首をひねった。

「その佐々木くんがどうかしたの」

「あのさ、」

香織は人差し指をビシッと真弓に向けた。

「真弓も、恋した方がいい。噂だけど、佐々木くんは今、フリーらしいよ」

「へっ?」

ハイパー余計なお世話だ。しかし、香織に悪気はないのだろう。なにやらスマホをいじったかと思うと、ニッコリ笑った。

「はい、完了っと」

「なにが?」

すると香織は、驚くべきことを言い放った。

「真弓のラインの連絡先、佐々木くんに伝えておいたから」

「えええっ!?」

「ラーメン、のびるよ」

真弓は戸惑いながら、

「もうのびてるよ……」

そう答えるのが精一杯だった。

香織のハイパー余計なお世話は、見事に佐々木肇の誤解を招いたらしい。つまり、サークル見学でチラッと会っただけの女子が自分に好意を寄せている、と。

確か、皆本香織にくっついてきた子だった。少し地味な印象だったけれど。挨拶もそこそこにいなくなってしまったと記憶しているが、まぁ、人が人を好きになるきっかけなんて、なんでもいいのだ。うら若き女子に好かれて悪い気のする男子大学生は、あまりいない。

佐々木はさっそく真弓にラインした。

「こんにちは。皆本さんから話は聞いたよ」

そのメッセージを見た真弓は瞠目した。香織は、何をどう佐々木に話したというのだろう。ラインはなおも続く。

「全然、いいよ。お友達からってことで」

へ?

「今度の木曜日、夕方あいてる?」

はい?

「返信待ってるね」

はいー!?!?

この時ばかりはラインの「既読」機能を真弓は恨んだ。別に読みたくもないメッセージに返信の義務が発生するような気がしたからだ。真弓は、傷は浅いうちに手当てしたほうが良いと思い、

「木曜日はバイトです。ごめんなさい」

とだけ返した。真弓はますます自己嫌悪に陥った。顔もろくに覚えていない相手に、なんで謝るんだ。そんな自分を、いつになったら変えられるんだろうか、と。

***

「真弓ちゃん?」

アルバイトの日、「アリスの栞」の閉店後に中野が怪訝そうな顔で真弓に声をかけた。

「顔色、良くないよ」

「あ、スミマセン。大丈夫です」

中野は相変わらず飄々と、しかしどこか優しく声をかけた。

「大丈夫っていう人は大抵、大丈夫じゃないんだよ。今日は片づけはいいから、早く帰ったら?」

「いえ……」

「だって、まるで幽霊みたいな顔色だよ」

「悪かったな」

返答したのは、真弓ではなく彰だ。彰は憮然とした表情で、

「死んだこともないくせに、人を不健康の象徴みたいに言うな」

そう言うものだから、真弓は思わず噴き出した。

「なんで笑うんだよ」

「だって……」

真弓の笑顔を見て、中野は少し安心したようだった。しかし、明らかに真弓の様子がいつもの『元気いっぱい!』な姿からはかけ離れていたので、

「何か、あった?」

そう声かけをした。それには真弓は答えず、というか答えられず、彰の方をちらっと見てから、ぎこちなく話し出した。

「あの、今、勝手にセッティングされようとしてて」

「セッティング? 何の?」

「えっと……」

真弓は口ごもったが、拳をぎゅっと握って意を決したように言った。

「恋、とかそういうの、って、しなきゃ、いけないものなんでしょうか……」

それを聞いた彰の方眉が、明らかに跳ね上がった。

第九話 落下

真弓は階段を駆け下りると、中野に向かってこう言った。

「bookmakerのCDとかって、ありますか」

中野は背を向けたまま、

「あるよ。少し高いところにあるから、脚立を使わなきゃだけど」

そう返答したので、真弓はバックヤードから脚立を持ってきて、カチャカチャと組み立てた。

「洋書の棚の4段目だよ。届く?」

「あ、ハイ。たぶん届きます」

真弓が手を伸ばしたギリギリのところに、そのCDはあった。おそらく自主制作なのだろう、手作り感満載のジャケットには、桜の花びらが描かれた一枚の和紙風の栞が写っていた。

「栞……」

栞は英語で『bookmaker』だ。中野が声をかけてくる。

「CD、あったかい?」

「あ、ハイ」

脚立の上に座ったまま、真弓はそのジャケットに見入っている。

栞には、文字が並んでいた。それをじっと読んでいるのだ。

Even if the wind blows, the tears will not disappear.

Life is limited, so it makes sense.

Thank you for loving me.

Thank you for loving the world.

If I exhale from the thin lungs, you will smile.

「えっと……」

受験英語しか経験のなかった真弓には、すぐに意味は訳せなかったが、直感的に何か物悲しいイメージをいだいた。英語を指でなぞる。

「これ……なんだろう……」

「歌詞だよ」

突然、すぐ背後から声をかけられて真弓は「わ!」と驚いた。一階の天井から、彰がぶら下がっていたのだ。逆さまになっているので、当然髪の毛も逆立っている。

「彰さん、そのポジション、すっごい幽霊っぽいです」

「まぁ、幽霊だからね」

「この英詩も、彰さんが?」

それを聞かれて、彰は首を横に振った。

「君は風邪を引いたことはあるかい」

「へ?」

急に風向きの変わった質問に、真弓は戸惑い、首をちょこっと傾げた。

「そりゃあ、ありますよ。インフルエンザにもほぼ毎年かかります」

「そう。現代医学ってのは、すごいんだな」

「それは、どういう……」

言いかけた真弓はハッとした。彰の表情が、何よりも瞳が、憂いを帯びていたからだ。いや、憂い以上の、深い悲しみだろうか。

真弓はそれに見とれてしまった。それに気づいているのかいないのか、彰は独り言のように続ける。

「時代というのは、引き潮と満ち潮のようなものだ。決して安定せず、寄せては返す繰り返しに見えて、二度と戻らない。それと同じなんだ。だから、一瞬一瞬が尊いんだ」

「……」

「真弓、君はもっと『今』を大切にすべきだ」

彰の言葉に、真弓はさらにドキリとした。

(今、私の名前、呼んだ?)

「あの、彰さん――」

動揺した真弓の視界がぐらっと歪む。

「わぁっ」

そのままバランスを崩した真弓は、脚立から落ちてしまった。

物音を聞いた中野が驚いて駆けつける。

「大丈夫⁉︎ 真弓ちゃん」

「あ、いててててて……」

のそっと体を起こす真弓。

「だ、大丈夫です。ちょっと、その……」

「痛いか」

そう問うたのは、彰だ。真弓は思わずムッとした。

「そりゃあ、尻もちが痛くないと言ったら嘘になります」

「痛みは生きている証拠だよ。大切にするといい」

真弓はお尻をおさえながら脚立を支えに起き上がった。

「彰さん、ひどい!」

それは彰にとって意外な言葉だったらしい。彼は片眉を上げて反論する。

「なにがどう『ひどい』んだよ」

「助けてくれなかったでしょ」

「無茶苦茶言うなよ。俺がどうして脚立を支えられるというの」

「なんていうか、霊的な何かで! 助けてくれたってよかったじゃないですか!」

憤る真弓に、中野も戸惑っている。

「あの、真弓ちゃん……『霊的な何か』って、何?」

「あーもー、なんでもいいですっ」

真弓は脚立から落ちた痛みと恥ずかしさとで、投げやりになっているようだ。

「俺は心配しているんだよ、一応」

彰の言葉は、火に油だ。

「一応、ってなんですか一応って!」

すると彰はスルスルと天井から降りてきて、真弓の頬に触れる仕草をした。

「……大丈夫か」

すると真弓は落ち着かない様子でその手をのけようとする。

「どうしたの?」

中野が訝しがる。だが、真弓本人はそれ以上に困惑していた。

「な、なんでもないですっ」

この時、まだ真弓自身も自分の気持ちに全く気付いていなかったのだった。

第十話 義務

第五話 素直

心底驚いた真弓であったが、彼女は元来、とても素直な性格だ。それを象徴しているのが、次のこの言葉である。

「あぁ、だからか……」

そう、真弓にはすぐ合点がいったらしいのだ。

「え、何が?」

ハルコが不思議そうに問う。

「この前、突然いなくなったの、その人が幽霊だからなんですね」

ハルコが怪訝そうな顔をする。

「えっと、もっと疑った方がいいよ。普通、こんな話いきなり信じないでしょ、そんなナチュラルに」

「でも、マスターの言ってた言葉の意味も、幽霊なら説明がつくんです。とても、納得できます」

ハルコは「アハッ」と笑った。

「マスターがあなたを雇った理由が分かる気がするよ」

「へ?」

「本当に、この街のこと、知らないんだね。まぁ、しょうがないんだけど」

そう言って、少し意地悪く笑った。

「番地の名前とか、あんまり深く考えないでしょ」

「番地の名前?」

「そ。この街にある、旭町と暁町。この二つはそれぞれ朝焼けと夜明けを司っているっていう伝承があってね」

途端に目を輝かせる真弓。

「そうなんですか!? なんか、ファンタジーみたいで素敵!」

「そう?」

ハルコは少しトーンを落とした声色で、こんなことを言った。

「この街、やけに神社仏閣が多いでしょう。それに加えて病院も」

「そうですね。駅前は賑やかだけど、山の方は、かなり風光明媚っていうか」

「風光明媚、ねぇ……」

真弓はハルコの言わんとすることが理解できず、首を傾げた。

「ワンダーワールドメーカーのことは、知ってる?」

「いえ、さっきマスターから初めて聞きました」

「そう」

そう言って、ハルコはギターを弾き始めた。穏やかで、でもどこか物悲しい旋律。真弓は思わず聞き惚れてしまう。弾きながらハルコが話すには、

「これね、WWMの代表曲。『アリスの栞』っていうの」

どうやらこれが店名の由来らしかった。

「どんな歌詞なんですか?」

真弓の問いに、ハルコはしかし答えなかった。

「目を閉じて。いい? さん、に、いち……」

「え?」

「早く~」

「あ、はいっ」

ハルコに言われるまま、真弓は目を閉じる。美しいメロディーにしばし耳を委ね、ハルコの爪弾く音楽を味わった。椅子に座っていたので、そのまま頬杖をついた。

なんて、心地のいい瞬間だろう。今まで経験したことがない感覚。ふわふわと雲の上に寝転がっているようにさえ感じられた。

『アリスの栞』の一番のサビまでを弾き終えたハルコは、

「オッケー、目ぇ開けて」

と真弓に声をかけたが、真弓はあまりの気持ちよさから眠ってしまっていた。

「ありゃまぁ」

「単純な娘だな」

降って湧いたように投げつけられた冷たい言葉に、ハルコは振り返ってカフェスペースの隅を見た。

「彰……!」

彰と呼ばれた青年は、肩をすくめた。

「そんな稚拙な演奏で眠れるなんて、平和な神経の持ち主としか思えないね」

「あんたねー!」

ハルコは立腹した。

「あたしの演奏はともかく、こんなかわいい子をバカにするの? ほんっと、これだから明治生まれは嫌」

「それは差別的だな」

「演奏を聴きたくなきゃ、ヘッドフォン音量をマックスにしておけばいいでしょ、いつもみたいに」

それに対して彰は、ヘッドフォンをわざわざ外してみせた。

「それが、ついに壊れたんだよ。マスターのお下がり、全然充電できなくなった」

「知るか。新しいの買え! Amazon本日着指定で今すぐポチれ!」

「そう言われても、俺には『あまぞん』の『あかうんと』がないから、ぷらいむ会員になれない」

「知るか」

「俺にだって買い物する権利はある」

「あたしにだって、のびのびdisられずに演奏する権利がある」

ギギーッと睨み合うハルコと彰。柱時計の秒針が動く音だけが、どこか間抜けに響く。

先に口を開いたのはハルコだった。

「まぁいいや。あんたに『貸し』、作ってあげる」

それを聞いた彰の方眉が上がる。

「この俺に対して、ずいぶんと横柄だな」

「その言葉をそっくり返却してからの、『代わりにヘッドフォン買ってあげます』。これ、どう?」

「………」

彰の眼光が鋭くなる。

「……悪くないな」

「よっしゃー! 契約成立。いい? 口外しないでよ、アカウントの貸借は本当は禁止なんだからね」

ハルコがノリノリでスマホを取り出すと、画面に夢中になって操作を開始した。

一方、彰は眠っている真弓の顔を覗き込むようにして、

「寝てれば、そこそこ可愛いのにな」

ボソッと、そんなことを呟いた。

第六話 そういうこと

第四話 カフェラテ

初出勤をなんとか終えてくたくたになった真弓は、アパートに帰るやいなや、そのままベッドに突っ伏した。

(なんだろ、あの人)

急にいなくなった「イケメン落丁青年」のことだ。カフェでの初バイトは、とても楽しかった。マスターもいい人で、お客さんたちも親切だった。

でも、あの青年のことが、美しい絵画に穿たれた画鋲の穴のように、真弓の中で引っかかってしまったのだ。

(また、会わなきゃなのかな)

あの態度、あの目つき。正直、いい印象は持てなかった。せっかくのステキなカフェアルバイトライフを邪魔される気さえした。だから、真弓は少しだけユーウツになってしまったのだ。

緊張からの疲れもあってか、突っ伏したまま、メイクもロクに落とさずに、真弓はそのまま寝入ってしまった。

そして翌日、見事に1限を寝坊した真弓は、食事もそこそこに自転車を走らせた。その途中で「アリスの栞」の前を通るのだが、ふと気になって、真弓は自転車を止めた。先を急いでいるにもかかわらず、である。

外観は古民家を改装した本屋なのでおとなしい印象。本屋の営業は11時からなのでまだ開いていないはずだが、店の中から何やら音がする。楽器の音だ。音楽でもかけているのだろうか。真弓がそっと窓を覗きこむと、そこにはウッドベースを弾く中野の姿があった。

「……!」

中野は、楽譜と思しき数枚の紙を見ている。表情は真剣そのものだ。真弓は思わず息を飲んだ。

「何してるの?」

突然、背後から声をかけられ、真弓は驚いて振り返った。するとそこには、ギターケースをかかえた若い女性が立っていた。

「『アリスの栞』に何か用?」

「スミマセン。私、ここでバイトしてて……それで……」

するとその女性は両手をポンと叩いて、明るい口調で頷いた。

「あ、そっかそっか。じゃあ、新しいボーカルの子!」

「へ?」

「そういうことなら大歓迎! さ、早く中へ」

「あ、いえ、私、授業が……」

「早く!」

「はいっ」

気圧された真弓は、勢いでそう返事してしまった。

ドアが開いて真弓の姿が見えると、中野はベースを弾く手を止めた。

「おや、大学は?」

「その……」

真弓の後に入ってきた女性が、「おっはよーう! マスター!」と元気よく挨拶する。

「あ、ハルコちゃん」

ハルコと呼ばれた女性は、店内を見まわした。

「あれ、彰は?」

ハルコの問いに、中野はため息をついた。

「絶不調……とまではいかないけど、気まぐれもあそこまで行けば、才能だよ」

「そっか……しっかりやらないと塩まくよ、まったく」

「ちょっとちょっと、縁起でもないこと言わないでよ」

「『縁起』ねぇ~」

ハルコの言葉に笑いあう二人。真弓は完全に置いてけぼりだ。

「涼介はまだ来てないみたいだね。じゃあ、それまで一息つかせて」

「わかった。カフェラテでよかった?」

「うん」

ハルコは軽やかに二階へ上がっていった。中野はカフェラテを準備しながら、真弓を気遣うように声をかけた。

「真弓ちゃん、授業はいいの?」

「えっと……」

大学の授業よりも中野のウッドベースが気になってしまった真弓は、ヘラっと笑ってみせた。

「大丈夫、です」

「そう。それならいいんだけど」

「あの」

真弓は壁に立てかけられたウッドベースを指さした。

「マスター、ミュージシャンなんですか」

ストレートにそう問うと、中野は朗らかに笑った。

「『ワンダーワールドメーカー』って、聞いたことない?」

「へ?」

「略してWWM。伝説のアコースティックユニット」

聞いたことがない。真弓は正直に「知りません、スミマセン」と伝えるが、中野がそれを気にしている様子はない。

「別に謝ることじゃないさ。伝説とはいえかなりマニアックなユニットだったからね」

「そうなんですか」

「僕たちはそのWWM好きが高じてコピーユニットを組んでる。さっきのはニイヤマハルコってギタリストの子。普段は美容師さんなんだよ」

「へぇ……!」

真弓は感嘆の声をあげた。二足の草鞋を履くって、とてもカッコイイじゃないか、と。

中野は続ける。

「もう一人、パーカッションがいるんだ。古谷涼介っていう、僕の高校時代の同級生で、旭町の商店街で自転車店をやってる」

全然、知らなかった。この街に来てまだ数週間なので無理もないが、全てが真弓にはキラキラしているように感じられた。仕事の傍ら、バンド活動。めちゃくちゃクールじゃないか。

「あ、じゃあ、いつも二階にいるあの方がボーカルですか?」

その問いには中野は直接答えず、

「これ、悪いけどハルコちゃんに運んでくれる?」

と真弓にカフェラテを差し出した。

「はい、わかりました」

「時間給つけるから」

「いえ、授業サボりの代償だと思うことにします」

エヘヘ、と笑って素直に応じる真弓。中野は真弓のこういうところを気に入ったようだ。

「お待たせしましたー」

そうして二階に上がった真弓の目には、少し驚くべき光景が飛び込んできた。

ハルコの流麗な指さばき。爪弾かれる、優しいメロディー。真剣なハルコの表情。真弓はすっかり魅入っていた。

真弓の姿に気づいたハルコが、パッと笑った。

「あ、カフェラテ? ありがとーっ」

真弓はカフェラテをテーブルに置くと、思い切って声をかけた。

「あの、ニイヤマさん」

「ハルコでいいよ」

「じゃあ、ハルコさん。今の、めっちゃかっこよかったです」

その言葉に、ハルコは少し照れながら、

「やだなぁ、ただの練習だよ。でも、嬉しい」

ギターをぎゅっと抱きしめて照れてみせた。

「彰にも聞かせてやりたかったな、今の言葉。いっつも私の演奏にダメ出ししかしないから」

「彰さんって、もしかしていつもここにいる方ですか?」

「そうそう。でも、こういう時に限って、出てきやしないんだから」

ハルコの言葉に、何か不自然なものを感じた真弓は、率直に問うた。

「『出る』?」

「え、言わない?」

「へ、何がですか?」

「幽霊のこと、『出る』って言わない?」

「はぁ、まぁ、言いますよね……」

真弓がその言葉の意味に気づくまで、数秒とかからなかった。

「っえええええっ!?」

第五話 素直

第三話 マフィン

「あの、スミマセン……お客様……その……」

真弓が口ごもっていると、中野は「あーあーあー、」と手をひらひらさせて、

「真弓ちゃん、気にしなくていいよ。よくあることだから」

とフォローに入ってくれた。

「え、でも」

「気にしてもしょうがないっていうか……。ま、そのうちわかるよ」

「……?」

青年はぶっきらぼうな口調で中野に要求をした。

「マスター、充電器貸して。最近あまりヘッドフォンの電池持ちが良くないんだ」

「バッテリー、寿命じゃないの?」

「かもね」

コードと充電器を受け取ると、彼は二階に戻るのかと思いきや、急に真弓の方を見て声をかけてきた。

「あのさ」

「はい」

「食レポ、とかそういうの別にいいから。ちょっと声が甲高くてうるさい。読書の邪魔」

「え……」

そう言い残して、呆然とする真弓をよそに二階に去っていった。

「え、あ、え?」

戸惑う真弓をなだめるように、中野が肩をすくめた。

「いつものことだから。本気で、気にしないでいいから」

「あの……」

真弓は少し聞きづらいなと思いつつも、思い切って問うてみた。

「あの方、マスターの、息子さんですか」

中野は首を横に振って、ひょうひょうと返答する。

「いや。どちらかというと、逆かな」

「???」

真弓の脳内を疑問符が支配する。しかし、ボーっともしていられない。今日は初出勤、覚えることがてんこもりなのだ。中野はさっそくアルバイトの指南に入った。

「オーダーは、メニューにそれぞれ略称があって……」

「はいっ」

真弓はエプロンのポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。

「例えばアイスコーヒーは伝票に『I.C』。紅茶を頼まれたら、必ずストレートの『S』かミルクの『M』かレモンの『L』を書き添えること」

「はいっ」

「マフィンは2種類。プレーンとベリーね。これはベリーの場合にだけ『B』って書いて」

「はいっ」

「真弓ちゃんさ」

「はいっ」

「返事、元気が良くていいねぇ」

唐突に褒められたものだから、真弓は驚きこそしたもののすぐに嬉しくなって、

「ナポリタンが美味しかったからです、きっと」

そう伝えた。その言葉に中野はアハハ、と声を上げて笑った。

「そうそう、お手拭きは水と一緒にね。テーブルには一輪挿しがあるから、花を変えるのも大事な仕事だよ」

「はいっ!」

憧れのカフェでのアルバイト。もちろん緊張もするが、念願のカフェデビューした自分に、少し酔っている真弓であった。

「アリスの栞」は一階が本屋、二階がカフェスペースとなっている。そこでお茶などを飲みながら購入した本をすぐに読むことができるのだ。14時を過ぎると、早速初老の男性がやってきた。

「マスター、いつものね」

常連なのだろう。中野は「はいよー」と言って何やら準備を始めるが、『いつもの』では真弓に理解できるわけもない。中野はすかさずそれを察知し、

「あ、そうそう。ご近所のパン屋さんの飯岡さん。うちで出してるパンを卸してくれてるの」

「そうなんですか。はじめまして」

恭しくぺこりと真弓がこうべを垂れると、飯岡さんは朗らかに笑った。

「新人さん? 頑張ってね」

「ありがとうございます!」

『いつもの』とはマフィンとホットコーヒーのセットだった。真弓は教わった通りに伝票に『マフィン、H.C』と書く。本当に、お仕事デビューだ。少し文字が震えたが、それはご愛敬だろう。
カウンターにマフィンとホットコーヒーが準備される。それを飯岡さんのいる二階まで運ぶのだ。
(なんだか、本当にカフェ女子って感じ!)
と、真弓はすっかり舞い上がっていた。

階段をゆっくりと上がって、飯岡さんの座っているテーブルまで運ぶ。一丁前に、

「お待たせいたしました」

などと言ってみる。

「はい、ありがとう」

飯岡さんはドストエフスキーを読みながら軽く会釈した。真弓は飯岡さんの本を少しだけ覗き込み、

(難しそう。読んだことないや)

と視線を外した。飯岡さんが静かにコーヒーをすする音が店内に響く。

ふと、真弓は二階に飯岡さんしかいないことに気付いた。

「あれ?」

イケメン落丁さんが、いない。いつの間に外へ? 気づかなかった。

「ん、どうかした?」

飯岡が問いかけるが、真弓は首をふるふると振って、「いえ、なんでもないです」と答えるほかなかった。

第四話 カフェラテ

第二話 ナポリタン

「アリスの栞」でのアルバイトが決まった旨を、さっそく真弓は両親に報告した。

「うん、明日から。家賃はカバーできそうだよ。卒業前には海外旅行にも行けるってさ」

電話口の母親は、「それはすごいね」と笑い、

「体に気をつけてね。無理は、ある程度するように。今しかできないんだから」

そう真弓を激励して電話を切った。

木曜日は午前の授業しか履修していなかった真弓は、二限の終業のチャイムが鳴るといそいそと席を立った。

「あれ、学食行かないの?」

最近友達になったばかりの皆本香織が真弓に声をかける。真弓はうん、と元気よく頷いた。

「これからバイト。初出勤!」

「そうなんだ。でも、せめて何かお腹に入れてったほうがいいよ」

「大丈夫。まかないが出るから」

「えっ?」

「今度、顔だしてよ。暁町の『アリスの栞』ってとこだから」

そう言うと、真弓は軽快な足取りで教室を後にした。

真弓の好きな、緑色の自転車を転がして街を駆ける。新緑には少し早いが、空気が新鮮で美味しい。ここが東京とは思えない爽やかな風を浴びながら、真弓は「アリスの栞」へと向かった。

「こんにちは」

真弓がドアを開けると、ベルがカランコロンと鳴る。ドア近くにあるレジの前で中野がマグカップを磨いていた。

「あ、真弓ちゃん。よろしくね」

「はい」

「昼食は済ませた?」

「いいえ」

それを聞いた中野はニッと笑い、

「それは良かった」

そう言ってキッチンにさがると、手際よく何かをトントン刻み始めた。

「ロッカーは二階だから、そこに荷物置いて、エプロンつけてくれる?」

「あ、はい」

木造の階段を上ると、少しだけ軋む音がする。古民家を改装したとは聞いていたが、なかなか味わい深い雰囲気だ。

二階のカフェスペースに入ると、すでに先客がいた。カフェタイムはまだのはずなのに。

「い、いらっしゃいませ……」

真弓がぎこちなく声をかけても、その客は反応しない。それもそうだ、その人物はヘッドフォンをしているのだから。

(って、あれ?)

真弓は動揺した。この間の、あの、「イケメン落丁さん」だ。どうやら今日はヘッドフォンの充電は切れていないらしい。こちらに気づくそぶりもなく、じっと本を読んでいる。

しかし、それを気にするよりも空腹が勝ってしまった真弓は、ぺこりと頭を下げるとエプロンをつけて一階へ下りた。

「あ、なかなか似合うじゃない」と中野は満足げだ。

「ありがとうございます」

先程からいい香りがしている。ケチャップの少し焦げた、優しいにおい。

中野も嬉しそうに頷く。真弓は自ら進んで、感想を述べ始めた。

「パスタがあえてアルデンテじゃないところ、昭和っぽい感じがして好きです。あ、昭和はよく知らないんですけど。ケチャップって炒めても最強ですよね」

「うんうん」

「あと、なんといっても玉ねぎですね! 甘くて、生で食べると少し辛くて、バランスがとってもいいと思います」

中野はカウンターで頬杖をついて、

「真弓ちゃん、食レポ上手いね」

少し茶化すように言うので、真弓はハッとして、赤面した。

「スミマセン……」

「謝ることじゃないよ、別に」

と、そこに別の声が割り込んできた。

「謝ることですよ」

「へっ?」

真弓が驚いて振り返ると、階段にはやや不機嫌な顔をした「イケメン落丁さん」が立っていた。

第三話 マフィン

第一話 落丁

東京都の西の隅っこの街のはずれにある、とある本屋。真弓がこの本屋でのアルバイトを決めたのは、今月入学した大学と一人暮らしのアパートのちょうど中間という好立地に加えて、カフェが併設されているからだった。真弓は自他ともに認めるカフェ好き……と言いたいところだが、高校時代までを過ごした街には、残念ながらそれらしい店はほとんどなく、チェーン店のコーヒーショップか喫茶店くらいのものだった。カフェへの強い憧れが、真弓の背中を押したのだった。生まれて初めてのアルバイト。緊張しないわけがないが、それよりもワクワクが心の中で勝っていた。

「へぇ、八千代市出身かぁ。へぇ」

形ばかりの履歴書を読みながら、この本屋兼カフェ「アリスの栞」のマスター、中野義男は呟いた。真弓は差し出されたアイスコーヒーを一口飲んで緊張を紛らわそうとしていた。中野はあごひげを一度だけ撫でて、こう切り出した。

「確かあの辺は成田空港が近いから、海外旅行に便利だよね」
「ええ、まぁ。私は海外には行ったことはないですけど」
「そうなの? もったいないなぁ。今のうちだよ、海外。行くなら学生のうちがいい。ウチでたくさん稼いで、友達や彼氏と旅行に行くのもいいんじゃない?」

真弓は反射的に、エへへ、と笑った。

「彼氏なんて、いません」
「そうなの!?」
中野は両の手をあげて必要以上に驚いたように見えた。彼氏がいないって、そんなにびっくりしなくても、今どきじゃ別に珍しいことでもないだろうに。
中野は大きく頷いたかと思うと、親指をびしっと上げた。

「じゃあさ、今から卒業までに必ず彼氏を見つけること! それでウチで稼いだ給料で卒業旅行という名の婚前旅行に行くこと! これ、どう?」
「どう、って言われても……」
「決まり、ね。うん。今週の木曜日から来てもらえる?」

とりあえずは採用、ということだろう。

「ありがとうございます。あの……」

真弓は頭を下げてから、

「カレシと海外旅行に行けるくらい、お給料くれますか」

勝手に人生計画を立てられた仕返しとばかりにそう言うと、中野はハハハ、と笑った。

「頑張ってくれたら、ね。それにね、ウチで働くといろいろな『まかない』があるから、楽しみにしてて」
「まかないですか!?」

目を輝かせる真弓に、中野はニッと笑った。

「そう。いろいろな、ね」

この「いろいろ」が何を指しているのかも知らずに、勝手にパフェやケーキを空想していた真弓もまた上機嫌で、席を立ってぺこりと頭を下げた。

「よろしくお願いします!」
「こちらこそ」

中野は本屋スペースのレジに戻っていった。
ホッと胸を撫でおろした真弓の視界に、カフェスペースでヘッドフォンをしながら本を読んでいる青年の姿が入った。常連なのだろうか、とてもリラックスした様子で読書に没頭している。

誰だっけ、あの、仮面ライダーだったナントカって俳優に似ている、気がする。要するに、結構イケメンだ。若いお母さんに受けそうな感じの、しょうゆ顔。

「………」

真弓は俳優の名前を必死に思い出そうとして青年を相当じっと見ていたらしく、その視線に気づいた青年が、

「………」

真弓の方をちらりと見やった。ハッとした真弓は、ぽそりと「スミマセン」と言ったが、ヘッドフォンをしている青年に届くはずもない。慌てた真弓が挙動不審にしていると、青年の方から声をかけてきた。

「あの、この本なんですけど」
「へっ?」
「ページが落丁してるんです。取り替えてくれませんか」

青年が差し出したのは、ある海外の詩人の詩集だった。

「あの、すみませんが私は……」
「木曜日からここで働くんでしょ。だから、予行演習」
「へっ、聞いてたんですか」

青年はわざとらしく首を傾げた。

「だって、面接、丸聞こえでしたよ。そりゃ嫌でも聞こえる」
「え、そのヘッドフォンは……」
「ワイヤレス。充電式。電池切れ」
「え、じゃあさっきの『スミマセン』も?」
「『サーセン』にしか聞こえなかったけれど」
「スミマセン……」

真弓は気まずくなって、その場から逃げ出したい衝動をどうにかこらえながら、

「……はい、お取替えいたします」

本を受け取るや否や、緊張のあまり、
「マスター! 落丁、一丁!」

考えるより先にそう叫んでいた。レジの近くで中野は苦笑する。

「うちはラーメン屋じゃないよ」
「スミマセン!」

こうして、「アリスの栞」でのアルバイトが始まった真弓の、騒がしくて少し不思議な甘酸っぱい青春がスタートしたのだった。

第二話 ナポリタン