Re:ゆく夏に穿つ

朝、目がさめるとリビングのほうから物音がしたので、美奈子は眠気をこらえてそちらに向かった。リビングでは買ったばかりの小さなテレビがついていて、それを食い入るように裕明が観ているのだった。 おはよう、と声をかけるより前に美…

エピローグ ゆく夏に穿つ

木内が「白い部屋」の中央で腕組みして、「むーん」と何度もうなっている。岸井はそんな木内を「そんなに難しいことじゃないでしょ」と促すのだが、やはり木内は「むーん」と首を左右に傾げている。 「ピカチュウとピチューの違いがいま…

第二十五話 刹那の灯(四)虹

太陽が傾いてきたころになって、美奈子はようやく意識を取り戻した。 「気分はどうだい」 清潔な布で美奈子のひたいに浮かんだ汗をぬぐいながら、木内は問いかけた。 「……はい、大丈夫です」 小さく、しかしはっきりとした口調で美…

第二十四章 刹那の灯(三)帰ろう

美奈子は異変に気付くと、すぐにベッドから身を起こした。身の危険を察知すると、「誰っ!」と声をあげたのだが、すぐに美奈子は絶句した。 美奈子にとって見たことのない男が、フォークを片手にこちらを凝視しているのだ。 「馬鹿にし…

第二十三話 刹那の灯(二)連鎖

復讐というものもまた、何も救われないという意味で、誰からも忘れ去られた古いフィルムのようである。カタカタと音を立ててからまわる、寂しさや虚しさを映して、やがてそっと沈黙するのだ。 赤く猛る炎が、優しい時間と白い空間を飲み…

第二十二話 刹那の灯(一)モザイク

美奈子が必死に走って廊下まで出ると、あおいが山積みの書類を携えて外来棟から歩いてくるのが見えた。あおいはひどく驚いて、書類ごと小さな体を跳ねさせた。 「あー、美奈子ちゃん! どこに行ってたの? 院長が心配してたよ」 「す…

第二十一話 慈愛の罠(七)刃

「忘れ物だ」 開口一番、若宮が木内にそう告げると隣で俯いていた少年がおもむろに顔を上げた。それを見た木内は、思わず息を飲んだ。 「きみは……」 若宮があきれた表情で木内を見やる。 「『中途半端』は、お前の嫌いな言葉じゃな…

第二十話 慈愛の罠(六)詩歌

美奈子は裕明の過去について何も知らない。知らないからこそ、わかることがある。それは、自分のことを「雪」と呼ぶ時の彼が、瞳に深い悲しみを湛えていることだ。 彼は美奈子に「雪」と呼びかけたのち、窓辺に腰掛けたまま一篇の詩をよ…

第十九話 慈愛の罠(五)許し

都心で耳にする蝉の声よりも、この奥多摩の森林から注ぐそれらは柔らかく美奈子の耳に沁み入った。アブラゼミ、ミンミンゼミにまじってこの頃ではクマゼミがこの辺りにまで生息域を拡げているらしい。独特のわら半紙を擦り合わせたような…

第十八話 慈愛の罠(四)風

それは確かに、二人にとっては優しい時間だった。不自由と抑圧を絵に描いたような場所ではあったが、それでも二人は、その空気に抗するごとく、不器用ながらも真剣に心を育てあった。 少女——雪は、ちらりと目が合うだけで、顔を赤らめ…