第六章 詩集

例えば他の誰かに、自分を知ったような顔をされて何もかもを解剖されてしまったら、それを心地よいと感じる人などいるわけがない。そもそも、精神科医の仕事はそういうものではないと僕は考えている。 中にはあらゆる論理を用いて患者の…

第七章 過去

蝉の鳴き声に耳を預けながら、彼は中庭のベンチに一人座っていた。僕は彼を見つけると、「隣、いいですか」と声をかけて腰を下ろした。 「ここへ来て、もう半年になりますね」 ミンミン蝉の声がシャワーのように二人に降り注ぐ。夏の厳…

第八章 責任

壁掛け時計の音だけが部屋に響いている。彼の両親はさっきからずっと黙ったままだ。彼もまた、俯いてじっと床を見ている。僕がどうにか言葉を出そうと思案しているうちに、部屋に住吉が入ってきた。そうして書類を机の上に置いて、 「ケ…

第十一章 幻影

光の粒子、シナプスの断片、微弱な季節の裏切り。あるいはいずれでもなく、闇に還るためのあらゆる手段……ランパトカナル。それは月から来て月へと還る。両手に悲しみが満ちたら、それを月に還してあげるのが、与えられた使命。彼はそう…

第十四章 正義

僕の願いは叶うことはなかった。彼に、あの山の月を見せてあげることができなかった。彼の悲しみを還すことが、僕にはできなかったのだ。 連行される際、彼はようやくこちらを見た。そして、口角を上げて微笑んだ。僕にはその笑顔の意味…

第十五章 決意

病院は、僕を懲戒解雇ではなく自己都合退職として扱った。その方が、病院にとってもメリットがあるとのことだった。彼の一件が世間に明るみに出れば、病院の監督責任が問われるからだ。医師免許のはく奪を逃れるために病院が後始末をして…

最終章 月

仕事帰り、僕はいつものように駅前のピアノを見に行った。そして、先客がいないのを確かめると、ぎこちない手つきで初めてピアノに触れた。鍵盤は、想像以上に重たかった。僕は何度も「ド」と思しき音を右手の人差し指で押さえた。大学生…

第十三章 警笛

すべてなんて、許されなくていい。ただ、ほんのひとしずく、認め合えるものがあれば、それだけで人は生きていけるのだ。時に過ちを犯しながら、傷つきながら、ボロボロになりながらだって、人は前に進める。前を向けなかったら、横を向く…

第十二章 共犯

すべてを話し終えた隼人は、深呼吸するとそのまま黙ってしまった。僕もまた、言葉を失っていた。マンデリンもホットミルクも、すっかり冷めてしまっていた。 そういうことだったのだ。ランパトカナルは、彼と失われた命を繋ぐ唯一のもの…

第十章 名前

対象から自分の一部へ。それはなんとも哲学的な体験だった。僕の中に棲みついていた孤独や傷が、まるごと肯定されていく感覚すらあった。こういうのを、もしかしたら人はぬくもりだとか呼ぶのだろうか。 悲しみが両手に満ちたら、それを…