ゼンマイを巻く

地元のミニコミ誌の取材依頼が来たのは、紫陽花たちが雨に濡れて彩りを増す時期のことだった。 はなみずき通りと名付けられた通りに面したこの店だが、流行のカフェとは違って年号が昭和の頃からほとんどスタイルを変えていない、自分で…

朝と灰

(1) 皆川先生が亡くなった。その一報をLINEで受けた夜、僕はタブレットにダウンロードした「ニューシネマパラダイス」を観ていた。トトとアルフレッドの熱い友情に名作の呼び声高い映画だが、僕にはいささか美しすぎるように感じ…

レイナちゃん

嘘だ。全部、嘘なんです。何もかも幻なんです。     午後9時の消灯から9時間はベッドから起き上がることができない。睡眠の確保のために、就寝前にはしこたま睡眠薬を飲まされるから。錠剤だけで腹が膨れそう…

エビフライ

エビフライを揚げていたら、油が跳ねて目に入りそうになった。麻衣子は慌てて洗面所に駆けて、夢中で顔を洗った。というか水で乱暴に何度も拭った。 やだ、どうしよう、跡がついたらやだ。 顔にシミなんて、まだ勘弁だ。 台所から鈍い…

置き去りバレンタイン

【カルテNo.3745 皆川亜樹(ミナガワアキ)】 21歳3カ月、女性。統合失調症。 大学生。入学当初より、一人暮らしの緊張や慣れない土地での暮らしに疲れ、不眠となる。 アパート近くの心療内科に二年間通院。一年ほど前から…

物語のはじめかた

シンデレラや白雪姫……「お姫様」は、女子の永遠の偶像だ。幼いころ、毎日寝る前に母親に童話を読んでもらっているうちに、比奈子はすっかり絵本に出てくるお姫様に憧れを抱くようになっていた。 比奈子が絵本など読まなくなった高校二…

逝夏

「まるでショパンに対する冒涜よ。そんな弾き方ってないわ」 僕の『幻想即興曲』を水玉はそう評した。 「そうかな」 僕はこみあげる感情と一緒に指先でG#を抑える。反論するわけではないのだが、僕にだってプライドの一片はあるから…

虫歯の国のアリス

やせ我慢を決め込んでいたけど、日増しに高まっていく歯の痛みに、芦花ありす(16歳、花の女子高生)は嫌々ながらついにその日、歯科医院のドアを叩いた。 『ハートデンタルクリニック』という、街はずれにある小さなクリニックである…