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風鈴

1.

ちりんちりんと軽やかな金属音が耳に心地よい。今日は少し風があるようだ。揺れる風鈴の姿こそ見えないが、季節が確実に巡っているのを感じることができる。風鈴はいつからあそこに飾ってあって、なぜ夏が過ぎても仕舞われないのかとその日の担当看護師に尋ねたことがあった。けれど、「さあ」と気のない返事をされただけだった。音が鬱陶しい患者もいるのでは、と主張してみたものの、「そうかもしれませんね」と流された。少なくとも私は気になります、と食い下がったが、「忙しいんで」と返されてしまった。

6時半の起床のアナウンスが流れるのを待ってから、私はベッドから身を起こした。睡眠時間の割に、頭は今日もしっかりと重たい。「ああ、よく寝た」と伸びをして目覚めるようなことはもう数年も経験していない。夜9時という小学生よりも早い就寝時間に入眠するために、しこたま睡眠薬を飲まされるためだ。

ハンドタオルを持ってナースステーションに声をかける。預けてある洗顔料を受け取るためだ。石鹸などの類は、異食の防止の観点からナースステーションで管理されることになっている。

「おはようございます。よく眠れた?」
「まあまあです」

この「まあまあ」というのはここで過ごすようになってから身につけた重要ワードの一つだ。ここで「あまり眠れていない」だの「眠りすぎてしまう」だの正直に伝えてしまえば、もれなくそのことが看護記録に記される。週に一度あるかないかの主治医の診察を経て、下手すれば薬が変更されてしまう。自分に合う薬というのはそう簡単には見つからないものだから、モルモットのごとく次々と別の薬を試されたのではたまったものではない。

洗面所で顔を洗う。洗顔料が流れてようやく頭が目覚めを受け入れていく。顔をあげると鏡越しに視線が合った。私はハンドタオルで顔を吹き、その視線に気づかないふりをした。

「おはよう」

視線の主に声をかけられても、私は軽く会釈しただけで、あとは無視するように自分の部屋に戻ろうとした。それでも、その男性患者はこちらの領域を侵すような勢いで話を続けた。

「眠れた?」

どうしてこう、ここの人々はひとの睡眠事情を知りたがるのだろう。私は若干の苛立ちとともにその声を振り切った。

就寝時のスウェット姿から普段着に着替える。今日は火曜日なので10時から作業療法があるのだ。普段着といっても同年代の女子が着るようなスカートやらレースのついたブラウスやらではない。露出度の控えめなカットソーにジーパン。寝癖の直らないショートカットに、もちろんノーメイク。花も恥じらう二十歳の秋、私の青春は精神科病院で過ぎようとしていた。

2.

院内でハロウィン祭があると聞いて、私は思わず顔をしかめた。知らせてくれたのは同室の星野さんで、彼女は嬉しそうに職員がワードで作成したらしいチラシを見せてくれた。

「毎年、楽しみにしてるの。結構盛り上がるのよ。キャンディー釣りもあったかしら」
「楽しいんですか、それ」
「昼間だからねえ。まあ、お酒が飲めたら最高なんだけど。でも、楽しいわよ。ゾンビナースのカラオケとか」
「本当に楽しいんですか」
「ええ」

星野さんはここの常連とでもいうべき存在で、退院したかと思えばすぐにまた入院を繰り返している。なぜそんなことをしているのか特段の興味はなかったが、病院側にとっても退院者の人数の実績を増やせるというメリットがあるらしいということを、患者同士の雑談の中で伝え聞いた。

ハロウィンか。ゾンビナースに昭和歌謡を歌われてもな。

夕飯の時間になって、見たことのない女性患者が私の隣の椅子を示しながら、遠慮がちに声をかけてきた。

「あの、ここいいですか」
「はい。特に席は決まっていないので」
「ありがとうございます」

白身魚のフライ、キャベツの千切り、切り干し大根の煮物、ワカメの味噌汁、たくあん、白米。温かいものは温かく、冷たいものは冷たく出される、最近の配食の技術は見事だ。それでも「美味しい」からは程遠い。完食しなければ下膳時に看護師にちくりと嫌味を言われる。それが面倒だった私は、いつも押し込むように食事を済ませていた。

消灯までの少しの間、デイルームでは予約ノートに書かれた番組が流れている。よく知らない俳優が主演のドラマなので、私は壁にもたれかかるようにしてCDプレーヤーをイヤホンで再生していた。

すると、先ほど声をかけてきた女性がこちらに会釈してきたので、私も軽く首肯した。

「何を聴いているんですか?」
「ビョークです」
「洋楽ですか?」
「アイスランドのアーティストです」

するとその女性は、私の隣に今度はことわりを入れることなくすとんと座った。

「素敵。行ってみたいな、アイスランド」
「……そうですか」

年齢なら三十路前だろうか、長く伸ばした黒髪がよく手入れされて艶めいている。スヌーピーのスウェット姿がちぐはぐに見えた。きちんと化粧すればしっかりとした美人だろう。

「私、今日からなんです」
「そうですか」
「不安で」

ストレートに感情を吐露できるのだから、大した不安ではないと私は感じた。それはそれでいいことだと思うので、私は「はあ」とだけ返した。

「学生さんですか?」

突然インタビューされても、私は返答に窮してしまう。大学の学籍が残っているかわからなかったし、いきなりプライバシーを晒すのもためらわれたからだ。

私は病棟で最年少だ。そのためか、年上の女性患者さんたちからよく世話を焼かれる。先述の星野さんとは親子ほども年齢が離れている。可愛がってもらえるのはありがたかったが、一人になりたい時は少し困った。そう、まさに今この瞬間のように。

「私、こういう場所にいるべきじゃない気がして」

女性は一方的に話し続ける。

「早く出たいな」
「おやすみなさい」

私はすっくと立ち上がると、一度深く頭を下げて自分の部屋に戻った。

3.

リハビリテーションと称して、病床のシーツ類は患者たちが自分で交換することになっている。私はこの作業が苦手で、特に敷布団のシーツ交換をいつも同室の患者さんが手伝ってくれていた。

「こうしてね、端っこの布を見つけたらそれをうまく片手でキープして」
「う、うん」

悪戦苦闘すること私を助けてくれているのは、もともと保育士だったという須川さんだ。

新しいシーツになると、確かに寝心地が良くなる気はする。だが、果たしてこれのどこがリハビリテーションなのかの説明は、これまでに一切ない。あったところでこじつけめいた弁明がされるだけだろう。わかっている、ここでは私たちは「そういう立場」なのだ。

木曜日の午後一時半過ぎ、私はデイルームで時間を潰していた。すっかり読み古された猫の写真集を広げて頬杖をつく。作業療法などのプログラムは午前中に集中しているので、午後はひたすら暇を持て余してしまう。

今日もそうやって時間が過ぎるのだろうと思っていたのだが、突如面会室から、空気をつんざくような女性の怒鳴り声が聞こえてきた。驚いて視線を向けると、男性看護師二人に抱えられるようにして、面会室からあの女性が出てきた。連行されていた、という表現のほうが相応しいかもしれない。

「一生恨んでやる! 絶対に許さない!」
「田辺さん、それ以上騒いだら保護室行きですよ」
看護師がそうたしなめても、田辺さんというその女性は鬼のような形相だ。
「あんたらに何がわかるのよ!」
「はいはい、みんなびっくりしてますから、とりあえずあっちに行きましょうね」

看護師の指さした先にはナースステーションがあり、そこでの「事情聴取」で対応を誤れば、彼女は確実に保護室送りだ。彼女の去った面会室を再び見ると、スーツ姿の男性がそそくさと出て行くところだった。

人生いろいろ、ってやつだろうか。

デイルームが騒がしくなってしまったので、私は自分の部屋に戻ることにした。6つのベッドの置かれた大部屋で私は過ごしている。そのうち右真ん中のベッドのカーテンが開放され、リネン類がきれいに折りたたまれている。ボストンバッグをパンパンにした星野さんが、声を弾ませて私にこう言った。

「退院なの」

何度目のですか、という言葉を私は飲み込んだ。

「おめでとうございます」
「心がこもってないわ」
「ハロウィン祭はいいんですか?」
「あんなもの、どうでもいいわよ」
「あはは」

この日は清秋と呼ぶに相応しい好天で、抜けるような青空に病棟の白い外壁が映えていた。「じゃあね」と星野さんが出ていく。その後ろ姿を見送る私に、田辺さんがゾンビの格好をして「可哀想に」などと言ってくるものだから、私は自分の中にくすぶる悔しさを焚きつけられたと感じて、「せめて人間になってよ」と言い返した。するとナースステーションの天井に設えられたミラーボールが光を乱反射させ、横一列に整列したナースたちが師長の合図でいっせいに私を指さして笑いはじめた。くすくす、と嘲笑する者、あっははと明け透けに馬鹿にする者、ふふふ、と憐れむ者、笑い方は十人十色だ。個性というのはこういうときに滲み出るのだ。私は「うるさい」と叫ぼうとした。しかし、喉がつかえてうまく発語ができない。目の奥がツンと痛んで、ぎゅっとまぶたを閉じられたのはいいが、次に目を開けたときに見えたのは、一面に広がるピアノの鍵盤だった。床も、天井も、四方の壁も、すべてがモノクロで満たされていた。やはり師長の「よーい!」という合図で、ゾンビナースたちがパッヘルベルのカノンを弾きはじめる。一糸乱れぬ演奏である。私が「やめて」と発しようと試みると、私の口からはカノンコードをたどるあの風鈴の音が漏れるだけだった。田辺さんはその調べにやがて斃され、鍵盤に横たわったままビョークの「ペイガン・ポエトリー」を歌っている。鍵盤は波打って田辺さんを徐々に飲み込んでいく。田辺さんはほろほろと泣いていた。そうじゃない、泣きたいのは私のほうなのに。

カノンの演奏が終わると、かしゃんとなにかが壊れる音がした。私はようやく許されたまばたきをすると、「ありきたり」と言葉を発することができた。田辺さんだった抜け殻はきらきらと紫色に輝いて、巨大なアメジストみたいだった。私もこうなれたら、あの小うるさい風鈴を撤去することが叶うだろうか。

レイナちゃん

嘘だ。全部、嘘なんです。何もかも幻なんです。

 

 

午後9時の消灯から9時間はベッドから起き上がることができない。睡眠の確保のために、就寝前にはしこたま睡眠薬を飲まされるから。錠剤だけで腹が膨れそうな量を、ぬるい水で流し込むのだ。

そのあと、「おやすみなさい」といっても夜勤の看護師は挨拶を返すことはなく、「口」とだけいって口を大きく開けるよう促す。きちんと全部の薬を飲んだか確認するためだ。僕がそれに応じると、面倒そうに口内を見た看護師は「はい」とだけいって次の患者の対応に移る。いつものことだ。

ぺたぺたとスリッパで擦り気味に廊下を歩く。薬さえ効いてしまえば、あとは横になって意識を手放すだけだ。余計なことを考えずに済む。プラスチック製のカップにデイルームに置かれた給茶器から水を注いで、ほんの少し唇を湿らせた。年中エアコンがきいているのはいいが、そのせいで乾燥がひどく唇がしょっちゅう割れてしまうのだ。

「おやすみなさい」

こちらにあいさつをしてきたのは、僕よりひとまわり年上と思しき隣の部屋の男性患者だった。

「おやすみなさい」

僕が返事をすると、その男性は嬉しそうに会釈して部屋に戻っていった。見かけない顔だ。入院して間もないのかもしれない。

***

その日の朝も僕は鈍い頭痛とともに目を覚ました。中途覚醒がなくてよかった。追加の睡眠薬の頓服を求めてナースステーションに行ったところで、夜勤で機嫌の悪い看護師から嫌味を言われるか聞こえよがしにため息をつかれるのが関の山だからだ。

食事は朝食が7時半。デイルームのテーブルの席は決められており、食事時だけ名札が置かれる。配膳する看護助手に名前を呼ばれ、一人ひとりがトレーを受け取り、「いただきます」もなく各自黙々と食べ始める。

ブロイラーみたいだ、と僕は内心で自嘲する。何にも迷わず、惑うことも悩むことなく、目の前の栄養バランスの優れた食事を残さずに食べることだけが、この時の患者たちのミッションとなる。

「やだあ、私、これ嫌い!」

「私はこれが嫌」

若い女性患者同士が嫌いなおかずを交換しあうのを見つけた看護師が、「勝手なことをしないで!」と二人を叱責した。一人は子どものように泣きだし、もう一人は怒りのあまりスープをトレーにひっくり返した。

近くにいた看護助手がモップをもってきて床にこぼされた液体を拭き取る。泣いている女性が、「私は、悪くないのよう」としゃくりあげると、スープをぶちまけたもう片方の女性はいよいよ気まずくなり、「あんたが椎茸食べられないっていったからいけないんでしょ!」と怒鳴った。それでなにがしかのスイッチが入ってしまったらしく、その女性は何語かわからない、そもそも言語なのかもわからない金切り声を上げはじめた。

その場の他の患者たちは見て見ぬふりに徹し、自分のトレーにのった皿を空にすることに集中した。そうせざるをえなかった。さもないと——

「はいはい。いい子はあっちに行きましょうねー」

明らかに腕っぷしのいい男性看護師が二名駆けつけて、喚きちらす女性患者の肩と腕をがっしりと掴む。まるで猛獣の捕獲だ。

「放して! 放してよ!」

「みんなの迷惑だからねー、あっちに行こうねー」

「あっち」とは、すなわち保護室という名の独房のことだ。彼女は今からそこで「お仕置き」を受ける。

「あーあ」

誰かがぽつんと呟いた。先ほどまで泣きじゃくっていたほうの女性患者は、椎茸だけを器用に残してあとは全てを食べ切っていた。

「食事は残さないでください」

看護助手にそう言われ、彼女がまた泣きそうになるのを見た看護師長が「もういいわ」と大きくため息をついた。

確か泣いたほうの女性は最近入院してきたはずだ。僕はちらりとそちらを見たが、一瞬彼女の目尻が下がっているように見えたので、すぐに視線を逸らし、ぬるくなった野菜のスープを飲み干した。他人事としてやり過ごす。ここではそんなことが肝要なのだ。

***

ラジオ体操ののち作業療法の時間になると、曜日によって決められた患者が別部屋に集められる。めいめいに塗り絵や書道、折り紙などをしているのだが、僕は何をするでもなく、窓辺で初夏の日差しを受けて萌える院内の樹々の葉が風にそよぐのを眺めていた。

「これ、見てもらえませんか」

僕に話しかけてきたのは、先日の就寝前に挨拶を交わした男性だった。男性はぬり絵をしていたのだが、それはいわゆる大人向けの難易度の高いもので、非常に細かい絵柄に緻密かつ丁寧に色が配置されている。

「結城さん、すごいじゃないですか」

返したのは僕ではない。近くにいた作業療法士だった。結城と呼ばれた男性は軽く会釈して、やはり僕にぬり絵の感想を求めた。

僕はその絵をじっと見つめた。それは自傷防止のために先端の丸くされた色鉛筆で仕上げたとは思えないほどタッチが力強く、また洗練されていた。

「どうしたらそんな風に塗れるんですか」

僕が興味を示すと、結城は嬉しそうに答えた。

「塗る前の線たちが、『優しく塗ってくれ』ってリクエストしてくれるんです。だから、それに応えてあげたんです」

「声がしたんです?」

「ええ」

そんなことは、ここではよく話される経験だ。しかし結城のように、嬉しそうに話す患者は珍しいと僕は思った。

「それ、納涼祭で飾りますね。預かります」

作業療法士が結城本人の許諾も得ずにぬり絵を回収し、鍵のかかったキャビネットにしまってしまう。だが結城は終始にこにこしながら、

「また、塗ればいいですから」

と、作業療法士を睨みつける僕をどこか説得するようにいった。

***

売店で欲しいものを買い物伝票に記入し、病棟スタッフに代わりに買いに行ってもらって、その物品を支給される。そこから手数料が引かれるだけではなく、「管理費」の名目で日額数十円をとられる。それを搾取と呼ばずしてなんといおうか。

僕は有名作家の新作小説をお願いしていた。僕のすぐ後ろで順番を待っていたのが結城で、クレヨンを受け取っていた。クレヨンは異食の対象になりやすいため、使用後には必ず看護師に預けるように言われていた。

僕はデイルームに戻り、さっそく読書をはじめた。その隣に座って、結城はチラシの裏にクレヨンで絵を描きはじめた。結城の手つきは慣れたものだった。その軌跡には躊躇いや雑念がない。あっという間に、幼い女の子が柔らかく微笑んでいる絵が描かれた。

「娘です。レイナっていいます」

「かわいいですね」

「髪がくせっ毛なんです。目元は、俺に似たってよくいわれます」

絵を見つめる視線は、娘を想う父親のそれだった。

聞けば、結城はサラリーマンとの兼業イラストレーターとして働いていたという。ある日突然、絵がこちらに話しかけてくるようになったのでそれと会話していたところ、その姿を発見した家族に勧められて、少しの間、ここで休養することになったのだと、笑いながら教えてくれた。

***

病院内の納涼祭は職員の福利厚生も兼ねており、リハビリという位置づけで患者たちは出みせでやれ焼きそばだのフライドポテトだのの盛りつけに駆り出される。

ソフトクリームの渦を巻くのに件の泣き虫女性患者が苦戦していると、若い看護師たちがケラケラ笑って「早くしなさいよー」「そんなこと言ったらまた泣いちゃうんじゃない?」などとうそぶいていた。

僕と結城は、祭の会場となった駐車場の一番奥に設けられた「みんなの作品展」ブースを担当させられた。そこで日頃の作業療法で作ったぬり絵や工作品を飾っていたのだが、その中に、あの日結城が見せてくれた絵がないことに気がついた。

「あの、見当たらない作品があるんですが」

僕が尋ねても、ブースの監視をしていた作業療法士は「そうですか」と返すだけだった。結城は、それでもにこにこと笑みを浮かべていた。

***

それから一ヶ月ほどして、結城に外泊の許可が下りた。

小ぶりのリュックサックを携え、結城は「ちょっと、行ってきます」と僕にだけ挨拶をした。

「もうすぐ、レイナの誕生日なんです」

それを聞いた僕はとても、嫉妬心を抑えられなかった。結城には、自分と違って帰る場所がある。そのことが、どうにも虚しくてたまらなかった。

僕は会釈する結城を無視した。それでもなお、結城は笑顔でこちらに手を振りながら病棟を去っていった。

——なぜ、あの時僕は、彼を引き留められなかったのだろう。

己の弱さが、この先ずっと自分を苛むことになろうとは、このときの僕にはまったく想像できなかった。

ただ、ひたすらに虚しかった。悲しかった。……寂しかった。しかもそれらを口に出すことすらできなかった苦悩から、僕はひたすら目を背けていた。

しかし、そんなことは、しょせん卑劣で身勝手な言い訳にすぎないのだ。

それから、結城が病棟に戻ってくることはなかった。

外泊期間があまりに長いので、不自然に思って結城の携帯電話に病棟の公衆電話から何度も電話をかけた。個人情報のやりとりは自己責任として放置されていたため、僕たちは互いの携帯電話番号を交換していた。

僕の携帯電話は管理上の理由で没収されていたし、閉鎖病棟は外へ自由に出ることもできないので、ナースステーションの前の公衆電話からかける以外の方法がなかったのだ。

結城の携帯電話は留守電にもならなかった。だから何度もかけた。いつか出てくれると信じていたから。

しかし、それを病棟スタッフたちにひどく咎められた。時として口汚く罵られた。

喉の奥が焼けるような不快感を堪えながら、彼ら彼女らの罵声を背に受けても、毎日公衆電話から結城の番号をプッシュし続けた。しかし、ついに電話が繋がることはなかった。

***

ある時、隣の病室で男性患者同士の喧嘩が起きた。看護師にいわれて仲裁するために僕はその部屋に入った。それで初めて気がついた。6人部屋のベッドに空きはなかったはずだったが、一番奥の空間に洗濯済みのリネンが畳まれて置きっぱなしになっていたのだ。結城は戻ってくるんだから、他の患者が(リハビリと称して)シーツ類を敷いておくはずだ。僕は失礼を顧みずに、間仕切りのカーテンの中へ顔を突っ込んだ。

結城が使っていたはずのベッドには、見知らぬ老年男性が、直接マットレスの上で、オムツをつけた姿で昼寝をしていた。

どういうことかと尋ねても、ここぞとばかりに「個人情報だから」と医師や看護師たちには取り合ってもらえなかった。

結城はなし崩し的に退院したのかもしれない、と僕はどうにか自分を納得させようとした。もしかしたらどこかの街で、レイナちゃんに得意のイラストを描いてあげているんだろう。

あの人は、一足先にここから出られたんだ、と。

***

その後、結城が作業療法の部屋に残していったあのぬり絵が、年末の「大掃除」のプログラム中に出てきた。作業療法士が即座に捨てようとしたので、それをどうにか阻止して僕がそれを引き取った。

デイルームに戻ってそれを広げたところ、近くにいた看護師たちが「あっ」と声をあげた。

「やだ、あれってもしかして」

「ああ、あの人の? JRに飛びこんじゃった」

僕は視界が一気にぐにゃりと歪むのを止められなかった。腹の底から激しい怒りが込み上げてきたことまでは、記憶にある。

それからしばらく先のことは、よく覚えていない。気がついたら保護室の中にいて、コンクリートでできた灰色の天井を見上げていた。

この灰色に、結城ならどんな色彩を添えてくれるだろう。そんなことを考える資格すら、僕にはもう、ないように感じられた。

右腕にじわりと痺れを覚えたので視線をやると、ガーゼがあてられていた。おそらく、きつめの鎮静剤を注射されたのだろう。頭の鈍痛は相当ひどく、僕に整然とした思考を許さなかった。

ここは「心を癒す」場所などではないと身をもって理解していた。疲れ傷つき果てた人々が「正常」とされるものからの逸脱を余儀なくされた結果として、社会から隔離される場所に他ならないと。

散々傷ついてたどり着いた先で、またしてもその傷をえぐられる。そんな不条理が、この社会では「医療」としてまかり通っているのだ。

保護室から一般病室に移動が許可された日、僕はふらつく足をどうにか運んで自分のベッドへ戻った。頼んでもいないのに持ち物が整頓されていた。嫌な予感がして、床頭台の引き出しを開けるとそこには黒のボールペンで全面に「×」をつけられたレイナちゃんの似顔絵が転がっていた。

僕は薬のせいで怒りを抱く気力も奪われていたので、沸き上がる虚しさにどうにか耐えながらその絵を携えて、のろのろとナースステーションへ向かった。

ノートパソコンに向かって気だるげに看護日誌をつけていた看護師に向かい、僕はその無残になった一枚をみせた。

「これ、どういうことでしょうか」

「なにが?」

視線も合わせずに看護師がいう。異食や自傷を避けるために病棟内では患者たちにボールペンの所持は一切認められていない。

だが、レイナちゃんの顔を汚したのが誰であれ、この絵を守れなかった僕が悪いことには変わりがない。

「……なんでも、ないです」

僕が踵を返して去ろうとすると、奥の椅子でふんぞり返っていた看護師長が、やはりだるそうに顔を起こした。

「そういうの、もうやめたほうがいいわよ」

「……はい?」

「あの人には娘なんていなかったの。妄想よ妄想。そういうのに、いつまでも付き合ったって、なんか意味ある?」

ここは、心を癒すどころか、自分に尊厳というものがあることを徹底的に忘れさせるための場所だ。このとき、僕はそれを痛みとして実感した。

僕がうつむいて立ち尽くしていると、看護師長は脅すような口調でこういった。

「なに、保護室がそんなに恋しいの?」

僕はそれから黙りこんだままデイルームにしつらえられたソファに身を沈めていた。するとその隣に、例の泣き虫女性患者がやってきて、唐突に僕にこういった。

「死にたいっていうと『それは生きたい、の裏返しだ』とか、イミフなことカウンセラーとかに言われるじゃん。でも死にたいはそのまま死にたいって意味じゃん。でもそれを口にすると薬がガンガン増えていくでしょ? で、死ぬことについてさえ考えられなくなる」

「……そうかもしれませんね」

「その絵、もったいないね」

女性患者が無残になったレイナちゃんの似顔絵を指さした。

「びっくりしたよ、あなたがあんなことする人だなんて。でもまあ、気持ちはわかるけど」

「『あんなこと』?」

「ほら、あなたが保護室行きになった時のこと。え、覚えてないの? デイルームにいたみんな見てたよ。あなた、近くにいた看護師につかみかかってボールペン奪って、その絵にでっかくバツジルシつけちゃったじゃん。もったいないなーって思った」

それだけいって、その女性患者は去っていった。僕は強烈な罪悪感を覚え、何度か頭を横に振った。それだけで激しいめまいに襲われた。このままもう、なにもかも終わってしまえと心の底から願った。

けれど、その願いひとつすら叶えることは許されない。光などには到底、手の届くはずもない。そういう場所に、僕は居る。

嘘だ。全部、嘘なんです。何もかも幻なんです。

そう言えたなら、どんなに救われるだろう。

〈終〉