風鈴

1.

ちりんちりんと軽やかな金属音が耳に心地よい。今日は少し風があるようだ。揺れる風鈴の姿こそ見えないが、季節が確実に巡っているのを感じることができる。風鈴はいつからあそこに飾ってあって、なぜ夏が過ぎても仕舞われないのかとその日の担当看護師に尋ねたことがあった。けれど、「さあ」と気のない返事をされただけだった。音が鬱陶しい患者もいるのでは、と主張してみたものの、「そうかもしれませんね」と流された。少なくとも私は気になります、と食い下がったが、「忙しいんで」と返されてしまった。

6時半の起床のアナウンスが流れるのを待ってから、私はベッドから身を起こした。睡眠時間の割に、頭は今日もしっかりと重たい。「ああ、よく寝た」と伸びをして目覚めるようなことはもう数年も経験していない。夜9時という小学生よりも早い就寝時間に入眠するために、しこたま睡眠薬を飲まされるためだ。

ハンドタオルを持ってナースステーションに声をかける。預けてある洗顔料を受け取るためだ。石鹸などの類は、異食の防止の観点からナースステーションで管理されることになっている。

「おはようございます。よく眠れた?」
「まあまあです」

この「まあまあ」というのはここで過ごすようになってから身につけた重要ワードの一つだ。ここで「あまり眠れていない」だの「眠りすぎてしまう」だの正直に伝えてしまえば、もれなくそのことが看護記録に記される。週に一度あるかないかの主治医の診察を経て、下手すれば薬が変更されてしまう。自分に合う薬というのはそう簡単には見つからないものだから、モルモットのごとく次々と別の薬を試されたのではたまったものではない。

洗面所で顔を洗う。洗顔料が流れてようやく頭が目覚めを受け入れていく。顔をあげると鏡越しに視線が合った。私はハンドタオルで顔を吹き、その視線に気づかないふりをした。

「おはよう」

視線の主に声をかけられても、私は軽く会釈しただけで、あとは無視するように自分の部屋に戻ろうとした。それでも、その男性患者はこちらの領域を侵すような勢いで話を続けた。

「眠れた?」

どうしてこう、ここの人々はひとの睡眠事情を知りたがるのだろう。私は若干の苛立ちとともにその声を振り切った。

就寝時のスウェット姿から普段着に着替える。今日は火曜日なので10時から作業療法があるのだ。普段着といっても同年代の女子が着るようなスカートやらレースのついたブラウスやらではない。露出度の控えめなカットソーにジーパン。寝癖の直らないショートカットに、もちろんノーメイク。花も恥じらう二十歳の秋、私の青春は精神科病院で過ぎようとしていた。

2.

院内でハロウィン祭があると聞いて、私は思わず顔をしかめた。知らせてくれたのは同室の星野さんで、彼女は嬉しそうに職員がワードで作成したらしいチラシを見せてくれた。

「毎年、楽しみにしてるの。結構盛り上がるのよ。キャンディー釣りもあったかしら」
「楽しいんですか、それ」
「昼間だからねえ。まあ、お酒が飲めたら最高なんだけど。でも、楽しいわよ。ゾンビナースのカラオケとか」
「本当に楽しいんですか」
「ええ」

星野さんはここの常連とでもいうべき存在で、退院したかと思えばすぐにまた入院を繰り返している。なぜそんなことをしているのか特段の興味はなかったが、病院側にとっても退院者の人数の実績を増やせるというメリットがあるらしいということを、患者同士の雑談の中で伝え聞いた。

ハロウィンか。ゾンビナースに昭和歌謡を歌われてもな。

夕飯の時間になって、見たことのない女性患者が私の隣の椅子を示しながら、遠慮がちに声をかけてきた。

「あの、ここいいですか」
「はい。特に席は決まっていないので」
「ありがとうございます」

白身魚のフライ、キャベツの千切り、切り干し大根の煮物、ワカメの味噌汁、たくあん、白米。温かいものは温かく、冷たいものは冷たく出される、最近の配食の技術は見事だ。それでも「美味しい」からは程遠い。完食しなければ下膳時に看護師にちくりと嫌味を言われる。それが面倒だった私は、いつも押し込むように食事を済ませていた。

消灯までの少しの間、デイルームでは予約ノートに書かれた番組が流れている。よく知らない俳優が主演のドラマなので、私は壁にもたれかかるようにしてCDプレーヤーをイヤホンで再生していた。

すると、先ほど声をかけてきた女性がこちらに会釈してきたので、私も軽く首肯した。

「何を聴いているんですか?」
「ビョークです」
「洋楽ですか?」
「アイスランドのアーティストです」

するとその女性は、私の隣に今度はことわりを入れることなくすとんと座った。

「素敵。行ってみたいな、アイスランド」
「……そうですか」

年齢なら三十路前だろうか、長く伸ばした黒髪がよく手入れされて艶めいている。スヌーピーのスウェット姿がちぐはぐに見えた。きちんと化粧すればしっかりとした美人だろう。

「私、今日からなんです」
「そうですか」
「不安で」

ストレートに感情を吐露できるのだから、大した不安ではないと私は感じた。それはそれでいいことだと思うので、私は「はあ」とだけ返した。

「学生さんですか?」

突然インタビューされても、私は返答に窮してしまう。大学の学籍が残っているかわからなかったし、いきなりプライバシーを晒すのもためらわれたからだ。

私は病棟で最年少だ。そのためか、年上の女性患者さんたちからよく世話を焼かれる。先述の星野さんとは親子ほども年齢が離れている。可愛がってもらえるのはありがたかったが、一人になりたい時は少し困った。そう、まさに今この瞬間のように。

「私、こういう場所にいるべきじゃない気がして」

女性は一方的に話し続ける。

「早く出たいな」
「おやすみなさい」

私はすっくと立ち上がると、一度深く頭を下げて自分の部屋に戻った。

3.

リハビリテーションと称して、病床のシーツ類は患者たちが自分で交換することになっている。私はこの作業が苦手で、特に敷布団のシーツ交換をいつも同室の患者さんが手伝ってくれていた。

「こうしてね、端っこの布を見つけたらそれをうまく片手でキープして」
「う、うん」

悪戦苦闘すること私を助けてくれているのは、もともと保育士だったという須川さんだ。

新しいシーツになると、確かに寝心地が良くなる気はする。だが、果たしてこれのどこがリハビリテーションなのかの説明は、これまでに一切ない。あったところでこじつけめいた弁明がされるだけだろう。わかっている、ここでは私たちは「そういう立場」なのだ。

木曜日の午後一時半過ぎ、私はデイルームで時間を潰していた。すっかり読み古された猫の写真集を広げて頬杖をつく。作業療法などのプログラムは午前中に集中しているので、午後はひたすら暇を持て余してしまう。

今日もそうやって時間が過ぎるのだろうと思っていたのだが、突如面会室から、空気をつんざくような女性の怒鳴り声が聞こえてきた。驚いて視線を向けると、男性看護師二人に抱えられるようにして、面会室からあの女性が出てきた。連行されていた、という表現のほうが相応しいかもしれない。

「一生恨んでやる! 絶対に許さない!」
「田辺さん、それ以上騒いだら保護室行きですよ」
看護師がそうたしなめても、田辺さんというその女性は鬼のような形相だ。
「あんたらに何がわかるのよ!」
「はいはい、みんなびっくりしてますから、とりあえずあっちに行きましょうね」

看護師の指さした先にはナースステーションがあり、そこでの「事情聴取」で対応を誤れば、彼女は確実に保護室送りだ。彼女の去った面会室を再び見ると、スーツ姿の男性がそそくさと出て行くところだった。

人生いろいろ、ってやつだろうか。

デイルームが騒がしくなってしまったので、私は自分の部屋に戻ることにした。6つのベッドの置かれた大部屋で私は過ごしている。そのうち右真ん中のベッドのカーテンが開放され、リネン類がきれいに折りたたまれている。ボストンバッグをパンパンにした星野さんが、声を弾ませて私にこう言った。

「退院なの」

何度目のですか、という言葉を私は飲み込んだ。

「おめでとうございます」
「心がこもってないわ」
「ハロウィン祭はいいんですか?」
「あんなもの、どうでもいいわよ」
「あはは」

この日は清秋と呼ぶに相応しい好天で、抜けるような青空に病棟の白い外壁が映えていた。「じゃあね」と星野さんが出ていく。その後ろ姿を見送る私に、田辺さんがゾンビの格好をして「可哀想に」などと言ってくるものだから、私は自分の中にくすぶる悔しさを焚きつけられたと感じて、「せめて人間になってよ」と言い返した。するとナースステーションの天井に設えられたミラーボールが光を乱反射させ、横一列に整列したナースたちが師長の合図でいっせいに私を指さして笑いはじめた。くすくす、と嘲笑する者、あっははと明け透けに馬鹿にする者、ふふふ、と憐れむ者、笑い方は十人十色だ。個性というのはこういうときに滲み出るのだ。私は「うるさい」と叫ぼうとした。しかし、喉がつかえてうまく発語ができない。目の奥がツンと痛んで、ぎゅっとまぶたを閉じられたのはいいが、次に目を開けたときに見えたのは、一面に広がるピアノの鍵盤だった。床も、天井も、四方の壁も、すべてがモノクロで満たされていた。やはり師長の「よーい!」という合図で、ゾンビナースたちがパッヘルベルのカノンを弾きはじめる。一糸乱れぬ演奏である。私が「やめて」と発しようと試みると、私の口からはカノンコードをたどるあの風鈴の音が漏れるだけだった。田辺さんはその調べにやがて斃され、鍵盤に横たわったままビョークの「ペイガン・ポエトリー」を歌っている。鍵盤は波打って田辺さんを徐々に飲み込んでいく。田辺さんはほろほろと泣いていた。そうじゃない、泣きたいのは私のほうなのに。

カノンの演奏が終わると、かしゃんとなにかが壊れる音がした。私はようやく許されたまばたきをすると、「ありきたり」と言葉を発することができた。田辺さんだった抜け殻はきらきらと紫色に輝いて、巨大なアメジストみたいだった。私もこうなれたら、あの小うるさい風鈴を撤去することが叶うだろうか。