「アリスの栞」でのアルバイトが決まった旨を、さっそく真弓は両親に報告した。
「うん、明日から。家賃はカバーできそうだよ。卒業前には海外旅行にも行けるってさ」
電話口の母親は、「それはすごいね」と笑い、
「体に気をつけてね。無理は、ある程度するように。今しかできないんだから」
そう真弓を激励して電話を切った。
木曜日は午前の授業しか履修していなかった真弓は、二限の終業のチャイムが鳴るといそいそと席を立った。
「あれ、学食行かないの?」
最近友達になったばかりの皆本香織が真弓に声をかける。真弓はうん、と元気よく頷いた。
「これからバイト。初出勤!」
「そうなんだ。でも、せめて何かお腹に入れてったほうがいいよ」
「大丈夫。まかないが出るから」
「えっ?」
「今度、顔だしてよ。暁町の『アリスの栞』ってとこだから」
そう言うと、真弓は軽快な足取りで教室を後にした。
真弓の好きな、緑色の自転車を転がして街を駆ける。新緑には少し早いが、空気が新鮮で美味しい。ここが東京とは思えない爽やかな風を浴びながら、真弓は「アリスの栞」へと向かった。
「こんにちは」
真弓がドアを開けると、ベルがカランコロンと鳴る。ドア近くにあるレジの前で中野がマグカップを磨いていた。
「あ、真弓ちゃん。よろしくね」
「はい」
「昼食は済ませた?」
「いいえ」
それを聞いた中野はニッと笑い、
「それは良かった」
そう言ってキッチンにさがると、手際よく何かをトントン刻み始めた。
「ロッカーは二階だから、そこに荷物置いて、エプロンつけてくれる?」
「あ、はい」
木造の階段を上ると、少しだけ軋む音がする。古民家を改装したとは聞いていたが、なかなか味わい深い雰囲気だ。
二階のカフェスペースに入ると、すでに先客がいた。カフェタイムはまだのはずなのに。
「い、いらっしゃいませ……」
真弓がぎこちなく声をかけても、その客は反応しない。それもそうだ、その人物はヘッドフォンをしているのだから。
(って、あれ?)
真弓は動揺した。この間の、あの、「イケメン落丁さん」だ。どうやら今日はヘッドフォンの充電は切れていないらしい。こちらに気づくそぶりもなく、じっと本を読んでいる。
しかし、それを気にするよりも空腹が勝ってしまった真弓は、ぺこりと頭を下げるとエプロンをつけて一階へ下りた。
「あ、なかなか似合うじゃない」と中野は満足げだ。
「ありがとうございます」
先程からいい香りがしている。ケチャップの少し焦げた、優しいにおい。
中野も嬉しそうに頷く。真弓は自ら進んで、感想を述べ始めた。
「パスタがあえてアルデンテじゃないところ、昭和っぽい感じがして好きです。あ、昭和はよく知らないんですけど。ケチャップって炒めても最強ですよね」
「うんうん」
「あと、なんといっても玉ねぎですね! 甘くて、生で食べると少し辛くて、バランスがとってもいいと思います」
中野はカウンターで頬杖をついて、「真弓ちゃん、食レポ上手いね」と少し茶化すように言うので、真弓はハッとして、赤面した。
「スミマセン……」
「謝ることじゃないよ、別に」
と、そこに別の声が割り込んできた。
「謝ることですよ」
「へっ?」
真弓が驚いて振り返ると、階段にはやや不機嫌な顔をした「イケメン落丁さん」が立っていた。
第三話 マフィン に続く