第三話 マフィン

「あの、スミマセン……お客様……その……」

真弓が口ごもっていると、中野は「あーあーあー、」と手をひらひらさせて、

「真弓ちゃん、気にしなくていいよ。よくあることだから」

とフォローに入ってくれた。

「え、でも」
「気にしてもしょうがないっていうか……。ま、そのうちわかるよ」
「……?」

青年はぶっきらぼうな口調で中野に要求をした。

「マスター、充電器貸して。最近あまりヘッドフォンの電池持ちが良くないんだ」
「バッテリー、寿命じゃないの?」
「かもね」

コードと充電器を受け取ると、彼は二階に戻るのかと思いきや、急に真弓の方を見て声をかけてきた。

「あのさ」
「はい」
「食レポ、とかそういうの別にいいから。ちょっと声が甲高くてうるさい。読書の邪魔」
「え……」

そう言い残して、呆然とする真弓をよそに二階に去っていった。

「え、あ、え?」

戸惑う真弓をなだめるように、中野が肩をすくめた。

「いつものことだから。本気で、気にしないでいいから」
「あの……」

真弓は少し聞きづらいなと思いつつも、思い切って問うてみた。

「あの方、マスターの、息子さんですか」

中野は首を横に振って、ひょうひょうと返答する。

「いや。どちらかというと、逆かな」
「???」

真弓の脳内を疑問符が支配する。しかし、ボーっともしていられない。今日は初出勤、覚えることがてんこもりなのだ。中野はさっそくアルバイトの指南に入った。

「オーダーは、メニューにそれぞれ略称があって……」
「はいっ」

真弓はエプロンのポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。

「例えばアイスコーヒーは伝票に『I.C』。紅茶を頼まれたら、必ずストレートの『S』かミルクの『M』かレモンの『L』を書き添えること」
「はいっ」
「マフィンは2種類。プレーンとベリーね。これはベリーの場合にだけ『B』って書いて」
「はいっ」
「真弓ちゃんさ」
「はいっ」
「返事、元気が良くていいねぇ」

唐突に褒められたものだから、真弓は驚きこそしたもののすぐに嬉しくなって、

「ナポリタンが美味しかったからです、きっと」

そう伝えた。その言葉に中野はアハハ、と声を上げて笑った。

「そうそう、お手拭きは水と一緒にね。テーブルには一輪挿しがあるから、花をかえるのも大事な仕事だよ」
「はいっ!」

憧れのカフェでのアルバイト。もちろん緊張もするが、念願のカフェデビューした自分に、少し酔っている真弓であった。

「アリスの栞」は一階が本屋、二階がカフェスペースとなっている。そこでお茶などを飲みながら購入した本をすぐに読むことができるのだ。14時を過ぎると、早速初老の男性がやってきた。

「マスター、いつものね」

常連なのだろう。中野は「はいよー」と言って何やら準備を始めるが、『いつもの』では真弓に理解できるわけもない。中野はすかさずそれを察知し、

「あ、そうそう。ご近所のパン屋さんの飯岡さん。うちで出してるパンを卸してくれてるの」
「そうなんですか。はじめまして」

恭しくぺこりと真弓がこうべを垂れると、飯岡さんは朗らかに笑った。

「新人さん? 頑張ってね」
「ありがとうございます!」

『いつもの』とはマフィンとホットコーヒーのセットだった。真弓は教わった通りに伝票に『マフィン、H.C』と書く。本当に、お仕事デビューだ。少し文字が震えたが、それはご愛敬だろう。

カウンターにマフィンとホットコーヒーが準備される。それを飯岡さんのいる二階まで運ぶのだ。

(なんだか、本当にカフェ女子って感じ!)

と、真弓はすっかり舞い上がっていた。

階段をゆっくりと上がって、飯岡さんの座っているテーブルまで運ぶ。一丁前に、「お待たせいたしました」などと言ってみる。

「はい、ありがとう」

飯岡さんはドストエフスキーを読みながら軽く会釈した。真弓は飯岡さんの本を少しだけ覗き込み、(難しそう。読んだことないや)と視線を外した。飯岡さんが静かにコーヒーをすする音が店内に響く。

ふと、真弓は二階に飯岡さんしかいないことに気付いた。

「あれ?」

イケメン落丁さんが、いない。いつの間に外へ? 気づかなかった。

「ん、どうかした?」

飯岡が問いかけるが、真弓は首をふるふると振って、「いえ、なんでもないです」と答えるほかなかった。

第四話 カフェラテ に続く