悲しいニュースが流れると、彼はグラス一杯の水を飲む。まるで厳かなルーティンのように、蛇口をひねる音がすると、私に微かな焦燥が生まれる。
私たちの知らない街で、私たちの知らない人が殺害されたらしい。事実がこれでもかと粉飾されたニュースが垂れ流されるワイドショーを観ながら、彼は「暇つぶしにもならないね」とつぶやいた。
誰かが誰かに殺された。それは悲しい出来事のはずなのに、他人事であるという現実が、私たちの目の前に転がる。ころんと転がって、そのままどこかへ消えていく。まるで風の前の塵だ。
テレビの画面のなかでコメンテーターが顔を真っ赤にして「正論」を視聴者に叩きつけている。彼はもう一杯グラスに水を注ぐと、それを一気に飲み干してから、リモコンでテレビの電源を切った。
「嫌な事件」という私の言葉に対し、彼は「そう」とつまらなそうに反応した。
「まるで嫌じゃない事件があるみたいだね」
「そうじゃない。でも殺人なんて、良くないと思う」
「僕にそれを言う?」
「ん……」
私は継げる二の句を失う。今、私の目の前にいるのは、彼であって彼ではない。彼を支配している人格は、人を手にかけたことのある人物のそれである。
しかしながら、彼に対して私は恐怖心の類を抱いたことがない。なぜなら、彼は私を大切に想ってくれているから——まるで恋人のように。
彼が手招くので、私は素直に彼のとなりに座る。ソファが小さな軋みを上げた。
「悲しい?」
「別に」
「雪は、正直だね」
彼が私の髪の毛を、細い指で撫ぜる。その腕とクロスさせるように、私は彼のさらさらした前髪に触れる。私たちはそのまま唇を重ねた。その直後、一瞬だけ彼は脱力し、私にもたれかかってきた。私は彼の肩を抱くと、壁掛け時計の秒針が進む音に耳を澄ませた。
それから5秒後、うっすらと目を開けた彼は私がそばにいるのに気づくと、ぬいぐるみを抱きしめるように私にしがみついた。
「怖い夢でもみた?」
「うん」
揺れる、影と影。窓から差しこんだ斜陽がふたりの顔を浮かび上がらせている。隣家がつけているラジオから、夕方のニュースが漏れ聞こえてきた。
「本日未明、渋谷区初台のカラオケ店で発生した殺人事件について、警視庁は午後、被害者の元交際相手から任意で事情聴取をしており……」
悲しい、というのはきっと嘘だ。事件に心を痛めている、というわかりやすい像を描きたがっているだけの、いわば欺瞞だ。
「彼」はそんな私の浅ましさをとうに見抜いている。私には、そんな「彼」の怒りの発露としてのキスを拒む権利など、存在しないように思われた。
だって、事件がどこまでも他人事なのは、ふたりにとって真実だから。
シンクに置かれたグラスに西陽があたって、水滴が光を乱反射させる。私たちは、まるで恋人のように、これからもこの街で暮らすのだろう。絶望なんて、する暇もなく。