薫風

澄んだ空気を鼻から吸い込むと、甘い花のにおいがした。つつじだろうか、くちなしだろうか。草木が生い茂って見えないが、近くには小川が流れているらしく、かすかに水音が聞こえる。

「待ってよ」

私が文句をつけても、彼は軽快な足取りで山道を前進する。流行を気にして白いスニーカーなんかで来るんじゃなかった、とさっそく土に汚れた足先を見て私は後悔した。

特急列車を使えば新宿から1時間もかからない、というのは確かに事実だった。ただし、それは最寄り駅までの話で、そこから先が問題だった。トレッキングと思しき観光客と何組かすれ違ったが、私たちもまた、そのように思われているのだろうか。

お呼ばれ、である。なんてったって、はじめての彼の家への。浮足立たないわけがない。しかし、その足取りはすでに重く、彼の後ろを歩くのが精いっぱいなありさまだった。おそらく今日、何かが起きると踏んで徹底したメイクだって台無しだ。私は日頃の運動不足を恨んだ。

「もうすぐだから」

彼が振り返りもせずに言う。肩で息をしていた私は、力を振り絞って顔を上げた。霞がかった視界の先に、朱塗りの立派な建物が見えてきた。

「あれが……?」
「そう。俺の自宅」

自宅。そう呼ぶには豪華すぎる建造物がやがて目の前に現れる。彼はにこやかな表情で手招きして私を招き入れるが、当然のごとく私は躊躇する。

「えっと、ここ実家? ていうかご両親は? てっきり向かうのがアパートかどこかだと思ってて、だから私、こんな格好で、えっと」

私は彼の両親に初対面するにはカジュアルすぎるチェック柄のチュニックとデニムパンツを指さした。それを見た彼が、「あっははは」と声を出して笑った。すると瓦屋根の隅角にとまっていた鴉がこちらへやってきて、「よう、帰ったか」と彼に話しかけた。――話しかけた!?

私が目を丸くしていると、鴉はさもありなんといった表情でこちらを見た。

「現代の日本人がちょんまげをしていないのと同じだよ。今どきの天狗は高い鼻をしていない。大学にだって通っちまうのさ。お嬢ちゃん、天狗とおつき合いとはまた、面白い道を選んだねぇ」

え、え?

彼はひらりと脚をしならせ、主棟鬼飾りの上に立った。その身のこなしはまさに、天狗のそれだった。そうして彼は山の斜面に向かって、

「好きだーっ!」

と叫んだ。私は呆然として、そのやまびこをしばらく聞いていた。薫風すら、まるで私たちを冷やかしているようだった。