天体観測

秋川浩輔あきがわこうすけは自分に課せられた使命を自覚して以来、規則正しい生活を心がけている。風邪など引くわけにはいかないからだ。

毎晩していた晩酌もやめた。惰性で動画を観るのもやめた。毎朝6時に起きて、新聞に一通り目を通す。もちろんネットニュースもチェックする。その日も「それ」についての報道は載っていなかった。

そのことを確認すると、いつもと同じ通勤電車に乗り、いつもと同じく人々の内包する疲労や苛立ちを肌で感じながらF/1えふぶんのいち揺らぎに身を預ける。

浩輔は四十路を手前にした美容師だ。学生時代からの友人が経営する小さなヘアサロンに勤めている。遠方に両親と妹夫婦が住んでいるが、浩輔は独身である。

この日は、見事に腰のあたりまである緑の黒髪をさらりと流した若い女性客が来店した。女性はなぜか浩輔を指名した。聞けば、ヘアドネーションのためにここまで伸ばしてきたのだという。

とても丁寧に手入れされた髪だった。ウィッグにするには打ってつけだが、切るのをためらうほどの艶めきがあった。浩輔がハサミを入れる瞬間、その女性客が祈るように手を組んだので、思わず浩輔は手を止めた。しかし、女性客が「お願いします」というので、浩輔はハサミを動かした。

はらはらというよりざくざくと髪が切られていく。この髪が、いずれ誰かが使うウィッグとして再生されるのだと思うと、浩輔は自分に課せられた使命のことを思い出して、内心で深いため息をついた。

さっぱりとベリーショートヘアになった女性客は、嬉しそうに店をあとにした。


浩輔が暮らしているマンションのダイニングは、使命を果たすためだけの場所となっている。仕事から帰ってきた浩輔は、すぐにその部屋へと向かった。この日は晴天だった。夕焼けがきれいに見えたので、明日も雨は降らないだろう。

浩輔は己の使命について、誰にも話したことはない。話したところで一笑に付されることが目に見えているからだ。

その部屋には、天体望遠鏡が置かれていた。浩輔はスーパーマーケットで買ってきた肉じゃがと炊いておいた白米、それに長ネギを刻んだ味噌汁を手早く作って夕飯とした。いただきますもごちそうさまも、きちんと手を合わせて言う。

ベランダに続く窓を開ける。冬の夜よく澄んだ空気は、浩輔の肺にもよく沁みいった。深呼吸してから、浩輔は天体望遠鏡を覗き込む。アンドロメダ座大銀河がすぐに見つかる。秋の四辺形からたどれば、比較的見つけやすい。浩輔はしばし、その銀河や周縁の闇に見とれた。

宇宙ではいまこの瞬間も、無数の星が生まれては消えていっている。まさに命にならんとする星を見つけるたび、浩輔に恍惚が訪れる。浩輔には、規則正しい生活が必要なのだ。

レンズ越しの浩輔の視界に、オリオン座大星雲が入ってきた。オリオン座に位置する大散光星雲で、地球からの距離は約1300光年あるとされている。1300光年。その果てしなさに、浩輔はもう二度と逢えない人を想って何度もまばたきした。

人は死んだら星になる、なんて他人が聞いたら馬鹿にしそうなことを本気であの子は信じていた。だから浩輔も信じることにした。この宇宙のどこかで、新しい星が生まれる。それはつまり、誰かの死を意味するのだ。

「……ランパトカナル」

浩輔はぽつりとつぶやく。ラ、ン、パ、ト、カ、ナ、ル。言葉から意味を除いてなお残る温度こそ、命のそれである。

あの子はこの宇宙のどこかにいる。だから、浩輔は寂しくなどない。浩輔はこの日も天体望遠鏡を覗いて、しばし心身を星にいだかれた。


数日後、ヘアサロンに先日の女性客が訪れた。今度は髪を染めてほしいとのことだった。染めるのなんて学生時代ぶりです、と女性客は笑った。

明るめの茶髪に仕上げると、初めて会った時とだいぶ印象が変わって見えた。どこかで見たことあるような——

「わぁ、素敵な仕上がり!」
「お客様。7日以内でしたら、万が一お気に召さない場合にリペアさせていただきます」

浩輔がビジネスライクで伝えると、女性客はころころと笑った。不思議な客だな、と浩輔は思った。

あいにくの雨だった。今日は星を見られそうにない。そんな日はいくらでもあるので、浩輔は早めに眠ることにした。寝る前に翌日の天気を確認しようとスマートフォンを手に取って、なんの気なしに写真アプリを開いた。

アルバムの中に収まる、かつてのふたり。おどけた顔、すまし顔、なによりも笑顔。そこにはさまざまな表情をするあの子が残っていた。

浩輔はすぐに目を逸らすと、スマートフォンをリビングに置いて寝室のベッドにダイビングした。

「ランパトカナル」

寂しくなど、ない。


それからさらに数日後、またあの女性客がやってきた。てっきり染め直しを求められるのかと思いきや、今度はトリートメントをお願いしたいのだという。

サロンの経営者でもある友人には、あの子はお前に気があるんじゃないか、と茶化され、同時に客には手を出すなよ、と警告もされた。

トリートメントを終えてさらさらになった髪を女性客はずっと触りながら、何度も浩輔に礼を述べた。

それからさらに数日後、サロンの閉店準備をしていた浩輔の前に、その女性は現れた。浩輔が「すみません、今日はもう閉店で」と伝えたが、女性は「いいえ、違うんです」と答えた。

「あなたのおかげで、ヘアドネーションもできました。いいイメチェンにもなりました。でも……」
「はい?」
「あなたに会う口実がなくなってしまいました」

浩輔はため息をつくのをどうにかこらえた。やはり、この女性は下心でサロンに通っていたのかと。

「まだ、ちゃんと伝えていませんから」
「……そういうのは、ちょっと」
「違います。たぶんあなたの想像とは」
「え?」

女性はにっこりと笑うと、浩輔にとって意外なことを口にした。

「見つかりましたか? 星」

浩輔は閉店準備の手を止めて、まばたきした。

「あなたはずっとある星を探している。まだ名前のついていない星を」
「……なんで、そのことを」
「見つけたら、名前をつけるんですよね。それがあなたの『使命』だから」

浩輔は呆然とした。この女性はいったい何者なのだろう。

「ここまでショートで茶髪なんて、学生時代ぶりって言いましたよね、私」
「え、ええ」
「人は死んだら星になる。だったら、星が死んだらどうなると思いますか?」
「……え」
「命になるんです。あらゆるものは、ランパトカナルに還る」

それを聞いた浩輔は、何度も頭を横に振った。

「その、言葉は、だめだ」
「寂しいときには、しっかりその気持ちと向き合ってあげて。それもあなたの一部だよ」
「やめてくれ」
「浩輔。私、伝えられなかったから」
「やめてくれ」
「いつか新しい星が生まれるときに出逢えたら、必ず私の名前をつけてね」

浩輔はまぶたを固く閉じ、「やめてくれ」と繰り返した。それから次に浩輔が目を開いたとき、そこにもう女性の姿はなかった。浩輔はその場にうずくまった。

そうだ。ずっと寂しかった。心のどこかではわかっていたけれど、浩輔は自分で自分に「使命」を課すことでその感情にずっと蓋をし続けてきた。だって、寂しいと感じてしまったら、きみを失ったことを認めることになってしまうじゃないか。

ランパトカナル、ランパトカナル。

遺された者は、それでも生きていかなければならない。どんなに無様でも、どんなに苦しくても、たとえ上手に生きられなくても。


凍てついた空気を静謐に照らす星々に、今日も浩輔はレンズを向ける。いつか出逢える、いやもう出逢っているあの子を見つけるために。

その時がきたら、泣いてもいいかい。