私が歌えば、人々は皆、自ら滅びを選んだ。私の歌声は、人々を激しく惑わすのだ。
しかし、そのことを私が望んだわけではない。私はただ、歌うことを愛し、歌うことに喜びを感じていただけなのに。
私を捕らえるべきという魔女キルケの進言を、オデュッセウスは取熟した。果たして今、私は薄暗い地下牢に閉じ込められている。キルケによって、歌を歌うと死ぬという呪いをかけられて。
日に一度、食事を差し入れるために兵士がやってくる。兵士たちは軒並み、耳栓をしているので会話は一切ない。沈黙を強制されて、私はいつしか自分の声も忘れていった。
ある時、やってきた兵士はいつもと様子が違った。私に飲み物を差し出す際、「どうぞ」としゃべったのだ。見てみると、耳栓をしていない。
「こんな場所にいては、退屈でしょう。今日は、新月です」
「貴方は、私が怖くないのですか」
「何人もの人間を歌声で惑わし、死へと導いた恐怖のセイレーン。貴女はそう呼ばれていますね」
「ええ」
「恐怖とは、極めて主観的な概念です。違いますか」
「そう、でしょうか」
「僕には、願いがあります」
「願い?」
「はい」
その兵士は兜を外すと、美しいブロンドの髪をほどいて玉貌を現した。
「貴方は……!」
私は思わず言葉を失った。目の前にいるのは、オデュッセウスとキルケの息子、テーレゴノスだったのだ。
「貴女は、僕の願いを叶えてくれる」
テーレゴノスは寂しげに微笑むと、兜を深く被って去っていった。
それから、日に一度やってくるのは、兵士に変装したテーレゴノスになった。自然と私たちは言葉を、心を、想いを交わすようになっていった。
「春が近いようです。今日は南風が強かった」
「ああ、浴びてみたい」
そんな日々が続いた、ある夜のことだ。
「今日は、満月です」
「やはりそうなんですね。地界の獣たちの鳴き声が鋭いから」
「獣、か……」
テーレゴノスは、ふと目を伏せた。
「それは僕のことかもしれません。僕に流れる血は、生まれた時から呪われているのです。いずれ、僕は父を殺してしまう。そのことを自覚してから、今ここに生きていることが、どうしようもなく厭なのです。しかし、母の魔力により自害することさえ叶わない」
「……そう」
「セイレーン。今日は、今日こそは、僕の願いを叶えてください」
テーレゴノスの頬を、一筋の涙が伝う。私が意を決することは、この日々のおかげで、容易いことだった。